第6話
目が覚めたときにはうつぶせになっていて、口から血かと思うような赤茶色の液体が零れて、粘りのある胃液の中に錠剤が一錠吐き戻されていた。
二錠で十分だった。
目の前が青白く明滅していて目眩を起こしているのかと思って顔を上げると、壁に動画が映し出されていた。
画面の隅に自動受信のアイコン。
部屋のカーテンを閉め切っていたからわからないが、すでに夜が明けて作戦が始まったらしい。
起きて見るには頭が重すぎる。
胃液と錠剤を素手で払い落とし、ソファに仰向けになった。
掃除はケイトが来たときにやってくれる。
壁に手をかざし、天井のほうへ動かすと画面も一緒に移動してくる。
映像を見やすいように貼ったシートの端が歪んでいるが、古い映像を見ている懐かしさがあって気に入っていた。
『レディ・クホリン』の動画はリアルな臨場感を大事にしている。
画面右上の隅にイス・ウォーターのロゴである、水に沈んだ王宮のマークが薄く表示されているくらいで、音楽やナレーションも入れなかった。
それでもロストは音を消して映像を観る。
音を消して部屋も暗くして集中すると彼女の視点を追える。映像に映っていないときの彼女の動きが見える。
最初に画面の右から黒いバンが滑り出てくる。
車体の横には白地に赤い枝が稲妻みたいに描かれたレッド・ブランチのロゴ。
現場は第二、三階層を主に回る運送会社の集配所で、営業開始から二時間ほど経って、その日のカーゴ・トラックのほとんどが出払っている。
大きく開いた搬送口の横にライトとラジエーターでスマイルを作ったカーゴ・トラックが二台、残されていて周囲に人影はない。
包囲はすでに始まっていて、レッド・ブランチの銃座付き装甲SUVがバリケードを作っている。
レッド・ブランチの突入班の装備は他のCVに比べて軽装だった。
防弾・防刃繊維のボディースーツは同じだが、耐衝撃プロテクターは最小限で、アシストが必要な重火器は使用しない。
オープン・フェイスのヘルメットは、連携を重視する訓練の中で隊員たちがアイ・コンタクトの重要性を強く訴えて採用された。
顔が見えると好感度も上がる。
軽装の理由は彼らの最も大切な役割がレディの補助だから。
今もSUVの影でドローンを操作して状況を確認している。
周りに高い建物がなく、狙撃手を配置しにくい。ドローンによる敵位置の確認と攻撃がより重要になる。
緊張した時間が続くかと思った瞬間、操作している隊員が口を大きく開け、何か怒鳴った。
現場に到着したばかりの黒いバンが空中に浮き上がり、ロストの呼吸が止まる。バンと中身の重量で高くは上がらないが、それでも五、六メートルは浮いていた。同時に倉庫からの銃撃が始まって、隊員たちがSUVの後ろに隠れる。
バンを撃ったのはおそらく対戦車ライフルだろう。
昨日、ロストたちが潰した取引には含まれていなかったから、別の取引先があったということだ。
想定より規模が大きい。
カメラマンが身を隠すために屈んで、再びバンを映像の中に納めたときには地面に落ちている。車の形を失った、潰れた紙細工だ。
ドローンを操作していた隊員は立ったままバンを呆然と眺めていて、隣で映像分析を行っていた隊員が引きずり倒す。
彼は安心させるようにヘルメットを叩き、SUVの向こう側を親指で指した。
その指先で映像がドローンのカメラに切り替わる。
レディが降り立ったのは倉庫に停まっているカーゴ・トラックとSUVの中間。
レディのアーマード・リムは光沢のある黒い装甲で、昼間だとすごく目立つ。
見た目は背中から巨大な黒いカラスがのしかかっているみたいで、膨らんだ首の後ろから大きなくちばしが彼女の頭部を飲み込んでいる。
頭頂部から肩はなだらかなラインで繋がり、上腕の中程から前腕を覆うリムが鋭い角度で飛び出す。
腕には細長い柵型の可動板が四枚、少しづつ重なりながら装着されている。
