第36話

 ロストは車椅子を押して棚の影から飛び出す。


 予想していたよりずっと穏やかな反応だ。銃声もしないし、身体も軽い。

 痺れていた腕も、骨盤の横の痛みで前に出なくなっていた足にも力が入る。


 静かで、自分の鼓動が痛いくらい激しくて、唐突に視野が狭窄。

 濃い黄色の光が視界を浸食しつつある。

 肩や背中に雨粒が当たるような微かな感触。


 間違いない。体内に生成されたアドレナリン胞が破裂している。

 一定以上の出血やショックで破裂して、溜めておいたアドレナリンを体内に放出。

 重傷でも数分間の活動時間を提供する、増設臓器。


 ロストは普段より大きく首を動かして射手の位置を確かめようとするが、痛みに鈍くなっているせいで受けている銃弾の方向がわからない。

 目の端をちらつく黄色い光が貧血のせいか銃火なのか区別がつかないまま、車椅子の女の盾になって走る。


 背を丸め、彼女の頭を抱えて下げさせたとき、耳に冷たい吐息が触れた。


 女が歌っている。


 目を上げると車椅子の横にロストと同じ顔をした男がのんびりと歩いていて、ロストに挨拶するみたいに笑いかける。

 走っても走っても振り切れない。


「アローン・イン・ザ・シティ。

でも、こんなに歓迎されてるんだ。お前は孤独じゃないだろ」


 アドレナリン胞がもたらす数分間は安全を確保するための時間だ。

 でもロストにとっては、目の前にいる男から逃げ続ける悪夢みたいな時間になる。


「そんなことしても無駄だ。あいつらはもうお前を狙ってる。

それがただの死体なのは、とっくに気づかれてる」


「俺がこいつを庇ってる。だから俺に当たってるんだ」


「お前、そんなに楽天家だったか?」


 男が手を伸ばしてロストの肘を持ち上げる。

 曲げていた腕が顔を覆った瞬間、二の腕にドライバーでゆっくりと穴を開けられるような感触が連なる。

 弾かれた腕が顔に当たり、鼻の頭が熱くなる。


 飲み込んだ血が喉を下っていく一塊の金属のようで、鉄さびの匂いが鼻を塞ぐと、男は薄笑いを引っ込めて真顔になる。


「俺の頭だ。ちゃんと守れ」


「もうお前のじゃない」


 陳列されていたオレンジジュースが割れ、飛び散ったガラスが破れた服の隙間からロストの足を切り、車椅子の車輪が濡れた轍を残す。

 服に染みたジュースが皮膚を溶かすように熱い。感覚がおかしい。


「俺はお前さ。実際、今のお前は俺の言うとおりに動くだろ?

そっちじゃない、隣の棚に隠れろ」


 男が指したオイル漬けの魚の缶詰が並んだ棚の影に入ると、車椅子が車輪の向いていない方向に押し出されて横転する。


 ロストは女に覆い被さるようにして倒れ込み、棚に挟まれた通路の奥に引きずっていく。

 帽子もなくなり、紫色に浮いた血管と乱れた髪が、天幕に描かれた吹き渡る風の模様に似ていた。


「風の絵を見上げて笑ってるエディナの顔を思い出してにやついてる。

あの女のために働けるのがそんなに嬉しいか?」


 鯖の缶詰を棚の反対側に押し出し、向こう側を走っていたテロリストの頭に叩き付ける。

 テロリストの身体はよろめいても、緑の妖精がロストを見据えて小銃を棚の隙間に差し込んでくる。


 小銃を持った手とテロリストの頭を掴み、棚の隙間に引きずり込む。

 転がった缶詰に挟まれた指が外れてしまったみたいに回っている感触があるが、気にせずテロリストの頭だけロストの側に出たところで喉元にまっすぐ伸ばした腕を振り下ろす。


 テロリストが唾液を飛ばして口を開け、ロストは開いた口に缶詰を押し込んで上から何度も殴った。


「ひでえな、喉の奥まで缶が詰まってるぞ。缶詰って中身だけ食うの、知らない?」


 丸い缶の底に吸い付くように広がった唇と、腫れ上がって細くなった目が魚みたいだ。殴りつけたロストの中指と薬指も絡まった小枝になっている。


「わかってるよな、こいつらがあの緑の妖精に操られてるだけなんだって。

わかっててこんなひどい殺し方をするなんて、お前はひどいやつだよ」


「お前よりましだ」


 ロストは車椅子を立て直し、投げ出されて倒れた女の死体を抱き上げる。

 身体が硬くなってきて首も少し傾げたまま動かず、暗い穴になった目をロストに向けている。


 煽られた罪悪感をその空洞に探すのは簡単なことだ。

 自問し、自責し、残された時間を無駄にするのは簡単だ。


「お前が俺の何を知ってる? どれだけ努力して、どれだけ失ってきたか、覚えてもいないくせに。

でもな、俺はお前を知ってる。

お前が俺から少しでも学んだっていうなら、さあ走れ」


 車椅子だけを先に蹴り出し、それを盾にしながらリフトまで行くつもりだった。抱きかかえた女の頭が弾け飛び、髪の毛のついた皮膚片がロストの頬に張り付く。


 真逆からの銃撃。

 女の顔に描かれていた妖精が台無しで、でもそのおかげでロストの頭は無事だ。


 女の死体は手放してもいいはずだが、腕が彼女の身体に食い込むほど強く抱いて離れない。

 身体が、勝手に別の誰かと勘違いしている。

 捻れて絡み合った樹木の幹のように彼女を包み、彼女に包まれる。


 リフトのスイッチに肩から体当たりして二階に呼ぶ。

 でも、上下に開く扉の奥ではロストが呼ぶ前からリフトが動いていた。


 扉が開くと、いつの間にか姿を消していたロストと同じ顔の男が、薄暗いリフトの中に立っている。

 腰くらいの高さの内扉の向こうでロストに微笑み、素早く顔の前で腕を交差させる。ロストの腕も彼と同じ動きをして、女の死体が足下に落ちた。


 男の後ろで二人のテロリストが同時に小銃を発射する。

 ほとんど無音だが、至近距離だと雨だれのような涼しげな連続音が耳に心地よかった。交差した腕と腹に受けた衝撃で仰向けに倒れて呼吸が止まる。


 まばたきもなく、ただ天幕が見えている以外は音しか感覚がない。

 内扉の掛け金が外され、二人分の足音が近づく。


 弾倉を入れ替える音。女の死体を仰向けに蹴って転がす音。


 違う、と一人がたいして意外でもなさそうに言った。

 ロストの顔が目の前に現れ、ロストの額を指でつつく。


「次はお前だな。これで満足か? これだけ引きつければ役目は達成か?

バカ言うなよ。お前はまだ、役目を半分も終えちゃいないんだ」


 ロストが自分の顔を好きになれないのは、今、目の前で笑っている男と同じ顔だからだ。

 伏し目がちなのに瞳は相手を睨め付け、笑うと薄い唇がさらに引き延ばされて奇妙なほどに左右均等な三日月を作る。

 浅黒い肌もなんだか不吉だ。


 中指を立てたが、きちんとできているか確かめる術がない。


「かっこつけやがって。じゃあ死ねって言いたいところだが──」


 男はロストの顎を掴んで顔をリフトのほうに向ける。


「時間切れだ」

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