第19話

「マジか? これどういう権限だよ」


 驚いて顔を上げると、同じように驚いた表情のエディナがエレベーターの階数表示を見上げていた。

 彼女はそのまま後ろに身体を傾けて車椅子を後退させ、ネクタイでも引っ張るみたいに手招きしてロストをエレベーターから引き出す。


 ロストの背後でドアが閉まり、スムーズに階下へと降りていくとエディナは胸元に手を当てて安堵のため息をついた。


「また壊しちゃったのかと思った」


「こないだ、点検で使えなかったのってあんたのせいか?

怒鳴るだけで壊せるなら、あいつらの頭も吹っ飛ばしてやればよかったのに」


「まだ使える頭もあるの」


 エレベーター前の広場には低めの木製テーブルや丸い木の椅子があえて乱雑に配置されている。

 エディナはテーブルの一つに車椅子を寄せるが、椅子が邪魔だ。

 ロストは椅子を蹴倒して車椅子の入れる場所を作る。


「いちいち騒がしくしないとなんにもできないの?」


「雰囲気に合わせてる。社員の鏡だろ。んなことより会議はいいのかよ」


「あなたと同じ、カット・グラスの話が終わったら出て行け、よ」


 エディナは腰回りを固定している背もたれのロックを外してくつろぐ。

 エディナの着ているタイトな袖無しのワンピースはダークブルーで、胸から上は白くて涼やかだが、石造りの壁に囲まれた雰囲気の中では寒そうだ。


 物憂げに頬杖をつき、口元に寄せた小指で唇をそっと撫でる繊細な仕草は、意外にレディ・クホリンになった彼女と違和感がなかった。

 レディのときに怒りに囚われているように、迷いに囚われて言葉が出ない。


 ロストも同じだ。エディナを前にして何を言っていいのかわからない。

 画面越しに背中に触れたときの共感が指先に蘇り、太い血管が繋がっているみたいにこめかみが疼いた。


「あの写真、どうして私に送ったの?」


 迷うほどの言葉じゃない。本当に訊きたいことはそれじゃない。


「調整だよ。あんたがカット・グラスの捜査をしたがってるのは見ればわかる。

それをやりやすいようにするのが俺の仕事だ」


「情に訴えるやりかたをすると侮られるのよ、女は」


「男だったら相手にされねえ。女でよかったな。

おまけに足も不自由だなんて最高じゃん」


「あなたを殺したいと思ったのは二度目」


「区議会議員じゃあるまいし、できもしねえこと言うな。

スーツ着てねえあんたなんざ、ただの車輪つき赤毛かつらだ」


 エディナが身をすくめたのは予想外の反応だ。

 怯えでも怒りでもなく、軽く目を見開いて、ロストから見える肌を少しでも隠そうとするかのように二の腕を抱く。

 徐々に、心の中を見透かされたみたいに彼女の頬が紅潮する。


「だったら、どうして──」


 声が裏返りそうになってエディナは胸に手を当てて呼吸を整える。

 自分を強く見せようと必死な、十代の少女みたいだ。


「このままの私が無力だと思ってるならどうして、捜査できるように手伝ったの?」


「さあな」


「恩でも売ってるつもり? それとも死んだ仲間を侮辱した償い?」


 どちらでもないが、適当な嘘も思いつかない。両方にしておこう。


「両方だ。あんときは悪かった。俺もちょっとまいってたんだ」


 ついでに真面目な顔で謝ってみると、エディナはゆっくりと内部の圧力を調整するみたいに息を吐いた。

 赦しはしないが謝罪は受け入れるというふうに大きくうなずいてみせる。


「で、調整班としてカット・グラスの捜査の見込みはどれくらいあると思ってる?」


「まったくないね」


 少しは期待していたようで、彼女は呆れたように口を開ける。

 その彼女の口から飛び出したみたいに騒音が鳴り響いた。


 テーブルに置いてあったロストのパッドから悲痛な歌声が流れている。

 設定をドギーに任せたせいだ。


「あなたのパッド、歌ってるけど?」


 パッドにはムラサメの写真と名前がめいっぱい大きく表示されている。


「同僚からの連絡だな」


「激しく運命を呪ってるみたいだけど」


「緊急なのかな」


 エディナは歌に合わせてハミングしながら車輪を回してテーブルから離れ、ロストに出ろと言うように指を鳴らす。

 わざわざ離れることに何の意味があるのかわからないが、彼女なりに気を使っているのかもしれない。


 仕方なくロストがパッドの画面をスライドさせると、歌と同じくらい悲痛なムラサメの声が響く。


「あ、ロストだ。ロストは出た。やっぱドギーは使えない。助けて、今すぐ来て」


 ロストは音量を落とそうとするが、通話中の操作の仕方がわからない。

 できるだけパッドを身体で覆い、こめかみを押さえるふりでエディナの奇異なものを見る視線から顔を隠す。


「何があった? できるだけ小声で言え」


「そんな余裕ないの、声でわかりません? 

説明なんていいから走って。走り続けて。でないと私、売られる」


 ロストが通話を切り、パッドを裏返しに置くとエディナがテーブルに戻ってくる。


 聞こえないふりをしてくれるのかと思ったが、真面目な表情でロストをまっすぐに見据えて説明を求めた。

 さっきの多感な少女みたいな目元の揺らぎはどこへ行ってしまったのか、いつのも高圧的なエディナだ。


「興奮しやすいたちなんだよ。雨なんか降ったりすると珍しくてずっと笑ってる。

まあ、たいしたことないだろうが、ちょっと行ってくるから話はまた今度、機会がないだろうから、これで終わりな」


 エディナはロストが言い終わる前に車椅子を回し、祈るように目を閉じてからエレベーターに乗り込んでロストを手招きする。


「早く乗りなさい。あの子を助けに行くんでしょ」


「そんなそんな、そっちはあんたが使ってくれ。俺はこっちの共用ので行くから」


「私も一緒に行く。あのフェイは私が拾ったんだから私のものよ」

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