第42話

 車いすの女が一人でできる奉仕活動だ。パンはどこかで焼いてきて、それを現地で袋に小分けして、ちょっと綺麗なリボンを結ぶ。あとはパンの並んだカートを運んで行ったり来たりするくらいだと勝手に想像していた。


「お腹空いてるみたいだから、食べさせてあげて」


 教会に着くなり、エディナがそう言ってロストを一人の女性に引き渡した。


 クレールと名乗った彼女は、身長がロストと同じくらいで肌の色はずっと濃い。編んだ髪を頭の上で巻いていて額が広く、鼻筋も広い。若いころの体型を維持しているとは言い難いが、固く締まった腕と二人の子供を育て上げた自信が包容力のある美しさを彼女に与えている。


 クレールは売り物のパンをロストに食べさせると、さっそく上着を奪った。屋外用のドーム型パン窯のある教会横の広場へとロストを連れて行くと、シャツの袖をまくれと言った。早くも命令形。


「いい匂いだろ? 昨日仕込んだ発酵が終わってるのはもう全部焼いちゃったから、今から午後の分を捏ねるんだ」


「なるほど、発酵温度の管理なら得意だ。じっと見てるだけだよな、任せろ」


 クレールは口を開けて笑う。理解できないこと、意に沿わないことはみんな冗談にしてしまう笑いだ。


「心配しなくても捏ねるのは機械さ。あんたはたまに生地をひっくり返すだけ」


 手足を折り畳めばロストが入れそうなステンレスの槽に粉と水が投入されたのが数分前。手動スイッチで捏ねる方向を切り替える、古いタイプのパン捏ね機でブザーが鳴ると生地をひっくり返す合図だ。


 回っている羽根に生地がくっついて取れなくなったときもブザーが鳴る。生地が偏って槽が傾くとブザーが鳴る。それ以外にもなんとなく気分でブザーが鳴る。


 そのたびに粘りのある数キロはある生地を引きはがし、持ち上げて叩き付けるのは重労働だ。


「情けない顔してるねえ。あんた、坑道で働いてたんだろ?」


「働いてたんじゃない、発見されたんだ」


 ロストは手渡された水筒から水を飲みながら、テントの設営とパンの袋詰めを手伝っているエディナの姿を遠目に眺めた。


 教会が建つ前は廃品置き場で、そのときの錆び付いたフェンスが残されている。蔓が絡まり、背の高い草が編み目を塞いで日除けを作り、その影の中でエディナと集まった子供たちが袋にリボンをかけていく。


 楽しそうに笑いながら手書きで感謝のメッセージを入れるのも忘れない。


 第三層にも日が届き、明るくなるにつれて集まってくる人々も増え、新しく人が来るたびにエディナに近づき、子供が彼女の車椅子に触れ、母親とは抱擁を交わし、歯の抜けた老婆のキスを頬に受ける。


「前からここに来てるみたいよ。みんなに好かれてる。有名人だからっていうんじゃない。なんだか家族の一員みたいに受け入れられてるの」


「意外だな」


「そうよね。なんだかイメージと違うわ」


「あんたはここになじんでないな」


「まあ、たまに教会に来るくらいだったから。パン屋で働いてたことがあるって言ったら、神父に誘われたの。ぜひ手伝ってくれって」


「俺は今朝まで意識不明だったんだが、ちょうどいいタイミングで目覚めたから連れてこられたんだ。手伝えって」


 クレールは飲んでいた水をこぼして笑った。


「面白い人ねえ。そういうの思いつきで言ってるの? それともあらかじめ考えてストックしてる?」


「ストックしてんなら、あんたみたいなババア相手に披露するかよ」


「エディナが人を連れてくるって噂になってたから、どんないい男かと期待してたのに、これじゃがっかりね。まさか彼女の前でもそんな口の利き方してるんじゃないでしょうね」


