第28話

 エディナは返事の代わりに傾けていた身体をまっすぐに戻し、殴り合いを想定しているかのように肩甲骨を軽く動かす。

 人前で見せる包み込むような笑顔のためにはそれなりに準備が必要らしい。


 ほとんど立ち止まることなく人混みをすり抜けてきたケイトが急に仰け反って停止した。

 ようやくエディナが目に入ったらしく、挨拶するために帽子をむしり取る。


 エディナが中途半端な笑顔で固まって、ロストは自分の伝達ミスに気づく。

 そういえばオーファンだと伝えていなかった。


「初めまして、ダナ・キャサリンです。今日はインタビューを受けてくださってありがとうございます」


 エディナはどこを見ていいかわからず、日光の下では銀色に輝くケイトの髪を見つめ、はじめましてと不明瞭に言った。

 その反応を見てケイトの顔が一気に紅潮し、ロストを睨みつける。


「一応、言っとくよ、ケイトはオーファンなんだ」


「ありがとう、驚かずにすんだわ」


 エディナは冷たく礼を言ってから、今度は完璧に微笑む。


「初めまして、エディナ・ピスケスよ。お父さんにはいつも助けられてる。私もケイトって呼んでもいい?」


 差し出された手を反射的に握って何度もうなずくケイトの後ろに、エディナが視線を向けた。


「か、彼はシュリ・バレルイ。今日、私と一緒にインタビューに参加します」


 言ってあるよね、と口だけ動かすケイトに適当にうなずいてシュリを観察する。

 素性については簡単に調べておいたが、本人と会うのは初めてだ。


 父親がインド系でイギリスに難民として渡った。母方の血が濃く現れ、鼻が高くて面長だが丸みのある顔だ。整っていて愛嬌がある。

 もっと細長いと思っていたが、肩幅は広くて胸板も厚い、スポーツをやっている体つき。グレーのスーツは父親から借りてきたのだろうが、子供が無理しているようには見えない。

 知性のある瞳は十分に大人びていた。


「初めまして。お会いできて光栄です、レディ・クホリン」


「エディナでいい」


 シュリと力比べをするような握手をしてエディナは眩しそうに目を細める。


「こっちはロスト。ただの護衛だからいないと思ってね」


 真面目な顔で言うエディナの言葉を冗談と受け取っていいのか迷いながら、シュリはロストに控えめに会釈した。

 ロストは護衛らしく周囲を警戒しているふりをして無視する。


 サングラスがないのが悔やまれる。

 ただ目線の定まらない、注意力散漫の落ち着きのない男にしか見えなくて、ケイトがロストのすねを蹴って注意する。


「では、移動しましょうか」


 挨拶が終わってから誰も喋らなくなると、シュリが率先して動き始める。

 場を仕切るのに慣れている。きっとどこでもそういう役回りなのだろう。


「でも、本当にグリモールでよかったんですか? あそこは『薔薇十字団』の管轄ですけど」


「そんなに気を張らないで。プライベートで管轄なんか気にしないわ。あそこにしかない変なドリンクって飲んでみたかったしね」


 包み込むような優しい声で喋る彼女の側にいると、ケイトもシュリも緊張が解れて自然と笑顔を見せるようになる。

 笑っていないのはロストだけだ。ケイトが自然とエディナの隣を歩き、小気味よいカスタネットみたいな喋り方も戻ってくる。


「上にはよく来るんですか?」


「プライベートではあまり来ないわね。イベントで呼ばれてくることのほうが多いかな」


「あ、こないだの身障者の音楽会。私も行きましたよ」


「ほんと? 私のヴィオラ、ひどかったでしょ。緊張で手が震えてまともに弾けなかったもの」


「そんなことないです。すごくかっこよかったです」


「ありがとう。あれって別に身障者じゃなくても参加できるのよ。よかったら今度のに参加してみて」


 エディナは街路樹の作るトンネルに入ると、垂れ下がる枝葉を撫でるみたいに手を伸ばし、ケイトの帽子を取って自分の頭に乗せた。


 ただ、ふざけているだけなのか、ケイトが自分の隣でオーファンであることを隠しているように見えるのが気にくわなかったのか、エディナの表情からうかがい知ることはできない。


