第41話

 ロストがいたのは入院専用の病棟で早朝のロビーには誰もいない。朝食前で、本来なら面会時間ではない。


 子供みたいに車椅子を前後に揺らしているエディナがロビーの中央にいて、なぜか待合の円形ソファーを睨んでいる。


「おい、ステッキ貸してくれ。歩くのしんどい」


「あなたが壊した。今、スポンサーの介助器具メーカーが新しいの作ってくれてる」


 エディナは座席の下から二本の短いパイプのようなものを取り出し、ロストに手渡すと、車椅子を回転させて背もたれをロストに向けた。


「それ、背もたれに差し込んで」


「繋げると杖になるんじゃねえの?」


 言われた通りに背もたれに左右から一本ずつ差し込むと、パイプの中に折り畳まれていたグリップが手前に起きる。


「押してよ」


 グリップを握る邪魔にならないよう、エディナは後ろ髪をまとめて右に寄せて胸の前に垂らしていた。


 襟ぐりの丸みのある三角の形にうなじが覗く。痛々しいほどに白く、彼女の一部とは思えないくらい脆く、微かに光を反射する棘のような産毛は誰にも見せてはいけない気がして、手で覆い隠したくなる。


「何してるの?」


 不審そうに言いながらも、エディナは振り向かない。恥ずかしがっているみたいに少し身を縮めただけだ。


「いや、こういうのは嫌いかと思ってた」


「嫌いよ。でも、押していれば歩きやすいでしょ。それだけ」


 エディナの言うとおり、グリップを掴んで体重をかければ歩行補助機の代わりになる。エディナは介助に慣れていなくて背後に人が立っているだけで緊張するのか、背もたれに背中を預けようとしない。


 ロビーの磨りガラスの自動ドアから外に出ると、正面に正方形の人工池が広がり、ちょうど二分割するように通路が浮いている。静かな水面には上層の空中道路が重なって映り込み、様々な多角形を描く。


 イス・ウォーター関連の施設は会社のロゴを使わずに、綺麗な水をふんだんに用いて会社のイメージをアピールする。古い石造りの橋に見える通路は足下の感触が発泡スチロールみたいに軽く、ロストの足音を吸収して池に波紋を広げた。


「レディは自粛してても、エディナは仕事があるだろ。こんなとこで散歩なんかしてる暇、あんのか?」


「社員には普通、有給休暇っていうものがあるのよ。使ったことなかったけど」


「貴重な一日ってわけだ。興奮して寝れなかったのはわかるが、こんな朝っぱらからどこ行く気だよ」


「教会」


「あれ? このチップ壊れてるぞ。こんなに目眩がするのにワゴンが来ねえ」


 エディナが鼻先をくすぐられたみたいに笑うと、池全体が答えるみたいにさざ波に揺れた。


「あなたのくだらない冗談も、こうやって休みの日に聞くと悪くないわね。ただのボランティアよ。不法移民とか孤児とかのために寄付を募るの。パンとか売って」


「パンか……ラテはある?」


「食べる気? いいけど、お金払って」


「神よ、この女の強欲をお赦しください」


 エディナが急ブレーキをかけるとグリップがロストのみぞおちを抉る。後ろにいれば車輪に踏まれないと油断していた。咳き込むロストから逃げるようにエディナは車椅子を一人で進める。


 足の力は戻ってきているのに、池の真ん中に一人で立っているのは水に浮いた朽ち木のように心細い。エディナはもう押させてくれないのかと思ったが、数歩の距離で止まって振り向かずに待っていた。


「けど、いいのか? テロの主犯は捕まっていないんだろ。さすがに今日の俺は護衛には使えねえ」


「記憶、しっかりしてる? モールでは結局、助けたのは私」


「マックリルは有用って言ったろ」


「あくまで調整班としてのあなたの評価」


「じゃ、あんたの俺に対する評価は?」


 顎に指を当てるエディナは評価というよりは、ロストをどうやってからかうかを考えている。無理にはしゃいでいるような空疎な笑顔ではない。ただ、どこか危うい。


「護衛にしては備えが足りない、調整班としては独走気味。インタビューのサポートは悪くなかったわ。誰かのマネージャーでもやったら? 言葉遣いは直さないといけないけど」


「俺が調整班にいるのはそこしか居場所がないからだ。クビでもねえのに転職なんざ考えるかよ」


「そうね」


 同意でもなんでもない、ただの事実確認。


 人工池を通り抜けるとエディナは彼女の家がある住宅街とは反対方向、第二層で働く移民や、不法移民たちが暮らす整地されていない土地の方向を指した。


 エディナの用意した車は地下に去って行った国民たちの残した廃屋に不法移民が居住するような、あまり治安がいいとはいえない区域に向かった。そのぶん、監視カメラ搭載の自動運転車両の巡回量も少なく、そういった都市の目は遠ざけられる。


