第10話


 シティの上層では砂漠の乾燥した風から街を守るため、過剰に湿気を含ませた空気が肌を湿らせる。

 水気で膨らんだみたいに顎が軋み、触れただけで爆発して吹き飛んでいきそうだ。あれを一瞬でも女神だなどと思った自分が恥ずかしい。


「晩飯が楽しみだよ、まったく」


 わりと大きな声で独り言を呟く。

 殴られた痕があって一人で喚いていれば、昼間から酒を飲んで喧嘩する類の人間だと思われて周囲が無視してくれる。


 第二階層は劇場やカジノが多い階層で、主な観光地となっている最上層とほぼ一体化している。

 最上層のホテルから第二階層のカジノまで屋内を通って降りて来られるからで、飲食店もホテルの中に入っている。


 プロジェクション・マッピングで地面を歩いている感覚がなくなるような幻想的な空間を作るカジノからゴシック様式の劇場などが、明確な境目もなしに同居する第二階層は夜のほうが人が多く、明るい。


 ロストが歩いているのはカジノからは離れた、古い劇場を移設した特定保護区域に近い路地だ。

 削られた石壁にはめ込まれるようにして彫られた彫刻が、いびつな形の建築のせいでできた曲がりくねった路地を見張る。


 顔の横で両手を広げておどけている丸顔の少年像まで来ると、コーヒーの香りが漂ってくる。

 香りを辿るとオリーブオイルとトマト、魚介の匂いに出会い、狭い路地がトンネルだったみたいに、三叉路の真ん中に木造一軒家風の店が唐突に現れる。


 ロアの店は昼間は安くて美味いランチの店として人気がある。

 もう時間外で、店外のオープンカフェの椅子はテーブルに上げられていた。

 まだ点灯していないが、屋根からぶら下げられたネオンはロアの故郷で父親の経営していた店から運ばせたものだ。


 口紅を塗った唇と網タイツの女の足、店名の『キャッシュ』。


 開け放たれているドアを潜ると目の前に案内カウンターがあって、右手の半地下にあるバー、左手のバルコニーへの階段に分かれる。


 半地下のバーカウンターでは最上層で見かける、肩の四角い制服で頭に小さな帽子を乗せたガイドが二人、コーヒーを飲みながら話している。

 ハープが置かれたままの演奏スペースを囲むようにテーブル席が配置され、その一つに座ったエプロン姿のロアを昼間の従業員が取り囲み、日当を受け取っていた。


 バーカウンターの横を通り過ぎるとき、ガイドたちがロストの殴られた痕を目ざとく見つけ、互いをつつき合って笑う。

 その声に気づいたロアがロストを見つけ、従業員への話を切り上げる。


 どうせ言うことはいつも一緒だ。

 昼間は演劇学校の生徒をアルバイトで雇っていて、ロアとしてはその中から有名人が出ることを願っている。


「ようロス、辛気くさい格好だな。誰か死んだみたいだ」


 若い連中を虫みたいに追い払い、ロアはロストがずっと待っていたみたいに手招きする。誰が死んだのか、わかって言っている。

 いつも大物ぶって、何でも知ってるような顔をしている高慢な男だ。


「自分じゃなけりゃ、誰でもいいんだろ」


 ロアが挨拶がてら勧めてきたコーヒーを受け取って愛想笑いはするが、顎で指した椅子には座らない。

 立ったままロアの五分刈りにした頭を見下ろしている。


 中肉中背の体つきだが腕と首は太い。

 人なつっこい笑顔は店の近くにある丸顔の少年像が年を取ったみたいに頬が赤く、真面目な顔をしていても目が笑っている。

 油の染みがあるエプロンの下は半袖のシャツ一枚で、彼は年中その格好だった。


「ご機嫌じゃないか。当ててやる。女だろ? その顔見ればわかるぜ。

そういう手の早いのをおとなしくするやり方、教えてやろうか」


「あんまりおとなしくなってもらっちゃ困る。この程度ならむしろ歓迎だ」


「そういう趣味か。二人っきりでやるときは注意しろよ。手錠をかけた途端、心臓発作とか、まじで怖いよな」


「んなバカいねえよ。でも、あんたやドギーが喜んで観てる演劇よりよっぽど面白そうな話だ」


 ドギーの名前を聞いてロアは眉をひそめ、苦笑いして煙草に火をつける。


「ロスからも言ってくれよ、こないだバーバラが歌詞忘れたのは俺がしこたま飲ませたせいだと思ってる。

ファンの気持ちはわかるが、失敗を他のせいにしてちゃ誰のためにもならんぜ」


「どうかな、本当にあんたのせいってこともあるだろう」


 ロストがカウンターに視線を送ると、ロアがうなずいてテーブルを拳で叩く。二人のガイドは主人の気持ちを察する猫みたいに欠伸をして階段を上がった。


「あんたの話じゃ、あいつらは手を引くってことじゃなかったか?」


「ああ、レディが潰した『運送屋』の商売をマイノスの下で引き継ぐってことで話がついてた。

急に手のひら返しやがったのはほんの二日前さ。言っておくが、お前らが関わってるなんて俺は一言も漏らしてないぜ。

けど、あいつらはお前らと直接話すとか言い出してな、そっちが片をつけないなら俺がやらなきゃいけないとこだったんだ。だからそこはありがとな」


「ぜんぜん納得いかねえぞ、俺が訊きたいのはそうなった理由だ」


「まあ待てよ、お袋のしつけが厳しかったんで、まず最初に感謝を伝えるようにしてるだけだ。

何人か連れてこさせて話を訊いたんだがな、『運送屋』のほうから急に人をよこしたらしい。要するにこっちと取引してんのがばれたんだ。

お前らをどうやって知ったのかはわからん。ただレディが『運送屋』を狙ってるってのは噂になってたからな」


 ロストはコーヒーをテーブルに置いて考えてみる。


 レディの作戦前に対象の組織を弱体化させるのはこれまでもやってきたし、下部組織との交渉に失敗して排除したのも初めてではない。

 ただ、今までレッド・ブランチまで辿られたことはなかった。レディの標的についても意図的に複数の噂を広めていて、関連づけるのは難しい。


「『運送屋』がよこしたって連中、どんなのかわかるか?」


「そこまではな……」


 ロアが煙を吹いて顔を隠す。表情を見られたくないのだろう。隠し事があるのはお互い様だ。


「新しい商売に手をつけてたし、そっちから流れてきたのかも」


「武器の密輸はマイノスが禁止した。新興が簡単に手を出せるとは思えないな」


「あれには俺もたまげたよ。最初の一発でケツが椅子から浮き上がっちまった。あんなもん、誰が買うんだ?

お前の言うとおり、マイノスはああいうのが入ってこないように押さえてたんだが、長く続くと何にでも綻びってのは出てくるもんだ」


 一応の納得を示すために、ロストはロアの正面に座った。

 ロアも背もたれに寄りかかって見下すような目をするのをやめ、テーブルに乗り出してロストの顔を覗き込む。

 彼のほうでもロストが持ってくる情報に期待していたようだ。


 ロストはポケットから丸めた書類を取り出してテーブルの真ん中に投げる。


「誰だかわかるか?」

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