翼のように展開すると全身をカバーできる盾になり、畳むと肘の後ろに長く突き出す鈍器になるが、レディは邪魔だと言っている。
胸の下と背中側の腰回りには装甲がなく、ミッドナイトブルーのインナーが剥き出しだった。
背負ったカラスのせいで肥大化した上半身から比べると細い彼女自身の腰はまるで小枝。
魚の鱗のような薄いリアクティブアーマーがインナーの表面に貼り付けられていて、レディの腰の動きに合わせて煌めく。
吹き飛ぶときに発生する電磁パルスが火傷を残し、死ぬほど痛いとレディは文句を言っている。
「まいったな」
ロストは一人で呟いている。
痛み止めの飲み合わせが悪かった。バンが空中に浮いてから汗が止まらない。
レディの展開させていない左腕の羽が不規則に閉じたり開いたりと動いている。リムの人工筋肉が痙攣している証拠だ。
相当、頭にきている。
腰の後ろから太ももの前に向かって半円形の装甲が包み、足先へと向かって一気に細くなる。
脚のリムはまっすぐ伸ばしていると関節部の装甲がぴったりと合わさり、継ぎ目のない支柱のようだ。
膝下が異様に長く、ふくらはぎから伸びた蹴爪のような突起の先端が尖ったつま先と揃って地面に突き刺さる。
いや、突き刺した。
レディは左腕の羽を肘の後ろで一本にまとめ、それを手より前に出るようにスイングさせる。
レディが屈み、足が膨らんだように見えた瞬間、フレームアウト。
カメラマンが反応できなかったおかげでレディが手前のカーゴ・トラックに落ちてくるのはしっかりと映る。
まとめた羽をカーゴ・トラックの屋根に叩き付けると、中心に向かって吸い込まれるみたいにトラックが潰れる。
車を壊されたからまず、相手の車を壊し返す。
すごく直情的に動いている。
目に入りそうな汗を擦りながら死人が出ないといいなと、ロストは願う。
事後処理が面倒になるから。
銃撃が止まり、他の隊員たちがレディを援護するために走り始めると、映像がめまぐるしく変わり始めた。
三人の専属カメラマン、ドローン、隊員のヘルメットに取り付けられたカメラの映像が自動的に制御室に送られる。
そこからレディの映っているものが選別され、二つのチャンネルに割り振って配信していた。
もう一台のカーゴ・トラックの背後に隠れていた二人の男を、レディはそれぞれ片手でトラックに押しつけている。
持っていたアサルトライフルが胸に沈み、二人の舌と目が飛び出しそうだ。
トラックを貫通してきた徹甲弾を飛び上がって避け、そのままトラックを乗り越えて姿を消す。
映像が切り替わる間もなくトラックがひっくり返され、二人の男の頭上で回転し、徹甲弾を撃った男が不自然に身体を捻った状態で画面を通り過ぎる。
レディに殺意はまったくないが、相手の生死もまったく気にかけない。
淡い期待は捨てて休日出勤に備えるべきだ。
貨物コンテナの影から背の低い男がバーストで発砲。
レディは空中で回転するトラックの下をすり抜け、三発目の銃弾が発射されるより前に彼女の羽がグリップを握っているほうの腕を捉える。
打たれたのは肘のあたりなのに、全身をマッチ棒みたいに折り曲げて、開いた口から抜けた衝撃が彼の歯を吹き飛ばす。
普通なら過度に暴力的と非難されるが、レディなら許容される。いい画だ。
倉庫の奥、個人配送の箱が並んだ棚を横倒しにし、その上に対戦車ライフルの銃身が乗っているのをドローンカメラが捉える。
速すぎて一瞬しか映らないレディの後を追うように、インナーの深い青の軌跡が伸びて画面を縦に引き裂く。
ライフルの側にいるアシストリムを装着した男にまっすぐ接近している。
男はタンクトップ姿で、皮膚に電気信号の読み出しセンサーを埋め込んでいる。リムも作業用を改造した違法リムとは違う。
胸と脇腹のフックでライフルを固定し、上半身と足のリムを一体化させて衝撃を受け止める、軍事用の重火器アシストリムだ。
右腕に装着した楕円形のリムと不透明なフェイスマスクは有線で繋がり、照準をつける腕の動きをアシストしてくれる。
