第33話
吸い込もうとした空気と押し出された空気で喉を引きつらせ、喋ることなどできない。男の瞳は白く濁っていて、まるで死体のようだ。
代わりにロストを捉えるのは顔面の半分を占拠する妖精の瞳だった。
「いるんだろ? レディ・クホリン。いや、今はエディナ・ピスケスか」
逆流した胃液が気管に入って痙攣している男は口から胃液と吐瀉物の混じった泡を飛ばして喋る。
「顔を見せろエディナ。お前となら話そう」
ロストは妖精の視界に入らないように、後ろ手にエディナに来るなと指示する。
どういう仕組みで見ているかわからない以上、見られただけで位置を特定される危険もあった。
でも、もちろん彼女はそんなロストの算段など意に介さない。
ロストを押しのけて妖精を見下ろす。
「テロリストが偉そうに。無関係の人を巻き込まないと私と話もできないの?」
「巻き込んだのはお前だ。これは剣持つものの必然。お前は剣によって殺される」
「中途半端に聖書引用してインテリぶってるんじゃないわよ、このクズ。
隠れてないで出てきなさい、今ならモリグアイなしで相手してあげる」
「俺に会いたければ投降しろ。そうしないなら、モールの客を殺し続ける」
「今の私が無力だと思っているなら間違いよ。すぐに黒いカラスが挨拶に行く」
「見捨てるんだな。モールで逃げ惑う──」
ロストは男の額に弾丸を撃ち込み、妖精の顔にも一発撃っておく。
小さな金属片みたいな弾丸の痕は目立たず、損傷も軽微だが、二発も撃ち込めば顔の形が歪んだ。
「よく喋る。誰かこっちに向かわせてるな」
「それならさっさと殺せばいいでしょ」
「いや、あんたにモリグアイの使用を示唆してもらいたかった。
これで向こうは搬入口に人員を割くしかなくなる。その間に別方向から逃げる」
「ふざけないで、私が逃げるわけないでしょ。搬入口に行く。
モリグアイにさえ辿り着ければ、こんな連中、私一人で一掃できる」
「辿り着けねえよ」
調べてみると、男の所持品はスクリーンを収納したペンだけ。
スクリーンを引き出してみても端末機能は停止していた。
「それに搬入口にモリグアイが来てるとは限らないだろ」
「モリグアイは特別よ。私を感知できる」
「何を言ってるのかよくわからんが、運ぶのはレッド・ブランチだ。
あんたを投入するのは戦術的に最も有利なポイント。
敵のど真ん中に単独で放り出すわけねえ」
「外と連絡は?」
ロストは内ポケットから名刺入れを取り出してみるが、何も表示されていない。
ただの銀色のケースだ。
「遮断されてるな。妖精さんのITは一級品だ」
「どうやって搬入口まで行く?」
どうやって説得するかだと思うが口には出さない。
モールの構造には詳しくないだろうから、騙して出口まで連れて行けばいい。
移動しようと周囲を見回すと、噴水のほうからシュリたちが走ってきている。
ロストはすぐに手近な店に隠れるように指示し、エディナと一緒に合流した。
「トイレに隠れてたの。静かになったから出てきたんだけど、二人がまだ残っているか見に行こうと思ってたの」
「お店の人が探しに行かなかった?」
「誰も来てません」
ため息をつくエディナと顔を見合わせ、ロストはシュリに謝る。
「すまなかったな、すぐに行けなくて」
「いえ。それより、さっき銃声がしましたけど、大丈夫だったんですか?」
「問題ない。二人は外と連絡が繋がる?」
「ダメだった。エディナは、何か特別な通信手段とかないの?
