第54話
「今度はあなたの前で誓う。私は必ずカット・グラスを捕まえる。たとえそれが、私のヒーローとしての最後になっても」
シュリの父親は地面に両膝をつく。車椅子に座ったままのエディナと目線の高さを合わせ、彼女の目を覗き込んで唇を引き結び、怒りを飲み込む。
目的を果たしたのはシュリの父親のはずなのに、満足そうにうなずいたのはエディナだ。車椅子を反転させ、演壇には戻らずにロビーに続く長いスロープを上がる彼女の背後で自然と拍手がわき起こる。
彼女をロビーで迎えながらロストも拍手した。ロビーでモニターを見つめていた他の社員たちの手前、そうするしかない。
ロストは社員たちに手を振るエディナの後ろにつき、耳元で囁く。
「調整班の部屋に来てくれるか? 話がある」
「私のオフィスでも話はできるけど」
「あんた以外の人間も入る。俺たちの部屋のほうが安全だ。ムラサメ、そっちに戻る。もう通信は切っていいぞ」
「会議に戻らなくていいんですか?」
「どうせもう終わってる。お前、ちょっと上まで行って室長に会って会議の結果を訊いてこい。直接だぞ。他には誰とも話すな」
「エディナが来るのに、お茶も用意するのに」
エレベーターのドアが閉まると、エディナは髪を束ねていた髪留めを外し、背中側に髪を投げ出す。ため息をついて首を回し、リラックスした様子で頬杖をついた。
「ずいぶん警戒してるのね」
「シュリの父親を仕込んだのはレナドだ」
エディナは逆に知らなかったのをバカにするみたいにロストに微笑む。
「レナドはまだ私のことを潰したがってたのね。私っていうより、モリグアイか。あれが世間の目に触れてるっていうのが許せない」
「シュリの父親は効果的だったよ」
「私の対応、どうだった?」
「もちろん満点だ」
「本気で言ってる? 私がやったことは靴投げてきた相手に靴投げ返すみたいなことだけど」
「見事なコントロールだった。投げ返したなら、ちゃんと当てないと。そういう意味で満点」
エディナは眉を奇妙な角度で曲げ、慎重に車椅子を回転させてロストの顔を覗き込む。ロストの目を見て、今のどこが皮肉だったのか考えている。
「誓ったのが気に入らない?」
「いや。どうしてそう思う?」
「ゲッシュだから」
「ゲッシュって何だ?」
「誓いのことよ。私の名前、レディ・クホリンのもとになった英雄、ク・ホリンが活躍する伝説の中では、戦士たちはゲッシュという誓いを立てた」
「へえ、そいつはどんなゲッシュを?」
たぶんそれがエディナのとっておきのジョークなのだろう。自分で言う前から笑ってしまっている。
「犬を食べない」
わざとらしくならないように、でも失望させないように苦労して笑ったのに、彼女は何が面白いのかわからないというふうに首を傾げただけだ。まるでロストがつまらないジジョークを言ったみたいだ。
「そんなに面白い話じゃない。それに、このゲッシュのせいで──」
ロストはエレベーターの減速を感じてエディナの言葉を遮る。
「もう着く。無理に笑顔でなくてもいいぞ。今のあんたの状況なら、少しくらい深刻な顔してるほうがウケる」
最後まで喋らせてもらえなかったのが不満なのか、エディナは唇を曲げ、ロストから顔を背ける。以前より怒らなくなったが、ナイーブになったようにも思える。表情から感情を読み取ってもらおうなんて、以前は期待しなかった。
ロストが先に立って社員たちとの交流を制限し、調整班の部屋へと直行した。エディナはロストを押しのけるようにして部屋に入ってくる。
勢いよく反転して車輪で邪魔な段ボールを移動させる。いちいち大きな音をたてることから推測すると、それもたぶん何かの感情表現だ。向き合ったエディナは殴ってみろと言わんばかりに顎を持ち上げる。
「怒ってるんでしょ?」
エディナの予想外に大きな声が聞かれないように素早くドアを閉める。
「何の話だ?」
「ここならもう誰にも見られないし聞かれない。気味の悪い顔もしないでいい」
「気味悪いか? 俺の顔」
「さっきの薄笑いの話よ。今までで一番の嫌がらせだった。あんな顔されるくらいならバカだなんだって言われるほうがまし」
「シュリの親父のことならあれでいい。それよりレナドだ。あいつがどうしてあんたの活動を邪魔してんのか教えてくれ」
エディナは首と両手を振ってロストの言葉を遮る。
「ちょっと待って、ほんとやめて。あれでいいわけない。ヒーローが犠牲者の遺族と会うのは非公開でやるのが常識。失敗と無力を晒すだけになるものね。そのくらい私でも知ってる」
ロストも知ってる。だから止めようとしたが、彼女がシュリの父親の前で誓った後は焦りが消え、これでいいと思えるようになった。エディナらしいと。