 道路の舗装が途切れた場所でエディナは車を降りる。教会に続く緩やかだが、長い坂が、今のロストには断崖絶壁に見えた。


 エディナは当然のようにロストが押してくれるのを待っている。


「メイブ対策か。ハッキングの手口は鮮やかだったな」


「まあ、気休めだけどね。それに襲撃は事前に計画を練られていた。モールに私が行くことが漏れていたの。ドギーが見つけてきたのよ、妖精のタトゥーの除去手術を希望していたレッド・ブランチの職員をね」


「緑の妖精に取り憑かれたって騒いでたやつか? たしか、そいつにタトゥーはなかったはずだ」


「タトゥーというよりは痣に近かったそうよ。張り替え以外に消せなくて、皮膚を培養してたの。ドギーはそれを見つけた」


「他にそういうやつは?」


「今のところレッド・ブランチ内には確認できてない。でも一応、私の予定表は偽装してあるし、ダミーも出してる」


「ああそうか、俺に花、持ってくるなんてヘンだと思ってたが、お前、ダミーか」


 エディナは少し前傾していた姿勢から背もたれに背中を預け、体重をかける。病み上がりのロストには少しきつい傾斜で、足を開いて踏ん張るのを見てエディナは笑ったが、その笑い声も乾いていて砂が混じった風みたいだ。


 本当に、彼女じゃないみたいだ。


 ロストは坂を一気に駆け上がり、笑い声を置き去りにする。膨張した胃が腹の中でボールみたいに跳ね回り、心臓が不規則に脈打ってこめかみが鉄片を挟み込まれたみたいに痛む。


 心の痛みが共有できないなら、身体を痛めつける。記憶を手放すような男にはそういう寄り添い方しかできない。


「無茶しないでよ、ワゴンが飛んでくるから。教会に行きたくなくてやってるなら、そう言いなさい」


「無茶しなきゃ辿り着けない場所もある」


 坂を登り切ると無計画に抉られ、高低差のある土地の中で比較的平坦な地区に、菌類が作るコロニーみたいに小さな家が寄り集まっている風景が広がる。


 剥き出しの土の赤茶けた色と、建てられ、壊され、土台だけ再利用して再建した不格好な家屋と、ねじくれた路地がどこか懐かしさを感じさせた。


「これがその辿り着けない場所?」


 ロストは息切れで喋れないふりをして、車椅子に寄りかかる。ロストが答えなくてもエディナは気にせず、教会の尖塔に目を向けて、でも何かを見ているというのでもなく、時間が止まっているみたいに動かない。


 背中も背もたれから離れ、肩は硬直している。後ろに人がいるのに慣れていないのとは関係なく、彼女は緊張していた。


「すまなかった。俺の不注意であんたを危険にさらした」


 ときおりクレーターの底から吹き上げてくる冷たい風が、ねじくれた路地を抜けて坂道を駆け上がり、エディナの髪を揺らした。


 第三層に太陽の光が届くにはあと一時間ほどかかる。青くてほの暗い、水底に沈んでいるかのような空気の中で揺れ動く髪は、一本一本が水の浮力に捉えられて彼女の顔の前で広がった。


 乱れた髪を直しもせずに、エディナは隙間からロストを見つめている。声を失い、水底から見上げるだけの寂しい人魚の瞳。


「それが理由?」


 ロストには質問の意味がわからない。車椅子に寄りかかったまま、首だけを不自然に曲げて彼女を見下ろし、眉をひそめるだけ。


「私を逃がすために、あなたは命をかけた。罪悪感が、その理由?」


 彼女がさっきまで見ていたのと同じ方向に目を向け、尖塔とその影と、さらに向こうのクレーターまで見渡してみても、他に理由は見つからない。


「そうだな」


 というより、見つけたくなかった。


「それ以外にはないな」


 言葉にしてしまうと簡単で、彼女の目を見なければ本心だと信じられる。罪悪感があると思えばそれはある。


 再びグリップを握って車椅子を押し始め、今はもう彼女のうなじを見ることに後ろめたさも感じない。ドギーの言うとおり、彼女からは距離を置くべきだ。離れて、視野を広く保ち、死角をなくせ。


 空を見上げても降ってくるのは砂ばかりで、雨の気配はない。

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