足の外側に衝撃吸収ゲルに包まれたパイプが装着され、膝のサポーターが関節を固定して狙撃精度を増す。
レディは二つの棚に挟まれて正面に誘い込まれている。
ライフルの先端、六角形のノズルから黄色い炎が吹き出し、ガスベントの吐き出す蒸気のような高圧ガスが男の姿を隠した。
自動照準でもレディの動きは追えない。
つま先と蹴爪で棚の板を挟んで倉庫の天井近くまで駆け上がっても、棚自体はほとんど揺れない。
映像に収まっていても直感に反した動きは一瞬、彼女の姿を見えなくしてしまう。
上下が反転したみたいに斜め上から降ってきた蹴り足がガスを散らし、蹴爪の先のプラズマ・トーチが対戦車ライフルの銃身を焼き切る。
拡散したガスにオレンジ色の光が広がって、男の脚部リムに足を絡ませ、獲物を空中に連れ去ろうとするカラスのような影を描く。
カラスが両翼を開いてガスを吹き払うと、二人の姿が画面の中央に捉えられる。
ズームを使用していなくても顔が見分けられるくらい近い。
周囲の制圧が予定より早く進んで、隊員が近くにいる。
男の身体を斜めに横断したレディの足が二カ所で折れ曲がって男の脚部リムに絡みつき、ゲルの詰まった袋を破裂させてパイプを噛みちぎる。
ライフルから手を離した男の手はナイフを抜いているが、レディの左腕が翼を展開して押さえ込んでいる。
右腕の羽が重なりながら男の頭を横薙ぎにし、仰け反った男のフェイスマスクを跳ね飛ばす。
男の顔が正常な状態で映ることはない。
リムから外れたレディの腕が伸び、生身の手で、揃えた人差し指と中指を男の左目に突き入れる。
その瞬間、ロストの目に指が突き入れられたように疼き、足が跳ねる。
レディは眼窩に指をかけて男の頭を引き寄せ、カラスのくちばしに叩き付ける。
「お疲れ様でした」
男の肩に生身の手を乗せ、上から潰れた顔面を覗き込みながら、水に沈めるように押し潰すレディを、ロストは両手を挙げて賞賛する。
汗で濡れたソファから背中を引きはがすと、脱糞したかのような滑りを尻の下に感じた。
数人の隊員が捕縛した男たちを壁際に並べているのをカメラが映し、ロストはその顔を一つずつ指していく。
レディ、レディと歌うように口ずさみながら。
頭にスリットのある汗まみれの麻薬中毒者はいない。
俺が殺したから。
半透明の皮膚に、歯形と手形が浮いた少女もいない。
俺が殺したから。
そういうのはレディの前には相応しくない。
容赦のない暴力が爽快感に転化されるような相手だけいればいい。
「レディ・クホリンはヒーローだ」
行き場のないロストにドギーはそう言った。
「自分に誇りが持てないなら、みんなが誇りに思っている人を手伝うといい。そうすればいつか、自分のことも誇りに思えるようになる」
レディはカメラに背を向けて倉庫を出て行く。
他の隊員に接触しないし、カメラに向かって何か言うわけでもない。
戦闘が終わっても消えない怒りで、首の下から背中を覆う装甲が睨むように歪んでいた。
去っていくとき、いつもレディは一人で、ロストは画面に収まりきらない彼女の影の中に立ち尽くす。
髪の先から垂れた汗が、目に見えなくて音だけ聞こえる雨みたいにフローリングの床を塗らし、雨の匂いと結びついた寂しさを連れてくる。
見覚えのない寂しさが雨で冷たくなった手を、震える迷子の心臓に置く。
ガラスのテーブルに乗って天井に、画面の真ん中で小さくなっていくレディの背中に指先で触れた。
シートの滑らかな感触に、装甲の下の肌を想像する。
記憶を失ってなお残る寂しさより、ただ見ているだけの彼女の怒りのほうが熱くて、身近だ。
レディがいつもヒーローでいられるようにしている。
観る人が、彼女を誇りに思えるように。
「いつだよ」
指先が、彼女の背中から離れない。
「いつになったらこの汗止まるんだよ、ちくしょう」
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