ムラサメに指示を出しているとき、ロビーを走っているときも、心の醒めた部分がこうなることをわかっていた、あるいは望んでいた。
いや、もっと前、シュリの皮を剥いでいるときからだ。あのときの現実と夢を行き来するような、幸福感と罪悪感を交換してしまっているような感覚が残っている。
「あんたが言いたいこと言えよ。俺がその通りにしてやる」
エディナの横をすり抜け、久しぶりに戻ってきたロストの机にイルカはもういない。凪いだ海の背景は平らで、湖面のように静かで写真と変わらない。
「ねえ、それどういうこと? 私がやったことも、やろうとしてることも、全部あなたがレールを敷いてるとでも?」
「違う。俺が変えるのは周りからどう見えるかだ」
「周りからどう見られたって私のやることは変わらない」
背景にしていた海を消した。無機質な白い画面に、業務連絡を知らせるアイコンが点滅しているだけになった。
「それじゃダメなんだ。あんたはヒーローじゃなくなっちまう」
「へえ、私がヒーローかどうか、あなたが決めるのね」
「違う」
画面を見つめていると、目の前の白が画面の外にまで広がっていき、何が違うのか自分でもわからなくなる。伝えたいことが確かにあるのに、伝えようとすると舌がもつれて言葉にもならない。
「大丈夫? あなた、ここ何日かヘンよ。口数も少ないし、原稿の推敲のときだってまともなことしか言わなかった」
「ヘンなのはあんただよ。俺を秘書にしたり、調整班をレッド・ブランチから独立させたり。会社の一部を私物化してる」
「なに? 昇進が不満なの」
「俺みたいなのは、いつもあんたの側にいるべきじゃないって思うよ」
「その、俺みたい、ていうのをちゃんと話してくれないのね」
机に手をついて、エディナが斜め下からロストの顔を見上げている。間近で彼女の顔を見ると一瞬、息が止まる。
髪から赤色が抜け始め、頭頂部から流れ落ちるように本来の白っぽい金髪が現れると、その色の変わり目に指を通して、目を閉じて、指先の感触だけを感じていたいと心から思った。
エディナしばらくの間、ロストが話すのを待っていたが、やがて簡単にうなずいて机から離れる。
「まあ、いいわ。今日はこれからレッド・ブランチで捜査会議だからもう行かないとね。初回に私が遅刻じゃいい笑いもの」
「そうだな。車を回すよ」
「一人でいい。向こうにはドギーもいる。あなたは何だか私と一緒にいたくないみたいだし、一人にしてあげる」
車椅子が反転した後も一呼吸の間、エディナの視線がためらいがちに向けられているのを感じていた。
ロストは業務連絡のアイコンに触れ、わかりきった内容の文章を次々と開いていく。忙しくてエディナに構っている暇がないみたいに。
離れていく車輪の音が焼け付くような轍の跡を胸に残し、堪えきれず、エディナが出て行く前に声をかけた。
「シュリのこと、残念だったな」
電気が走ったみたいにエディナの指が痙攣し、彼女は唐突に以前の、自分も周囲も焼き尽くす激しい感情を瞳に宿らせてロストの視線を釘付けにする。
「ジャーナリスト気取りの勘違いしたガキだった。てめえのインタビューで殺されたんなら本望だろうよ」
エディナの口から出たのは別人の言葉だ。ロストが、沈黙の代わりに用いていたものだ。
「あなたはひどい言葉で相手を怒らせて本心を悟らせないようにしてた。それができないなら、言えない秘密があるなら、せめて気づかれないようにして」
以前なら拳で叩き付けていた怒りを、彼女は外に出さずに静かにドアを閉めていった。彼女を変えたのは自分だと思うと、少し誇らしい気持ちになれた。
「話したら、あんたは俺を殺すよ」
白い画面をずっと見つめていると眠りに落ちていくような感覚に襲われる。意志に反して瞼が落ちて頭を垂れる。
秘密なんかじゃない。ロストはただ、彼女にヒーローでいてほしいだけだ。秘密ではなく、願望だ。空洞を何もない空白で埋めようとするような、無意味で飢餓にも似た願望。
記憶を失う前の自分が残したただ一つの遺産であるかのように、なぜそこにあるのかもわからない願望だった。
アシスタント 岡田剛 @okadatakeshi
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作者
岡田剛 @okadatakeshi
1979年石川県生まれ。2004年『ゴスペラー』(朝日ソノラマ)でデビュー。 他に『準回収士ルシア』(徳間書店)『ヴコドラク』(早川書房)『13番目の王子』(東京創元社)を出版。 もっと見る
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