第16話
レッド・ブランチのような地域保安サービス会社を運営するには、いくつかの条件を満たす必要がある。
シティに本社があり、一定以上の法人税を納めていることは前提として、市民として認定されている社員数、地域奉仕活動時間、GCCにかけるコストの割合等々。
要するにクリーンでクリアな大企業でなければならない。
もちろんこれはイメージの話。
そんな素敵な企業がどうして警察力を欲しがる?
CVヒーローはそういった企業のイメージアップに今や不可欠だ。
市民を守る姿勢を打ち出し、体感治安を高め、派手な活躍は区議会議席を巡って摘発しあう企業の権力闘争を覆い隠してくれる。
アスリート出身のCVヒーローは多く、そのほとんどがオリンピアン、世界ランカー、プロスポーツのトッププレイヤーなどだ。
そんな中ではレディは異色で、国際大会で決勝まで残れない、目立った活躍のない水泳選手だった。
事故に遭い、下半身麻痺となった後、リハビリを追ったドキュメンタリーが人気を博した。
当初はイス・ウォーターの貧困地域でのプール整備事業のイメージキャラクターとして契約している。
その名残か、CVヒーローとしてはメディア露出の高さはモデルとしても活動するゴールディに比肩する。
ロストは本社ビルの壁面に映し出された、イス・ウォーターが宅配する水を飲んでいる彼女を見上げている。
ノースリーブのスポーツ・ウェアを着て首を傾ける彼女の汗ばんだうなじを見たら目が離せなくなった。
後ろから歩いてきた社員たちが控えめに笑いながら通り過ぎていく。
朝っぱらから困ったファンだ。
忙しい出勤時間にも関わらず、ロビーでは多くの社員が足を止め、モニターに目を向けていた。朝からカット・グラス再来のニュースが繰り返し流されている。
皮膚がガラス化していたせいで、被害者がオーファンだったことはまだわかっていないようだ。
会議で口を滑らせないように注意しよう。
ロビーで足を止める社員が多いことで人の流れに不規則な停滞が起こって、エレベーターが混雑している。
「よーせー、よーせーですよー」
次のエレベーターを待とうとしていたロストの耳に奇声が届くが、ロストは無視してエレベーターに身体を押し込む。
慣れない会議に出席しなくてはいけないのに、奇声を上げるフェイの相手なんかしてられない。
ムラサメが脇目もふらずに突進してきたおかげでドアは閉まらず、乗っていた社員たちも降りていった。
フェイがわけのわからないことを叫びながら走ってきたら誰でも避ける。
「お前ら、保険かけときたいくらいまともだぜ。会社をよろしくな」
ムラサメを乗せて閉まっていくドアの隙間から社員たちを激励し、ロストは顔を近づけてくるムラサメを押しのけた。
興奮すると他人との距離を見誤る。
今日は寄宿舎学校の制服みたいなブレザーを着ていて、余計に子供っぽい。
「聞きましたか?」
「カット・グラスだろ。昨晩、現場にいた」
「カット……なに?」
「お前、昨日の俺並みにアホだな」
「妖精なんですけど」
ムラサメは自分の話したいことをまず話す。
興味の対象が絞られると途端にそれ以外の情報が遮断されるのは、個性を持ったAIがその個性を保護するために情報を選別するのに似ている。
「昨日、尋問の映像を見たんです。
ドギーに先に報告しなきゃなんですけど、我慢できないので話しちゃいますね」
「いいけど、俺だけにしとけよ」
「他に誰に話すんです?」
「誰にも話すなって言ってんだ」
「わかりにくい」
早口で文句を言ってから唐突に驚いた表情を作って自身の興奮を再現する。
「いえ、映像には映ってないんですけど、そこにいる尋問官の人はものすごくびっくりしてるんです。
飛んでいる妖精を払いのけようと、手まで振り回して。
勤務中の飲酒や薬物使用の疑いはないですし、あれは本物です。心配なのが──」
「お前、ちょっと黙れ」
エレベーターが止まっても話を続けようとするムラサメの顔を片手で掴み、調整班の部屋まで引きずっていく。
普段は気にならないが、直接肌に触れるとフェイという連中が人間ではない事実に背筋が寒くなる。
基本の体温が十度以上も低く、吐息も冷たい。
