第25話
文句を言う彼女の横を素通りし、ロストは家の中に勝手に入る。
入ってすぐ左手にはエディナが普段外で使っている、腰に固定するタイプの車椅子が充電されている。
家の中ではもっと古い、車輪を手で回す車椅子を使う。
簡素なフローリングに傷がつかないよう暗い色のフロアタイルが敷き詰められ、歩く順序でも示しているみたいだ。
「来客用の椅子ってないの。ソファにでも座って」
ロストは空気の肌触りが変わったかのような違和感に立ち止まった。
仕切りのないワンフロアで、家具の間隔を広く取るのは車椅子で生活しやすくするためだろう。テーブルや冷蔵庫などが低いのも同じ理由だ。
手作り風の木製家具は家の外観と一致していて不自然ではない。
一人暮らしにどうして必要なのかわからないL字型のソファに腰掛け、そこに一人で座るエディナの視線を辿ってみる。
「なんだ、このバカでけえのは」
有機ELを使った巨大モニターがソファからかなり離れて設置されていた。
それを見て違和感の正体に気づく。手回しのコーヒーミルやガスレンジ、オートロックも電子認証もないドア、テーブルには印刷された雑誌まである。
「見やすいでしょ」
何でもないふうに言うエディナは三つ叉の燭台を引き出しに放り込んで隠した。
「ここがあんたの定位置として、モニターも冷蔵庫もトースターもぽっくり逝く直前の固定電話も、ちょっとしたマラソンできるくらい遠くだ。
できるだけ電子機器を遠ざけてる。
あんた、悪魔にでも取り憑かれてんのか?」
「生活スタイルの分析は頼んでない。それより、反応はどうだった?」
ロストの視線を遮るように移動してきたエディナは襟なしの青いワンピースを着ている。
袖口が広くて外側に広がったシルエットで、胸の前には大きなボタンが飾りとして並んでいる。
メイクも最低限でリラックスしているせいか、いつもより表情が柔らかくて、声にも圧力がない。
安全で安心だが、何となく物足りなかった。
「レディがカット・グラスの捜査に前向きだって噂にはおおむね好意的だよ。
あんたの、というよりあんたのバックにいるレッド・ブランチを評価する声がほとんどだけどな」
エディナはため息をついてロストの後ろからソファの背もたれに両腕を乗せる。
「そうなるんじゃないかとは思ってた。
私は組織犯罪がメインだし、こういったローン・ウルフの犯罪者の追跡はスーパー・アナライズにかないっこないのは自分でもわかってる」
「えらく弱気じゃねえか。
心配すんな、組織力じゃアホライズよりこっちが上だ。なんか見ていい?」
エディナはソファの背もたれに乗り上げてロストの手からリモコンを叩き落とす。
「それで、これからどうするの?」
「入札前にできるだけイス・ウォーターのケツを叩いておこう。
あんた自身が捜査について語る映像を流出させる」
「ちょっと不自然すぎない? 私、演技力ゼロよ」
悪巧みでもしているみたいに声を潜めるエディナの吐息が肩を撫でていくのをジャージ越しに感じる。
「ちょうどインタビューがあるだろ。そこで話すだけでいい」
何のことかわからずに、エディナは目線を斜め上に向けて記憶を辿る。
ロストは落ちたリモコンを拾って彼女の鼻先に突きつけた。
「今度の日曜だよ。俺がここにいるのに何で忘れられるんだ。
物覚えは悪くないんじゃなかったのか」
「忘れてない……けど、子供のインタビューよ。それを利用するの?」
「別に台本作ろうってわけじゃない。
ジャーナリスト一家の小僧だって話だから、よほどの出来損ないでない限り、カット・グラスの話題は出てくる。
それに素直に答えればいい。向こうだってちょっとしたスクープを取れて大喜びさ」
んん? とエディナが不思議そうに唸り、ソファの背もたれの上で腕だけで支えていた上半身が揺れる。
「ドギーはもともと刑事でしょ?」
「ケイトじゃない。ケイトが一緒に課題をやる秀才君。その体勢、疲れねえ?」
エディナはちょっと自慢げに片手で身体を支えてみせる。
「腕、鍛えるのにいつもやってる。
でも、それってつまり、私のインタビューを取りたかったのは秀才君で、ケイトは彼の力になりたかった。そういことね」
「問題が?」
「いいえ。でも……ふうん」
エディナは目を細め、面白そうにロストの顔を覗き込む。
「意外と優しいところもあるのね。そういうの、普段は隠してるの?」
「俺はいつでも誰にでも優しくしてる。伝わってなかったのは残念だ」
「優しさじゃなくて、たんなるエゴなのね」
傲慢に結論を出して、エディナは身体を支える腕を変える。
興味を持つのも失うのも一瞬。
きっとムラサメのこともそうやって忘れたのだろう。
リモコンをテーブルに戻したとき、積まれた雑誌に手が触れて扇状に広がる。
下になっていた雑誌の表紙の一部、褐色の肌の細い手首に捻れた金の腕輪、爪も金色に塗られている手が覗く。
どこかで見たような気がして引っ張り出すのと、エディナが触るなと制止したのは同時だった。
「マジかよ、これ表紙ゴールディだぞ。
あんたのこと戦闘狂って呼んで、一番嫌いだって公言してるの知らない?」
「露出狂って言い返してやった」
エディナは手を伸ばして雑誌を奪い取ろうとする。
「露出狂の一押しワンピース着るわけ?
