第37話

「時間切れだ」


 弾倉を入れ替えたテロリストがロストの顔に小銃を向けると、まるでその銃口から漏れ出るように金属が擦れる音が聞こえる。


 テロリストたちが頭上を見上げたことで、音が銃口ではなくリフトの網目状の天井の上から聞こえているのがわかる。ロストの顔が迷惑そうに眉を寄せる。


「確か、壁をぶちやぶって来るんだったか?」


 網目状の天井を突き破ってリフトに黒い球体が落ちてくる。テロリストたちが小銃をロストから球体に向けると、球体から黒い翼が片方だけ開いた。水の塊が動くみたいに翼がテロリストの側まで広がり、球体も引き延ばされる。


 動きが速すぎて目が錯覚を起こしている。小銃は発射されることもなく、翼が二人同時になぎ倒す。刈り取ったというほうが正しいかもしれない。太ももの辺りで二人重なるように撓んだ。


 間近でレディ・クホリンを見るのは初めてだ。足先は針みたいに尖っていて、ふくらはぎから伸びた蹴爪と二点でどうやってバランスを取っているのか謎だ。


 光沢のある装甲は伸縮性があって彼女の呼吸に合わせて収縮し、そのたびに表面に薄くなった部分と凝縮した部分が、色の濃淡となって浮かび上がる。


 露出した腹部は見覚えのあるワンピースのままだ。しわになって、モリグアイの装甲と合わせると病んで腐った皮膚みたいに白い。


 どうしてそんなに急いだんだ? 他の即応部隊は? いつものライブはどうする? モールでのテロなんてめったにないイベントなのに。 


 言いたいことはたくさんあっても声が出ない。


 目をこらすとバイザーの内側にうっすらとエディナの顔が見えた。彼女は動きを止めてロストを見下ろしているが、見たことのない表情だ。怒っているようにも見えるし、怖がっているようにも見える。


 唐突にレディの上半身が肥大化する。装甲の伸張が人工筋肉を包みきれず、表面に隙間が生じるとマグマになって垂れてきそうな真っ赤な筋肉が露出する。腕の四枚の可動板が別々に動いてぶつかり合い、周囲の空気を噛み砕く。


 何をそんなに興奮してる? また死人が出る。面倒だって言ったろ。


 彼女が一歩を踏み出すと、彼女が移動しているというより、足下の地面を突き刺して引き寄せているみたいに歩幅と移動距離が合わない。彼女の動きは予測できず、二歩目には見失っている。


「おい見失うな。しっかり見ろ、お前を助けに来たんだ」


 ロストと同じ顔をした男がロストの頬を蹴って顔の向きを変える。ロストが通ってきた高い棚のあるエリアだ。


 装甲の隙間に空気が通ると人工筋肉の発する熱で膨張し、甲高い音がいくつも重なって死の間際にいる老婆の絶叫を作る。ひどい音で、加速時に近くにいたロストの鼓膜が破れる。聴力はロストの大事な道具で、たぶん今日一番の負傷だ。


 レディが棚の一つを蹴ると、棚全体が吹き飛ばされて隣の棚と一体化する。間に誰か挟まれたようだ。棚から散乱した缶詰が降り注ぐ中に、もうレディはいない。


 棚を蹴った勢いで吹き抜けまで飛び、翼を広げた腕を交差させて身体全体を覆い、垂直に降下する猛禽のように一階へと姿を消す。


 二階の吹き抜けの縁を囲む柵に隠れていたテロリストたちが一斉に立ち上がり、一階に向かって斉射を開始する。十人以上はいる。ロストが市場に入ったときには姿を見せなかった。まるで、レディが来るのを待っていたみたいだ。


「お前が囮だったんだよ、情けない。まあでも、あれなら心配いらない。撃ってる方向がバラバラだし、タイミングも合ってない。レディの動きを追えてない証拠。レディの腹に穴を開けるのはあいつらじゃ無理だ」


 柵から身を乗り出して撃とうとしていたテロリストが、身長と同じくらいのアイス・ケースの直撃を受けて吹き抜けを落ちていく。もう一つ、ケースが飛んできて、それを避けるために身を低くしたテロリストたちの背後で、エスカレーターから吐き出されるようにレディが飛び出す。


 自身の膝関節とモリグアイの長い足の関節が別々に曲がり、足の下半分が逆関節になって飛び出した勢いに制動をかける。床が尖った足先に削られて細い糸になって、蔓のようにレディの手足に纏わり付く。


 テロリストたちの反応も早い。等距離で半円を作り、レディを取り囲もうと動いている。レディの逆関節が伸び、彼女に纏わり付いていた糸は空洞で形を表現しようとした前衛芸術みたいに、彼女の手足の形を残して空中に留まっている。


