第9話
「このイルカが調べてきてくれるの? バースまで泳いでいって、何だかハッカーみたいなことをして」
「いや、こいつはただのイルカだよ。背景を海にしてたら迷い込んできた」
「名無しの迷子。あなたと一緒ね」
「俺はイワシでもちゃんと食う」
エディナがイワシを放り投げるとイルカは海上に飛び出し、真剣な表情で必死になって魚を受け止める。
この動物たちは飼われていると飼い主のバイオリズムに影響されるという噂がある。それが本当ならロストはかなり怯えている。
でもこのイルカはロストにぜんぜんなついていないから関係ないはずだ。ロストは怯えていない。
脇に汗が溜まり、頭の周りでハエが飛んでいるような音が鳴り止まないだけだ。
「遊んでないで、仕事して」
「してるよ、今日も休日出勤だ。誰も死ななきゃ、まだ家で寝てるはずなんだがな。頼むぜ、レディ。事後処理が面倒なんだよ」
「面倒?」
エディナの口調も表情も変わらない。間近から囁くように、僅かに細めた目線の先、ロストの首元にゆっくりと刃を押し込む。
「仲間が死んだのよ?」
「俺の仲間じゃない」
エディナの車椅子は車輪の角度を変えられる。
両方の車輪を同時に動かすことで身体の軸を回転させ、腰の高さを調節するスライド機能を使って上半身を跳ね上げる。
上半身の重心移動だけでそれらの動作を瞬時にこなし、肘を九十度に固定した腕に力を伝えてロストの顎に拳を打ち込む。
ロストの首が回り、こめかみを机の角にぶつけて椅子から転げ落ちる。
ロストが最初に痛みを感じたのは首で、床に散乱した書類が目の前にあった。
痛みは爆発的に顎へと伝わっていき、冷たいタイルの感触でロストは自分が床に這いつくばっていると気づく。
「レディ、待ってください。そいついつもそんななんです。私にももっとひどいこと言うんです」
「あなた、フェイ?」
エディナが腕に抱きついたムラサメを珍しそうに見たおかげで追撃は免れた。
「あ、はい。レディ……エディナがここに連れてきてくれました」
「覚えてない。何かわかったらすぐに知らせて」
エディナがムラサメの腕を振り払い、ドギーが開けたドアを通って去った後、ドギーは自分の机に向かって手紙を書くのを再開する。
ロストを気遣う様子もないから、ドギーとしてはエディナの強烈なフックを支持しているのだろう。
身体を起こして頭を振り、倒れた椅子を戻そうとすると、まだエディナがいた場所を見つめているムラサメがいた。
「覚えていないというのは、ジョークでしょうか?」
泣きそうなのか、少し舌足らずな感じで尋ねてくる。
「ジョークじゃねえけど、本当に覚えていないかはまた別の話」
「なんで私に嘘つくんですか?」
「お前のこと嫌いなんじゃね」
「ムラサメ、仕事に戻れ。レディに言われたことを調べるんだ。
それとロスト、彼女の前では口の利き方に気をつけろ。この班まるごと潰すことだってできるんだ」
「叱られてやる気になってんじゃねえよ、マゾのヤク中が。
クビになるのが怖えなら最初から俺なんか雇うな」
「そうだ、俺が雇ったんだ。わかってるなら命令通りやれ」
ロストに対してドギーはときどき保護者のように振る舞う。
家庭で失った親権を職場で取り戻そうとしている、身勝手な自己満足のようにしか見えない。
でも、くだらないと思っても、どんなに不満であっても、ドギーがロストを拾って仕事を与えたという事実には抗えない。
床に散乱した書類を拾い集めているムラサメから乱暴に奪い取って椅子に腰掛けようとしたが、一番上になっていた書類の写真が目について動きを止める。
重火器リムを操っていた男の写真で、拡大された首筋のタトゥーに見覚えがある。茶色い筋の入った昆虫の羽で飛ぶ、緑の妖精。
昨日の倉庫で見たものと同じだ。
まだ泣きそうな顔をしているムラサメの頭を軽く撫でてから、書類を丸めてポケットに入れる。
ムラサメはロストが手を置いたところに何か付いているのかと思って触ったり、パネルに写して見たりしている。
褒められたと気づくのに少し時間がかかる。
「今度、何か美味いもの買ってやるよ」
「シュークリーム」
なぜ優しくされるのか理由もわからず即答するムラサメに苦笑しながら、ロストは緊張が続いて強張ったドギーの背中を拳で叩く。分厚いゴムみたいな感触だ。
「ちょっと出てくる。遅くなったら今日はそのまま帰るわ」
「どこに行くんだ?」
できるだけいつも通り、二人はぎくしゃくなんてしてないと伝えようとするあまり、ほとんど棒読み。すごく気まずい。
「上だ。ロアに会ってくる」
「今回のことは向こうだって知らないだろう」
「レディの言うとおり、その今回のことってのがそもそも何だったんだって話さ。大丈夫、もめたりしねえ」
「連絡しろよ」
「忘れないでよ」
どっちにもろくに返事をせずにロストは部屋を出る。
フロアにはまだエディナが来た興奮の余韻が残っていて、円卓を囲んでいたグループごとに仕事もせずに話し込んでいたり、一緒に写真を撮った社員が見せ合ったりしている。
イス・ウォーターがシティに本社を移転してからまだ二年。
国外から移住してくる社員も多く、先進的でありながらどこか薄暗いシティの独特の雰囲気に不安を感じる彼らにとって、レディは心の拠り所になる。
少なくともシティにおいて、企業の擁するCVとそれを象徴するヒーローの活躍は、どれだけ照明を増やしても拭えないシティの暗がりを照らしてくれる光だ。
シティに一ヶ月も住めば、一人で歩いているときにひそひそと囁く声を聴いたり、自分の影が二つ並んでいるのを見るのなんて当たり前だ。
もちろん、どれもストレスからくる錯覚に過ぎない。そんなことはわかっている。わかっているから誰にも言わず、唾を飲み込み、頭を振り、酒や薬に頼って寝る前にヒーローの活躍を観る。
エレベーターのドアが閉まる前にロストは顔を上げ、閉じていくドアの隙間から社員たちの顔を眺める。
晴れやかな笑顔で、ガラス窓をふと通り過ぎる影になんか誰も怯えたりしない。みんなの女神の輝きは暗がりを、そこにしか居場所のない人間ごと消し去ってくれる。
すげえよなあ、と顎を撫でながらロストは微笑む。
誰もロストが殴られたなんて、気づかないじゃないか。
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