第5話

 ロストたちの所属する地域保安サービス会社『レッド・ブランチ』は水道・水質管理の大手『イス・ウォーター』系列の子会社だ。

 まだ制度が曖昧なころ、企業自警団と呼ばれていたのがもとになった『CV』という呼び方のほうが一般的になっている。


 イス・ウオーターの生活用水リサイクル場まで車を運転している間にドギーも落ち着いて、我慢しきれなかった涙が零れるくらいになっていた。

 二人は黙って銃とフィルムを汚水槽に放り込み、回転する水から立ち上る生ぬるい空気を顔に受けていた。

 銃は十分も経たないうちに水に溶ける。


「あの上着も処分しとけよ」


 なんとなくドギーが汚水槽に飛び込んでしまいそうな気がして、ロストは彼の肩に手を置く。


「あいつらの副業については誰も知らなかったんだ。仕方ないさ」


 背中を丸めたドギーはどんどん小さくなっていきそうで、絞り出された声は口の中に留めておけなくて漏れてきた空気の音だ。


「なんでオーファンの子供なんだ?」


「視覚効果が高いんだってよ。額にスリットのあるやつがいたろ?

ブレイン・ログを一緒に売るんだ。ブロガーだ。

見ながら脳波を同調させるとほんとにヤッてるみたいになれる。お薬もあるとなおよし」


 指先で額を切る仕草をしながら明るい声で言うロストが信じられないというようにドギーは首を振った。


「一瞬、ケイトに見えた」


「ぜんぜん違うだろ、顎の形とか歯並びとか筋肉の色とか。もっと内面を見ろよ」


「一年くらい、あの子を見てない」


「動画とか撮ってよく送ってるぞ」


「見てない。見ると辛いんだ」


 リサイクル場は半円形のドームに覆われ、街の景色を眺めることはできない。

 それでもドギーは、同じ第三階層にある娘とその母親が暮らす住宅街の方向を見つめていた。


 強い風に巻き上げられた砂がクレーターに降ってきて、白い壁から突き出た小さなベランダで眉をひそめて砂を路地に掃いている女たち。

 思い出があると、見えなくてもいい。


「帰ろうぜ。長居すると服が臭くなる」


 ドギーは両手で顔を擦り、長いため息をついた。

 疲れが心に染みこんでいくため息だ。

 汚水槽の周りを囲む、滑らかな黒い石材の床を歩きながら、ドギーはふと思い出したみたいに言った。


「なあ、もしもこの街にバットマンがいたら……」


「何だって?」


「バットマンだよ。知らないか? あの猫好きの黒い大金持ち」


「知ってる。だからお前の説明がむちゃくちゃだってわかる」


「そのバットマンがいたらな、あの子を救ってくれたかな」


「そりゃ救うに決まってる。窓をぶち破って入ってきて──」


「窓、なかった」


「壁をぶち抜いて入ってきて、俺とお前を首が折れてんじゃないかってくらいぶちのめす。そんであの子を抱えて……」


 しゅっと鋭く息を吐きながらロストは何かを投げ上げるみたいに手を持ち上げる。ドギーはその先、ドームの天井に本当に子供を抱えたヒーローがいるかのように見上げた。


「いいね。仕事が早い」


「最高だ」


「ああ、バットマンは最高だ」


 何に満足したのか、家まで送るというドギーの申し出を断り、ロストは街を流れている自動運転車両に乗り込んだ。

 ドギーを一人にするには心配だったが、人生に失望し始めた中年の熊と一緒に過ごすには脇腹が痛すぎる。


 車内は二人がけのシートが向かい合っていて、詰めれば六人くらい乗れる。

 上層の観光地を走る車両は内も外も顔が映るくらい磨かれているが、第二、三層を走る生活車両は汚れているものも多い。

 ロストは焦げ茶色のシートに得体の知れない染みがないことを確認した後、深く背中を沈めて向かいのシートに足を投げ出した。


 お疲れですか、と訊いてくる車に冗談めかして一曲頼むと言ってみる。


「ご所望は?」


「レイニー・ナイト・イン・ジョージア」


 車は少し曲を思い出した後、静かに歌い始め、車内の照明も暗くした。

 そんなに上手くはないが、ロストのために歌ってくれる。

 目を閉じて聞いていると、細かい雨の中にいるみたいに徐々に身体が冷えていった。


 仕事が終わると汗もかかないし呼吸も乱れない代わりに、指先から冷たくなる。細い血管が締め付けられ、動かせなくなって骨が凍る。

 雨に打たれているなら身体が冷えるのは当たり前だから、雨の降っている歌を聴く。雨さえ降っていれば何でもいい。


 だいたいジョージアってどこだ?


 ロストが降りるときも、車は気分が乗ったのかずっと歌っていた。ロストの家は五階建ての集合住宅の二階だ。

 同じような縦長の建物が並び、合間を縫う路地には不法移民が住み着いている。排水溝から殺虫剤の臭いが混じった蒸気が漂い、歓楽街で暖められた空気が降りてきて夜中でも蒸し暑い。


 冷えた足で階段を上ると膝に響く。

 ちぎれそうに痛い耳と顎の付け根を指先で揉みながら、自室のドアに肩からぶつかってドアノブに手を触れると鍵が開く。


 家に帰っても安心感がない。

 いつも他人の部屋に入ってしまったような違和感がある。

 すぐ右手にあるバスルームに脱いだ上着とシャツを放り込み、キッチンのクッキングヒーターの上に置きっぱなしのウイスキーを一口飲む。


 戸棚の一番高い引き戸を開け、ハーブ・キャンディーの缶に入れた錠剤から適当に三錠取ってウイスキーで流し込んだ。

 全部痛み止めだからどれかは効く。


 居間に移り、姿見で脇腹を確認すると点状の痣が広がっていた。いくつもの穴が開いて、それを湿った土か何かで塞いだみたいに鈍い痛みが染み渡る。


 ブロガーを撃ったときだ。

 どっちがどっちだかわからなくなっていた。

 顔色もひどい。目の周りが青黒く縁取られ、ウイスキーの瓶を片手に薄笑いまで浮かべ、片手をズボンの中に突っ込んでいる。

 闇夜に浮かぶ幽霊のように見知らぬ影が、幽霊を見るようにロストを見ている。


 もう寝ろ、とそいつは言う。


 一番高価な家具の長いソファに横になった。

 間仕切りの向こうにベッドはあるが、ほとんど使わない。

 肘掛けに頭を乗せてオレンジ色に淡く光る天井を見上げていると、身体が浮き上がるような感覚があり、手に持っていた瓶が滑り落ちる。


 記憶を失う前から自分は、こうやって眠っていたんだと思う。

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