肩出すのとかやめなよ、筋肉モリモリだし。大人のコーデはあんたには荷が重い」
「そんなジャージ着てるやつに言われたくない」
尖った唇に小指サイズの鼻、見事なアーチを描いたまつげ、挑発的だがどこか憂いを帯びたパープルの瞳。
暗めの背景で眩しいくらい白い短めのワンピースを着たゴールディはエディナとはタイプが違う。
雑誌を取り返そうと目一杯腕を伸ばしたエディナはへその辺りでソファの背もたれに乗っていて、腰から下、二本の紐みたいにぶら下がって揺れている足は床から浮いている。
頑強な上半身は足の貧弱さを際立たせ、膝から下は不自然に身体を浸食する腐敗の青白さを連想させる。
彼女を支えずに、彼女を蝕む足の形をした死だ。
エディナに足を見せる服は着られない。
「日曜に着てくのは俺が選んでやるよ。ガキ共に負けずにガキっぽいの」
足に目を向けてしまったことを知られたくなくて、ロストはからかうように彼女の手から雑誌を遠ざけて立ち上がる。
重しになっていたロストがいなくなり、背もたれの一点にエディナの体重がかかって、ソファが後ろに傾く。
とっさに雑誌を放り出し、彼女の手を掴んでいた。
彼女は身体に触れられるのを嫌う。でも、ソファが見た目よりずっと軽かった。
きっと車椅子の彼女が一人でも動かせるものを選んで、遠ざけているのが電子機器だけではないと気づいて、思わす手が伸びた。
倒れるソファに足が巻き込まれないように引き寄せて腰に腕を回したとき、服の下に人体にはない固い質感を持った何かに触れる。
皮膚と同じ温もりがあって表面は滑らかで手のひらより小さく、皮膚の下から盛り上がっているというよりは、外から突き刺さっている。
ただ、指先に感じたのは埋め込まれた医療機器や骨の矯正器具といった人工物ではなかった。
固い表面の内側で石の心臓のように拍動し、その振動はロストの肉でも骨でもない、手を動かす感覚そのものに絡みついてくる。
焦りと恐怖が冷たい痺れになって首から背中へと広がり、手を離そうとすると指先に皮膚が剥がれる痛みを感じた。
エディナがロストの髪に手を突っ込み、顔を寄せてくる。
鋭い瞳の光が強い照明みたいに軌跡を残し、柑橘系のシャンプーの香りに鼻をくすぐられ、感覚が混乱する。
香りがロストの鼻を押し潰す。
エディナの額がロストの顔面に打ち付けられ、仰け反ったロストの鎖骨に上から肘を落とそうとする。
彼女の腹に手を当て、背中側に貫くように押し、ロスト自身は後ろに倒れた。
テーブルに背中から落ちて分厚い天板の上で跳ねる。
息を詰まらせながらテーブルの上で体勢を立て直すと、エディナは倒れたソファの背もたれに俯せになっていて、身体の下に足が挟まれないように手で押さえている。
乱れた髪で顔は隠れているが、その下から感じる視線はレディがバイザーで隠している、容赦のない暴力の先触れだ。
鼻に触ると折れてはいない。鼻血が出ていて鼻の奥が重くて息苦しいだけだ。
新品のジャージが血で汚れただけだ。
手に残る拍動に合わせて、ロストの意志と関係なく何かを握るように指が動いているのを見れば、他はどれも些細なことだ。
「あんた、それまさか──」
「出て行け」
エディナが怒鳴ると天井の照明が明滅し、ロストの後ろでモニターが勝手に映る。画面の大きさに見合わない小さな声で明日の降砂量について注意を促していた。
ロストがテーブルから降りてエディナに手を差し伸べても、彼女は顔をソファに押しつけて隠し、小さく震えていた。
ソファの縁を掴んでいる彼女の手が僅かに開くと、痙攣しているロストの手も同じように動いた。
垂れてきた鼻血を手のひらで拭い、ロストが玄関に移動すると照明の明滅も収まっていく。
ドアを静かに閉めて、家の前に停めた車に歩いて行く間に口の中に溜まった血を路上に吐き出すと、粘りけの強いタールみたいな黒い塊が靴の上に垂れた。
上の階層が邪魔で月は見えないが、空は明るい。
ナノ・マシンの濃度が低くて空気に透明感がある。
降砂量も多いと言っていたし、こういう夜には降ってくる砂が月明かりで煌めいて、ガラスの粉みたいに見えるものだ。
興味なさそうに空を見上げ、頬杖をついて退屈さをアピールしながら、微かに頬の緩んだエディナの顔を思い浮かべずにいられない夜だ。
ロストは車のタイヤを背もたれにして座り、鼻を押さえて血が止まるのを待った。すぐに家の明かりが消えたのは眠ったのか、ロストへの拒絶を示したのか。
考えてもしかたがない。
立てた膝の内側で踏まれて砕けた落ち葉の、元に戻らない欠片の隙間を埋めるように点々と血を落とすことが、ガラスの降る夜にロストができる全て。
「足を治そうとしたんだな」
血を吐き出すつもりで出てきた声はロストのものではない。
そんな泣きそうな声をロストは出さない。
「でも、ダメだった」
指先で感じた拍動はロストの心臓に取り憑いて離れない。
かつて画面越しに触れた彼女の怒りで歪んだ背中に今日、直接触れた。
でも触れてみると、それは雨の記憶が連れてくる寂しさと何も変わらなかった。
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