アシスタント

岡田剛

第1話

 この街では星を見たいとき、誰も空を見上げない。

 ウイルスの拡散を防ぐために散布されたナノマシンが今も上空の大気に残っていて、夜には街の光を反射してミルクの膜みたいに白く光り、夜空を霞ませる。


「下だ」


 昼間からバーで酒を飲んでいるような連中なら、特別な体験を求める無邪気な観光客にそう言って片目をつむるだろう。


「星が見たかったら階層の縁まで行って、穴の底を覗き込むといい。

太陽が真上に来たときしか光の届かない場所で暮らす連中の灯す光が無数に瞬いて、一瞬、身体が重力の方向を見失って浮いてるみたいに感じるんだ」


 観光客を喜ばせる嘘だ。

 実際には切り取られた星空に見えなくもない、という程度だ。

 趣味で詩を書くくらいのロマンチストなら空中道路を走る自動車両がすれ違うとき、情報交換のために発する光を流れ星だと勘違いできるかもしれない。


 クレーター・シティ。


 希少な鉱石を求めて掘り続けた穴の縁に住んでいた人々が、やがて壁面を整地して家を建て、掘り進めると一緒に下へ下へと生活圏を移していった。

 穴自体が一つの都市となり、主権を認められてからも国民たちは鉱石に魅入られたように掘り進んだ。


 現在では全部で九層にもなり、上部六層、クレーターを覆う二十四区が国民以外の移民に開放されている。

 十年以上前に発生した疫病で国民の大半を失って以来、政府は最小限の干渉しかしなくなった。

 彼らはひたすらに最下層で鉱石を掘り続けていて、上部六層には姿を見せない。


 三階層の最も日当たりの悪い区域。

 ほとんど整地されていない斜面に並ぶ住宅地。

 入り組んだ階段と路地、犯罪防止が目的で描かれたカラフルな壁絵の作る立体迷路を前にスーツ姿の男が立っている。


 人と目を合わせるのを嫌っているかのように伏し目がちで、小さな鼻は膨らみのない唇と一緒に削られたみたいだ。

 額に垂らした短い髪は浅黒い肌に刻まれた傷のように張り付いていた。


 三階層はシティに定住する移民が最も多く暮らす階層だ。

 ほとんどが不法じゃない、正規の移民だったが、二階層に多かった不法移民が行き場を失って流入してきているという最近の現実もある。


 斜面にへばり付く家の間の細い道路を小さな車が一台、転げ落ちるように走ってきた。空中道路を走れない、人が運転する軽自動車だ。

 全体的に丸いシルエットのクリーム色をした車で、日陰の中を走っているとねずみ色にくすんでいる。


 何度かまばたきをしてみるが、色は変わらない。男は軽く舌打ちして目を擦る。

 暗視調整が同僚たちに比べて半分ももたない。


「お疲れさん」


 車が停まると助手席のドアを開け、座席に腰を下ろしながら挨拶する。

 運転席に座る大柄な男はハンドルから手を離すのも忘れ、持ち主よりも高齢のカーラジオのスピーカーを真剣な眼差しで見つめていた。


 大柄な男は車と同じで丸っこい。下に何枚も着込んでいるみたいにスーツが膨らんでいて、むらのある茶褐色が毛皮に見える。

 短い髪も茶色で、もみあげと髭が顎下まで繋がり、顔の下半分が前に突き出ているせいもあって横顔はまるっきり熊だ。


 もう一度呼びかけようとすると、熊は指を立てて制止し、ラジオの語る集団失踪事件の顛末に聞き入っている。


「おい、ドギー、そりゃアホライズが解決した事件だろ? そんなの家に帰ってからチェックしろよ」


「スーパー・アナライズだ。言葉は正しく使え、ロスト。特にケイトの前では」


「心配しなくても、親子で同じ注意をしてくるよ」


 ロストが手を差し出すと、ドギーはラジオのボリュームを下げながらパン屋の紙袋と使い捨てのウエット・ティッシュの箱を渡す。

 ロストは紙袋を膝の上に置き、ティッシュの箱を開けて中に入っていた薄いフィルムを両方の手のひらに貼り付ける。


「俺にはわかっていたよ、フリストがテリーを裏切るわけないって。捜査のために一人になる必要があったんだ」


「元FSBと元FBIの捜査官か? 演出だよ。取り合ってる女が元人民解放軍だったら完璧だったのに」


 ドギーは楽しそうに肩を揺らして笑い、着替えや靴が乱雑に置かれた後部座席に手を伸ばす。


「それじゃできすぎだ。アナライズの演出はちょうどいいんだ。

みんなが見たくないものを、見なくていいようにしてくれる。

その優しさが彼をヒーローにした」


「レディの前で語るなよ。あの女、きっと全速力で突っ込んでくるぞ」


「なんで彼女はあんなに嫌ってる?」


「視聴数で負けっぱなしだからだろ。見栄だ、女には大事だ」


 ロストはダッシュボードの古い銀色のシガレットケースを開け、魚の骨のような薄い半透明の板を取り出して両耳の後ろに挟む。


「しかしなあ、携帯のAIがSNSで喋ってたら、本人がいなくなっても気づかないなんてな」


「携帯って、何年生まれだ? おじいちゃん」


 衣服の下から引っ張り出したブーツの靴底からカバーを外し、履いている靴に貼り替えてからドギーはラジオを消した。


「でも、ときどきびっくりするよ。

俺たちもAIに喋っててもらうけど、後から見たら俺よりいいこと言ってる。

代わりに娘と話してもらったほうが、嫌われなくてすむんじゃないかって本気で考えてしまうんだ」


「実際にそれでうまくいっちまうと、俺なんかいないほうがいいんじゃないかって思うようになる」


「そして失踪するんだ。お前もケイトも気づかない」


「バカバカしい、この車はAIには運転できねえ」


「そのくらいだ。今じゃハンドルついてる車を運転する以外は、AIのほうが俺よりうまく俺をやれる」


「そりゃそうだ。お前よりへたくそにお前をやるなんて誰にもできない」


 ドギーは距離を測るように首を傾けて、ロストを見る。

 ありもしない深い意味をロストの言葉に読み取ろうとして、勝手に失望している顔。


 AIならもっとうまく言ってくれたか? 言いそうになるのを、紙袋を手にとってごまかした。

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