ヒーローとして呼び出されるときとか」
エディナは車椅子の腰を固定しているフックのような部品の一部を開く。
脇腹から腹の前に引き出せる、小さなスピーカーが内蔵されている。
「呼び出しにはこれを使うの」
「無線? CVの巡回警備員が使っているものと同じですか?」
「まあね。本当に呼び出すだけ。気の利いた暗号があるわけでもないし、この状況で連絡手段に使うのは危険よ」
「でも何か言ってるかも。
相手に聞かれてもいいことなら、これで連絡しても問題ないんでしょ」
「少なくともレッド・ブランチが来てるかどうかぐらいはわかるか。
音、絞ってつけてみろ」
「今、私に命令した?」
エディナが低い声で不満を表明し、ダイヤルを回した。
ロスト以外の全員が耳を塞ぐ。音が大きいというわけでもないのに肌が粟立つ不快な音がスピーカーから流れている。
「高速言語だ」
ロストが片膝をついてスピーカーに耳を寄せると、エディナは仰け反って離れようとする。
こんな状況でも埋まらない距離。
エディナを見上げると彼女は目を逸らすように横を向き、ロストにというよりは自分にいらついて早口で喋る。
「高速言語ってフェイが使う意味不明の言葉よね。これムラサメ?」
ロストは目を閉じて音に集中するが、ほとんど聞き取れない。
「あのバカ、いつも通りの速さで喋ってる」
「いつも通りって、これを聞き取れるの?」
「特別な道具が必要だ。こう、頭を完全に覆うんだ。これ以外の音を遮断する」
「重要な情報だと思う?」
「この速さは俺に向かってだ。
ドギーだって聞き取れない速度だからな、間違いなく指示だよ」
エディナは頭痛でもするみたいに眉間を指で揉んだ。
諦めて無線を閉じるのかと思ったが、指を鳴らしてシュリたちを呼び寄せる。
「ちょっといい? 二人に周りを見張ってほしいの。
もし、近づいてくる人がいたら、確認の必要はないから、すぐに私とロストの身体を叩いて知らせて」
ケイトはエディナが何をするのかわからないまま首を半分かしげて半分うなずき、シュリの指示でエディナを挟んで背中合わせに見張りについた。
ロストにも彼女の意図がわからない。とりあえずケイトとシュリの間を埋めようと立ち上がると、エディナに腕を掴まれる。
「音量はこのままでいい?」
エディナはスピーカーをさらに引き出し、太ももの上くらいにまで伸ばした。
「音のでかさは問題じゃねえ、簡単に言えば集中したいんだ。音だけに」
「それなら、こうすればいい」
彼女の手に引かれるままに、その傍らに跪く。
一度でも彼女に殴られれば、彼女の中で無謀と勇気が隣り合っているのがわかる。
彼女の膝に手を置いてスピーカーに耳をつけると、油を注がれるみたいに耳の奥がねっとりとした音に浸かる。
触れなければわからないほどの震えは恐怖であり、怒りだ。その二つが隣り合い、否定し合い、どちらかが身体を支配するまで膨らむのがわかる。
エディナが上半身を倒してロストの頭を身体で包み込む。
彼女の中ではきっと拒絶と受容も隣り合う。
震える彼女の胸に頭を抱かれて、初めてわかった。
他の音が消えた。高速言語さえも聞こえなかった。
殴りつけるような力強い鼓動が頬を打つ。冷たい汗が染みた服の布地が薄い膜になって彼女の形を浮き上がらせ、ロストの輪郭を柔らかく潰した。
彼女の吐息さえ冷たく感じるのに、感覚のない萎えた足だけが熱い。
人の温もりとは違う、電子部品が熱を持つような熱さ。
彼女の膝を軽く握ると、何も感じていないはずのエディナがロストの髪を掴む。
ロストのため息が彼女の腹を撫でたからだ。
萎えた足は圧縮されたゴムの感触だった。
モリグアイの強靱な人工筋肉に押し潰されないように樹脂を充填し、脚部のプラズマ・カッターのためのバッテリーを埋め込んだ彼女の足は、もはや彼女のものではない。
レディ・クホリンの部品だ。
彼女の鼓動以外が聞こえなくなって、形を失ったロストの輪郭がモールの地図を描く。血が巡るように幾つもの経路が赤く染まり、次々に途絶えていって最後の一筋が残る。
指示に納得はできないが、理解はできる。ロストもそれしかないと思う。
エディナの肩を叩いて終わったことを知らせ、上半身を起こすと顔を背けるのが遅れたケイトと目が合った。
ケイトは全身で方向転換してごまかしていたが、顔が夕焼けみたいに真っ赤なのは隠せない。たぶん、ずっと見ていた。
「シュリ、三つの燭台のエリアってのに十五分以内に行けるか?」
忠実に見張りを実行していたシュリが振り返り、はっきりとうなずく。
「近くにグリモールのホテルとの連絡通路がありますね。そこから出るんですか?」
「もうすぐ十字団が突入してくる。お前らは燭台の近くで隠れる場所を探して、突入が始まったらバルコニーに出ろ。レッド・ブランチが回収する」
「お前ら?」
エディナが怪訝そうに口を挟むが、あえて説明はしない。
シュリを車椅子の側に呼び寄せ、周りに彼しかいないみたいに指示を伝える。
「シュリ、エディナを抱えて走ってくれ。車椅子はこっちで使う」
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