皮膚も磁器のように滑り、ほお骨に指を引っかけないと掴んでいられなかった。
本物の妖精がいるというならこいつらだとロストは思う。
オフィスの風景は昨日とあまり変わらず、ロストたちを気にもしない。
「あの人たちは私たちの仕事に興味なんかありませんよ。
興味を持たないようにしていると言ったほうが正しいでしょうか。
関わり合いになりたくないと思っているんです。かわいいですね」
「お前が気持ち悪いんだよ」
ムラサメを部屋に放り込み、ドアを閉める。
彼女を離すと手が汚れているような気がしてロストはズボンで手を拭く。
ムラサメはロストが手を拭くのを見つめ、その自然な仕草に含まれる差別を理解したくなくて無表情になる。落ち着いてくれていい。
「何が心配だって?」
「尋問した人。自分に妖精が取り憑いたって言うんですけど、どこにもタトゥーはありませんでした」
ロストは適当にうなずきながらパッドを操作し、過去のカットグラスの資料を集める。今日はイルカがいない。
「感染するならそいつは隔離だな。何にせよ、手の込んだタトゥーだ。
まずは意匠化されたコードって線で調べてみろよ」
「ロストは?」
「俺は会議だ。ドギーの仕事なんだが、今日はレッド・ブランチから動けない。
代わりに俺が報告と提案をやる……提案……提案って何すんだ?
とりあえずいい感じにやろうぜって感じか?」
「とりあえずいい感じにならないですね」
「あ、くそ、そうだなって思っちまった」
「エディナは来ます?」
「いるに決まってる。だから気が重いんだ。わかるか?
気が重いとか沈むとか、お前らにはちょっぴり難しいか」
「来るなら私も会議に出たいです」
「なんで?」
「この服」
ムラサメはその場で一回転してみせる。
紺色で統一されたブレザーとスカートが似合っていない。
「エディナが私を拾ったときにくれました。覚えてないって言われてから、たぶん私は気が重いので、思い出してくれたら治るかもです」
ロストはジャケットの裾をつまみ、指で材質と厚さを測る。
断熱性の高い化学繊維と綿。気温の高いシティで着るには暑すぎる服装だった。
きっとエディナもムラサメの肌に触れた。
冷たくて、ずっと触れていたら氷みたいに溶け出すんじゃないかと罪悪感すら感じる感触に驚いて、暖めようとした。
ロストは服に残ったエディナの優しさを、指先がなぞってしまう前に手を離した。
「他人に期待すんな。俺たちがここにいるのは、誰も見向きもしないクズだから。
お前が本気でレディの役に立ちたいなら、エディナは忘れろ」
「忘れ方がわかりません」
ロストは軽くため息をついて彼女の無邪気さに頭を垂れる。
ときどき救われて、ときどき嫌になる。
「そっか。でも会議には来るな。うぜえ」
「あ、わかった。シュークリーム忘れた言い訳ですね?
グダグダとめんどくさい人ですね」
「冷蔵庫ん中を見ろ」
ドギーの群れに対する忠誠心にだけは期待して良い。
書類棚の横に置かれた正方形の小さな冷蔵庫をムラサメが開けると、三つのシュークリームが入った透明なプラスチックケースが入っていた。
三色で違う花の乗ったシュークリームを見て、ムラサメは徐々に甲高くなる悲鳴をあげてケースを抱きしめる。
飛び抜けた感情は痛いのだと前に聞いた。
「季節の花シリーズ、全部入り。食べたかったんですよ、これが」
「本物の花のっけてるぞ、食うのか?」
「花を食べるのは半世紀も前から常識ですよ。
綺麗なものを食べて綺麗になる。シンプルでしょ」
「そのうち人間を食う連中の発想だ。
ああ、その前にフェイだな。食われる側になる前にせいぜい食っとけ」
ムラサメはロストから守るようにケースを抱えたまま外に出て行く。
壁にぶら下がった名札は外出にしていったから、どこかお気に入りの場所で食べて、そのままタトゥーの調査に行くのだろう。
一人になって、イルカもいないデスクで集めた資料を確認していると、一通り目を通したところでロストに上階への通行許可が下りたと知らせが入る。
ため息を一つ。それからいつもより重く感じるパッドをデスクから引きはがし、会議に向かった。
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