 レディは集団の中心から狙う。全高が二メートル以上あるレディの身体が半円を作るテロリストたちの間をすり抜け、一人の顎を一本にまとめた翼で打つ。顎を中心に回転し、空中で逆さになったテロリストが半数の視界からレディを隠す。


 一呼吸の半分で、レディには充分な時間だ。


 尖った足が鞭のようにしなって隣のテロリストを弾き飛ばし、吹き抜けに突き落とす。別の角度からの二人の射撃は両手の翼を広げて防ぎ、レディの足をかいくぐって腹に小銃を向けたテロリストは戻ってきた蹴り足の蹴爪に頭を掴まれ、床に叩きつけられる。


 太ももに当たった銃弾が跳ね上がってエディナのワンピースを引き裂き、へその横に下から這い上がる赤い筋を作る。


 ロストの口の中にエディナの匂いと、太ももの硬い感触が肉を噛みしめるように広がって、舌の裏側で甘い味に変わっていく。


 十人以上いたテロリストも半数が倒れている。レディを撃った二人も、身を沈めながら回転したレディの翼の先端で殴られ、全身が軟らかくなったみたいに足を背中の下に巻き込んで倒れた。


 最初に顎を打ち抜かれたテロリストはまだ空中にいる。たぶん、ほんの数秒の出来事だ。


 ロストの視野はどんどん狭まり、端のほうから広がってきた白い靄が他の色を消していく。


 常に視界の中心にいるレディだけが、彼女の触れたものだけが重く、鈍く、闇夜のカラスのように影よりも濃い羽音をロストの目に残す。


「オーバースペックってやつだ。あんな連中、百人いても結果は同じ。だからお前はこう思ってる。あの対戦車ライフルを装備したリムは、本来ここで使うつもりだったんじゃないかってな。雑魚を相手に気持ちよく暴れてるレディを、遠くから狙撃して致命傷を与えられる武器だった」


 空中で逆さになっていたテロリストが一回転して落ちてくる、その影にレディは入り込む。床に貼り付いて、平たい影になる。


 残った数人のテロリストからはレディが一瞬、消えたみたいに思えるだろう。


「あのリムがないのに、どうして計画を実行に移した? レディの非公式インタビューまで調べ上げるやつだぞ?」


 ロストが目だけ動かして男を見ると、ロストの一番嫌いな笑顔がその目線を受け止める。目が亀裂みたいになっていて、薄く開いた口の中は真っ暗で、中身が空洞の笑顔だ。


 こいつは、最初から気づいていてロストに教えなかった。動けなくなって何もできなくなるのを待っていた。


「おいおい、そんな身体でどうする気だ? アドレナリン胞の効果はもうすぐ切れる。そうしたら確実に意識を失うから、その前に伝えておくよ。マクミランだ。マクミランがレディを狙ってる」


 ロストは身体を起こそうとするが、目の前の男の顔が左右に揺れただけだ。運動感覚もなく、力を込めたつもりでも自分の身体がどのくらい動いているのか感じ取れない。腕も足もどこか遠くに散らばった。


 レディは床に顔が付くくらい巨体を沈み込ませ、影が腕を伸ばすみたいにテロリストたちを蹴り上げる。薄暗くなった照明の作るテロリストたちの淡い影を、意志を持った漆黒が塗り潰す。


 最後に立っているのはレディ一人。彼女は気づいていない。モールの襲撃も、ロストが一人で走ったことも、全部、彼女をそこに立たせるための過程にすぎない。


 方向はわかっている。ロストと同じ顔をした男が立って、ロストから見えないように隠している。


「忘れるよりは、忘れられるほうがいいか? でも結局お前は忘れるんだ」


 灯火だ。


 寒い夜に唯一身体を温める火を眺めるような目で、彼女を見るんだ。


 ロストは死にかけている。凍えて、身体はもう動かない。暗闇に落ちていく中で見る、最後の火だ。


 崇めるのではなく、愛したい。


 前に一歩踏み出そうとしていたレディの動きが止まり、ロストの視線に吸い寄せられるように振り向いた瞬間、くちばしが砕け、無数の小さな羽根になってエディナの顔の周囲を舞った。


 眉が下がり、怯えた目でエディナはロストを見つめている。唇は血の気のない紫。歯を強くかみ合わせ、あふれ出そうになる嗚咽を必死に押さえ込んでいる怯えきった女。


 消えていく視界で最後に目に映るもの。感覚はなくなっているから、頬を伝う涙の感触、たった一粒の涙が乾いた頬に吸い込まれて消えていく感触は、失われた記憶の残滓か空想の産物にすぎない。


 彼女から離れ、彼女のために命を投げ打っても、彼女を死へと導く。彼女の死の瞬間の絶望が、いつも記憶の終わりにある。

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