第40話

「このまま継続よ。特にロストの働きは、モールのこともインタビューのこともマックリルは有用と判定した」


 生きた蛇から一気に皮を剥ぐ音みたいな奇声をあげて、ムラサメがエディナに抱きついた。エディナは顔面を掴んで押し返そうとするが、ムラサメは離れない。


「よかった、エディナはやっぱり私たちが好き。あの花はそのお祝いですか?」


「花?」


 明らかに動揺したエディナが必死にとぼけるのにも気づかず、ムラサメは得意げに自分の耳を見せつける。


「この部屋に来る前に、朝食の台車の横に隠してましたよね? サプライズかなって思って黙ってたんですけど」


 エディナがカーテンの隙間から入る光の届かない暗がりに入ろうとするのは、赤くなっていく顔を隠すためだ。無表情なのがよけいに恥ずかしそうだ。


 ドギーが気の毒そうにムラサメの首を掴んで引きはがす。


「あのなムラサメ、レディはここに俺たちがいることを知らなかった。確実にいるとわかっていたのは入院している──」


「説明しなくていい。そう、あれは調整班の継続祝い。あなたたちの花。だから持って行って。今すぐ」


 ムラサメはドギーの胸板にパンチを繰り出して喜びを表現し、ドアを開ける。ドギーが部屋を出ても、ムラサメはドアを押さえたままエディナを待っている。


「エディナは帰らないんですか?」


「私はロストに用があるから」


「ふうん。あ、花、病室に飾ってあげてもいいですか? ロストが可哀想なので」


「そうしてくれる? ムラサメは優しいね」


「えへへ」


 たぶん黙って持ってきてはいないと思うが、他の病室からドギーが花瓶を持ってきて、それにムラサメが花を挿してる間、エディナはカーテンの隙間からのぞき見るように外に目を向けていた。


 細い、縦長の光が彼女の横顔を照らし、疲労の影を作り出す。割れたバイザーでついた細かい傷から染み出すような影だ。


「サプラーイズ」


 ドギーが居座ろうとするムラサメを引きずって出て行くと、ロストはぼんやりとした光にぼんやりとした声を乗せた。


 エディナはまるで彼女こそが入院していて慰めに与えられた玩具を見るような目をロストに向ける。首元に細い紐のリボンが飾られた、ベージュのワンピースは上品だが子供っぽい。


「狙撃手は仕留めたか?」


「逃げられた。私に居場所を知られた時点で撤退したのね。まあ、わかったのはあなたのおかげなんだけど」


「俺の?」


「指さしてたでしょ。あんな状態でよく見つけられたわね」


 覚えはないが、うなずいておく。


 エディナはロストが話すの待つように黙っていたが、やがて外の風景から室内へ視線を移し、ベッドの横に車椅子を寄せた。つまらなそうな呟きがロストの枕元に零れ落ちる。


「メイブって呼ぶことになったみたいよ、あの緑の妖精。私がクホリンだから」


「ヴィランの登場ってわけだ。あんたの牛を奪いに来たんだな、きっと」


「くだらないわよね。だから自粛した」


 退屈そうに話していても、彼女は頬杖をついていない。腹の前で手を組み、身体の中で疼き続ける苦痛を紛らわすみたいに喋っている。彼女はくだらないことのために自粛したりはしない。


 ベッドに寝たままエディナの顔を下から見ていると、エディナの表情に、今まで見つけられなかった微細な感情を読み取ってしまう。その感情を、優先してしまいそうになる。


「緑の妖精は、あんたが『運送屋』を制圧したときにすでに見つけていた。俺たちの調査では、あのリムを持ち込んだ武器の密輸組織に関係してると見当をつけてたんだが、どうやら間違いだったな」


「そんな報告は受けてないし、レッド・ブランチでもメイブの存在を認識したのは今回が初めて。調整のために情報の共有を最小限にするのはわかるけど、やりすぎよ」


「それが調整なんだよ。情報の共有を最小限にすること。ときには握りつぶし、繋がりを消してでもな。そうじゃなかったら、俺たちに……いや、あんたに都合のいい部分だけ抜き出せねえだろ」