 でも、公衆の中でケイトが帽子もかぶらずに、前を見て笑っていられるのをロストは初めて見た気がする。

 ドギーにもロストにもできなかったのに、エディナは初対面で少女の隠れた願望を叶えていた。


「レディはプライベートではイメージがずいぶん違いますね。なんていうか、こんな柔らかい空気の人だとは思いませんでした」


 シュリは二人の後ろ姿を眩しそうに見ながら、ロストに親しげに話しかける。

 まずは男同士、女同士で信頼関係を築く作戦らしい。


「メディアの前で見せる傲慢さだって演技じゃないさ。インタビューじゃそこを突いていくといい」


「いいんですか?」


「子供のインタビューなんざ、何訊いていいかわかんなくて的外れになってる質問だらけだ。それじゃつまらん」


「俺、そんなインタビューする気はないです」


「期待してるぜ、秀才君。せめて尊敬してるパパに怒られないくらいはやらないとな。まあ、パパもたいした仕事はしてないみたいだが」


 一瞬、息を呑む固い沈黙。

 親しい雰囲気でカット・グラスの質問を控えられては困る。

 エディナをほとんど神格化しているケイトに期待できない以上、シュリに少しくらい怒っていてもらうほうが確実だ。


「で、どこでインタビューするのか決めてあるのかな。段取り悪いとエディナとは会えずに終わるかもよ」


「父さんのよく利用する店があるので、そこに場所取ってもらいました」


「飯、食える?」


「魚介を煮込んだ辛いやつがうまいです」


「いいね、今日は朝から食い損ねてばっかなんだ」


 街路樹の作るトンネルを通っているうちに、いつの間にかモール内に入っている。広葉樹の間を通っていくと巨大な開いた本の側面、少しずつずれて重なったページのような階段が見えてくる。


 天蓋は気圧で押し上げられたテントのような布で外より薄暗く、揺らめく太陽と月の模様が昼と夜で入れ替わる。

 足下には店のロゴやイベントの告知が魔術めいた記号にアレンジされて記され、挿絵が起き上がるように様々な店舗が建ち並ぶ。


 天蓋の太陽が少しずつ変化することをケイトに教えてもらって、見定めようと上を向いたまま車椅子を動かすエディナはひどく危なっかしい。

 ケイトがシュリに約束の店の場所を確認している間に、エスカレーターに向かって進んでいく。

 護衛として当然の仕事だと思って、エディナの剥き出しの腕を軽く掴んだ。


 声をかけるだけでよかったんだと、ロストは思う。

 呼び止めて注意を促すだけでよかった。


 適度な暗さが距離を見誤らせ、純粋に休日を楽しんでいるような彼女の、耳の後ろに髪を挟む無防備な仕草がいつもより彼女をずっと身近に感じさせた。

 声が届くより早く手が届く場所にいる。

 錯覚なんかじゃないと、思いたかった。


 まるで火に触れたみたいに反射的にロストの手を振り払うエディナの右腕は芯に鉄の入った棒みたいで、弾き飛ばされた衝撃は肩まで伝わった。


 エディナがたぶん、今日初めてロストを見ている。

 神秘的な深い海の色をした瞳の中に、ロストが沈んでいる。

 触れられることへの拒絶ではなく、ロストへの拒絶だったのに、どうして彼女が痛みを受けた目をしているのか。


 シュリとケイトが何の音かといぶかしげにロストたちを振り返る。ロストが何でもないというふうに手を挙げて笑顔を作ると、エディナがロストの背中を叩いた。


「よそ見しててぶつかっちゃった。たまにはこれも役に立つのね」


 エディナはケイトの側に戻り、食べてみたいもののリストを早口に上げて十歳以上年下の少女を困らせる。

 焦って記憶をうまく辿れないケイトをシュリが援護しに行くと、ロストは歩調を緩めて距離を開ける。


 天幕では刷毛で引いたような風の絵が、炎輪を纏った太陽を正午の位置に押しやろうとしている。

 川の上を渡ってきたような水の匂いのする風がモール内を渡り、行き交う人々は天幕を見上げて見えない筆で描かれては消えていく風の絵を撮影する。


 エディナたちも立ち止まって同じ角度で首を曲げ、天幕の絵を指で追って笑い合っている。

 一緒にいるより、離れて眺めているほうが穏やかな気持ちになれた。

 離れれば離れるほど、彼女は幸せに見えた。

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