「今の俺が紳士に見えるね」


「やれやれ。足の悪い女と口の悪い男のカップルなんて、ドラマの中にしかいないと思ってたよ」


「俺はただの部下だよ。休日にこき使いやがって、今も休日出勤手当がもりもり加算中だ」


「へえ。でも、あんたがエディナを見てる目はそんなんじゃなかったよ。気温が四十度を超えた日に旦那があたしを見てたときの目だ」


「暑苦しいからどっか行けって?」


「心も体も欲しがってる」


「神の庭でなんてことを。俺が欲しいのはパンとラテだよ。もういいからパン、作ろうぜ。楽しくなってきた」


 クレールは興味なさそうにうなずいて新しい小麦粉の袋にナイフを突き立てる。粉で白くなった手で汗を拭い、エディナのほうへ視線を向ける。


「けどさ、向こうだってあんたを見てるよ」


 罠だったと気づいたのは振り返ってしまった後だ。エディナは袋詰めにしたパンを屋台に並べ終わったところで、ロストを見てなんかいない。


 日差しの強い日で、車椅子の上で目一杯、伸び上がってテントの庇を掴もうとしている彼女を、サスペンダー付きのズボンや蝶ネクタイで正装した子供たちが、バランスを崩して倒れないように左右で支えてくれる。


 クレールは笑ったときの吹き出した息で舞い上がった小麦粉で髪を白くして、袋を両手で叩く。


「なんて顔してんのさ、さっきほんとにちょっと見てたよ」


「いや、そうじゃなくて。あいつら、怖くねえのかなって。ほら、こないだ……」


 上手いごまかし方だとウインクしながら、クレールはうなずく。


「ここは教会だよ。妖精が入ってこれるもんかい」


「だといいな」


 一人一人服をはぎ取って緑の妖精がいないか確かめたかったが、エディナはそんなことのためにロストを連れてきたのではない。では何のためか?


 当然の疑問に対する答えもないままパン捏ね機のスイッチを睨んでいるうちに、まだ頭が完全に目覚めていないのか、考えるのが面倒くさくなった。


 それからは生地をひっくり返し、持ち上げ、切り分けることに集中して午前中を過ごした。クレールと他愛のない会話をし、ときどき聞こえてくる子供たちの合唱の中にエディナの声を探すうちに過ぎ去っていく時間は、思ったより退屈ではなかった。


 昼になると教会でミサが開かれ、より多くの人が集まった。料理や菓子を持ち寄って教会の中にある休憩所で昼食をとる。クレールも自宅に用意してあると言っていたが、彼女はミサの前にロストを自宅に誘った。


「よかったら、うちで食べない? こういう大人数で食べるのは嫌いでね。でも、一人は寂しい」


「俺は寂しくない。さすがにあいつを一人にするわけにもいかねえしな」


「じゃあ彼女も誘いなよ。エディナもずっと人に囲まれてたから疲れてる。ちょうどいい息抜きさ」


「あんたはあの女を知らないからそう言えるんだよ。あれと一緒に食事なんて、俺の息が詰まる」


 教会の地下に繋がるドアが開く音で、ロストは顔をしかめる。クレールが嬉しそうに手を振ったから。


「ちょうどよかったエディナ、昼食の間くらい、ロストがいなくても平気?」


 エディナは首をかしげてロストたちの側まで来て、窯の熱気に顔をしかめた。


「発酵はしっかりできてたわ、ご苦労様。それで、昼はここで食べないの?」


「ああ、あたしがうちに招待したのさ。あんたを誘えって言ってんのに、この男、度胸がなくってね」


「口の悪い男ってだいたいそうよ」


「同感だよ、気が合うねえ。最初からエディナを誘えばよかった。昼食をうちでどう?」


 エディナは少し迷うように教会のドアとクレールとを交互に見る。学校を抜け出すことを提案された子供みたいに義務感と戦っている。


「近いの?」


「大声出せば届くくらい」


「決まりね。ちょっと疲れてたのよ、子供ってほら、元気良すぎるっていうか……」


「竜巻。男の子を二人、育てたんだ。よく知ってるよ」


 二人は久しぶりに出会った友人みたいに会話しながらフェンス沿いに教会の外に向かっている。ロストが黙って見送っていると、エディナが怪訝な表情で振り向く。


「一緒に来なさい。一人で残ったら、あなた質問攻めで食べてる暇ないから」

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