第8話

 ロストが他と色の違う、薄緑の死亡書類をパネルに貼り付けるのを待っていたかのようにムラサメが立ち上がる。

 部屋は防音だが、彼女の聴覚はドアの震動から伝わってくるわずかな音も聞き漏らさない。

 頭を傾けて耳の角度を調節している彼女は驚いて口を開ける。


 ドギーが少しだけドアを開けて外の様子を伺うと歓声と拍手が飛び込んでくる。

 ムラサメはパネルを鏡にして口紅を塗り直しているし、ドギーは眼鏡を外して直立し、額に汗をかいて見るからに言い訳を考えている。


 ロストは背もたれを目一杯倒して天井を仰ぎ、歓声に逆らうように唸った。

 本当にお姫様が降りてきた。


 ドギーが少しだけ歯が覗く笑顔を作り、ドアを全開にして拍手を始めた。

 ムラサメもドギーに並び、座ったままのロストを口だけ動かして咎めるが、知ったことではない。


 普段の彼女はヒーローではない一社員で、ロストの直属の上司ではないし、重役というわけでもない。

 そういうふうに扱うのが暗黙の了解じゃなかったか?


 ロストは机から足を下ろし、パネルのイルカにイワシを投げてやる。

 もうずいぶん面倒を見ているのに仲良くなれず、イルカは疑り深そうに遠くの海面を回遊している。


 レディも社員と握手したり一緒に写真を撮ったりしているから、なかなかドギーたちの前まで来ない。イルカもイワシでは寄ってこない。


「これで我慢してくれよ、アジ高いんだよ」


 タイヤがサンド・タイルの砂を押し潰す音が近づいてきて、木目調のタイルの上を滑る音に変わる。

 レディの視点は低い。ロストが顔を上げなければパネルに隠れて見えないはずだ。


「説明して、あの化け物は何だったの?」


 ドアを閉めて防音が保たれた途端、低いトーンの物憂げな声が問い詰める。

 社員たちと会話していたときの気さくでテンション高めの声と同じ人間が喋っているとは思えない。


「エジプト軍からヨルダンで活動する民間警備会社に払い下げられたもので、二年前に活動中に破損した後、破棄されたという記録が残っていました」


 ムラサメの説明にも相づちはない。

 イワシじゃダメなんだ。求められているのはイワシじゃない。


「レディ、私から説明させてくだ──」


「エディナよ。普段はレディと呼ぶなって前にも言ったでしょ?」


 エディナの物憂げな声がドギーの言葉を遮って、苛立ちを率直にぶつける。


「すみません、ミス・エディナ」


「ただのエディナ。謝らなくていいから、続けて」


 ため息交じりに言われ、ドギーは口に出かかっていた謝罪を飲み込んだ。


「事前の情報では、『角砂糖』の流通組織が武器密売に参入したとされていました。しかし把握できていない取引があったらしく、想定より強力な装備が現場にあったと思われます」


 沈黙の質は変わらず、分厚い氷壁を爪で削るような虚しさしかない。

 アジでもダメか、とロストはため息をつく。

 からかうようにひれで水面を打つ仕草を繰り返しているイルカは機嫌が最悪なのかもしれない。


「真面目な顔してバカにしないで。バカなの?」


 エディナの責めるでもなく、かといって相手の気持ちへの配慮など欠片もない口調は、ドギーの胸にゆっくりと刃物を突き入れるみたいだ。


「あいつはリムの訓練を受けてた。素人が追い詰められて商品を使ったのとは違った。売るだけならどうしてあんなのがいたの?

あなたたちの情報は前提から間違ってたんじゃない?」


「現在、調査中です」


 一瞬、笑ったようにも聞こえるエディナの吐息は春先にほころんだ蕾のように彼女の諦めの香りを室内に広げた。

 ものわかりがいい。そのまま帰れ、とロストは願う。


「名前はなんて言うの?」


 ロストの机に手をつき、パネルの横から顔を覗かせたエディナが横目でイルカを見ている。

 近くだと驚くくらい顔が小さくて、子供かと思う。


 小さな顔にぎりぎり収まっている印象を受ける目の、少しつりあがっている形にアイラインで丸みを持たせている。誰でも一目で引き込まれる目だ。

 眉間から鼻先までは短く、細い月のように湾曲する。

 鼻と唇の間に小さな窪みがあり、柔らかそうな膨らみを持つ唇は些細な不満を抱いた少女のように曲がっていた。


 数時間前に人を殺した女だ。

 背中まである長い髪は白っぽい金髪だが、メディアの前に出るときは赤毛になる。アイルランド系の市民の支持を確保したいイス・ウォーター出身の区議会議員のために。


「名前はつけてない」


「私のとこにも前に群れが来たことあるの。みんなに名前をつけてたな」


 エディナの車いすは腰の後ろから腰回りまでぴったりとフィットする背もたれに体重を預ける形で、座るというより寄りかかるというほうが近い。

 車輪が足下にくる、ほとんど直立して乗れるタイプもあるが、エディナが乗っているのは車輪が大きくて手で操作することもできる古いタイプだ。腰の位置も低い。


 胸元にひだのある黒いワンピースは、上から薄いシーツを被せたみたいに彼女の身体を浮き上がらせる。

 水泳選手として鍛えられた柔軟な肩や筋肉に押し上げられた胸、レディ・クホリンのときに見栄えがいいように特に引き締められたウエスト、老婆のようにやせ衰えた足。


 自然と目線が下がっていくロストの顎を、エディナの白い指が掴んで持ち上げる。見るなという警告だ。二度目はない。

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