「その結果がこれ? モールで何人死んだか、わかってるの?」


「知るわけねえだろ、ここで寝てたんだから」


「ケイトのこともシュリのことも聞かないのね。あの子たちがどんなに怖い思いをして、どんなに頑張ったか」


「本人に聞くよ。あんたにガキ共の気持ちなんかわかんねえだろうし」


 ベッドが軋み、胸の上に心臓を直接掴まれるような冷たさが重くのしかかる。


 エディナが車椅子からベッドに乗り移り、ロストの胸に手を手をついて顔を覗き込んでいた。


「じゃあ、私の気持ちは? 十歳以上も年下の子供に抱きかかえられて、銃を持たせて逃げ回らなければならなかった私の気持ちは聞かないの?」


 間近で見るエディナの瞳は透き通っていて、まばたきせずに見つめていると瞳の色が滲んで広がり、高い空を見上げているかのように彼女の瞳の中に落ち込んでいく。


「俺に言ってもしょうがないだろ。次のインタビューにでも使え」


「あなたは私を怒らせる。そうしていつも、何かがうやむやになってる」


「うやむやにするのは得意だ。モールで死んだ人数も、訴訟で有利な判例が適用されるくらいには調整してやるよ」


「どこに行くの? 調整でいなくなってしまった人たちはどこに消えるの? サックス奏者の下に隠すみたいに、死で死を覆い隠して、それで本当に死者が消えてしまうと思っているの?」


 ロストは無表情を貫く。何にも覚えていない顔をするのは得意だ。


 でも、落ちかかる彼女の髪に視界を狭められて、答えを求める彼女に嘘をつき続けて、どこにも行けなくなって辿り着いたのがあのモールだと気づかされると、無言を貫けなかった。


「十七のガキだぜ? あんたに殺させるわけにはいかねえ」


「私が殺したのよ」


 エディナは目を閉じて、まるで一緒に祈るみたいにロストの手を両手で包んだ。氷みたいに冷たくて、彼女が祈っている場所はたぶんとても寒い。


 ドギーたちから知らせを受けてロストの体調を見に来た看護士が仕事を忘れて、終わるのを待つくらいに真剣な祈り。嘆きと言い換えてもいい。


「降りろよ。そんな顔を見られるな」


 エディナは最後に額を両手に押しつけ、諦めのため息をつく。彼女の望む答えは祈るだけでは得られない。素早く足を手で折り畳んで車椅子に滑り降りる軽快な動きは、枝と枝を行き来する手の長い猿みたいだ。


「彼はもう動ける?」


 何針か縫った程度の怪我の具合の訊き方だ。


 看護士は戸惑いながらも電子カルテを開き、数値のチェックを始める。エディナに自分の仕事ぶりを見て欲しいと思っているかのような、指先まで張り詰めた動きだ。イス・ウォーター系列の病院なのだろう。


「俺、足が萎えちゃっててさ。検査が必要なんじゃないかなあって」


「問題ありません。電気刺激を与えていましたので、少し歩けば感覚は戻ります」


「完璧。彼の服を持ってきてもらえる?」


「すぐに持ってこさせます」


 看護士は襟に口を寄せて番号と用件を伝え、緊急、と申し添えるのも忘れない。


「いや、普通は検査とかが先だろ? 意識なかったのよ、俺。脳とか内臓にダメージがあったら大変よ?」


 看護士が無言で水鉄砲のようなものをロストの手首に押しつけると、ロストの手首にイス・ウォーターのロゴと青い十字が刻印される。


「検査は用事が終わった後にします。それまでは三、四層内にいてください。今、入れたチップで体調は管理しますので、何かあればうちのワゴンを出します」


「……ありがとう」


「じゃ、下で待ってるから、着替えてきて」


 看護師の持ってきたスーツはモールで着ていたものと同じで、言われるままに着替え、太ももを叩いて足を動かし、病室を出る前に室内を見回して忘れ物がないか確かめたが、ロストの私物は何もなかった。記憶を失って目覚めたときと同じだ。


 花があるだけまだましだ。

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