第26話

 第二階層が夜の街なら最上層は昼の街だ。


 大型ショッピング・モールやコンサート会場、スポーツ・アクティビティといった施設に加え、モスク、教会、寺院などの宗教施設。

 そして遮られることのない日の光。


 どれもロストには無縁だった。


 最上層ではほとんどの施設が外壁を備えて砂の侵入を防いでいる。

 あまり高い建物がないのは下の第二層に繋がった構造のものが多いからで、天災か何かで半分沈んでしまったみたいな景観が独特だ。


 観光客が多いため、CVの管轄をまたぐごとにIDの認証を求められることがないのも下層との大きな違いだ。

 特にケイトにとっては、いちいち帽子を取って自分がオーファンであることを周囲に晒す必要がないというだけでも過ごしやすい。


 先日の強風が運んだ砂がまだ残っていて、ときどき舞い上がる砂埃から守るためにサングラスやスカーフで口元を覆った観光客の人混みの間を、ケイトはまるで透明人間みたいにすり抜けていく。


「ねえ急いでよ、遅れてるんだから」


 いつの間に移動したのか、カフェの二階のテラスからケイトが声をかけてくる。


 砂色のジャケットとスラックスなんか着て、映画に出てくる女性記者みたいだ。網目状の帽子の鍔がうまく影を作って、彼女の半透明の皮膚を目立たなくしている。


「一時間も早く来やがって、朝飯も食えなかったよ。遅れねえと待ちくたびれる」


 テラスに出るには店内を通るしかなく、スイングドアを押して入っていくと、U字型カウンターに三人ほどしか座っていなかった。

 寄りかかってコーヒーを注文して待っていると、降りてきたケイトに無言で腕を引っ張られる。


「腹、減ってないか? クロワッサンとかすげーうまそう」


「ほんとに時間ないんだって。

彼、約束の三十分前には来てる人だし、それより先に着いてないと」


「やめとけって、次から一時間前に来るようになるから。

あ、お兄さん、クロワッサン二つ、シナモンの」


 周りを気にして大声を出せず、静かにロストのすねを蹴っているケイトの肩を掴んで強引に座らせた。

 スパイスが大量に入って舌が痺れるようなコーヒーをすすり、ロアの店に出入りしている癖でポケットから紙幣を取り出して、ケイトに怪訝な目で見られる。


「最上層じゃ用なしか。俺とおんなじだな」


 手の中で紙幣を丸めてセキュリティ・アームの入ったポケットに上から押し込む。

 ロストの緩慢な仕草から疲れを読み取ったのか、ケイトはカウンターを両手でリズミカルに叩きながら待ってくれる。


「今日のこともロストには仕事なの?」


「まあな、警備の手薄な最上層では護衛をつけるってのが原則なんだ。

いつもの連中だとトイレに行く時間まで組み込んだスケジュールを作る。

そういうのが嫌で、俺たちが部分的に担当することになった」


「ここじゃなきゃダメだったの? 私たちはバースとかでもよかったけど」


「ここ以外だと面倒になるぞ。

正式なインタビューってことになって手続きが必要だ。最低でも二週間はかかる」


「それじゃ間に合わないよ」


 ケイトはロストが半分にちぎったクロワッサンを当然のように食べ始めた。


「だから俺たちは今日、最上層で偶然出会う。

そして学生からのインタビューの申し込みを快く引き受ける」


「一緒に来てる」


「このへん滅多に来ないからな。一人じゃ約束の駅まで行けるか怪しい」


「ガイド使えば?」


 ロストはケイトの頭を帽子の上から掴んで揺らす。


「ハロー、ケイト。グリモール近くのシャフト駅までよろしく」


 クロワッサンを放り出し、ケイトは汚い言葉を必死に飲み込んで洗面所へと駆け込んだ。

 帽子で保護していた髪型がどうにかなったらしい。


 アホになってるなと思うが、カウンターの向こうでコーヒーを持ってきてくれた店員が困ったような笑顔を向けてくるのは気に障る。


 黒いエプロンのおかげでコーヒーを淹れるのはうまそうに見えるが、笑顔には無自覚な悪意が透ける。

 店員は声を潜め、洗面所を横目で見ながらロストに話しかける。


「あの子、オーファンかい?」


「だったら何だよ。出てけってんならこれタダにしてくれ」


「気を悪くしないでくれよ。観光客の中にはオーファンを怖がる人もいる。

シティの外じゃ、あれは疫病のせいだって今でも思ってる人が多いんだ」


「なあ、俺が観光客に見えるか?」


「そういうんじゃないんだ、勘違いしないでくれ。

ただちょっと注意したほうがいいって」


 コーヒーが半分くらい残ったカップを爪で弾いて磁器の厚さを確かめる。

 落とすだけじゃダメだ。少し強めに、カウンターの中の床に叩き付ける。

 男が驚いて飛び退くと、ロストは立ち上がってポケットの紙幣をクロワッサンにねじ込んだ。


「忙しいのに掃除が大変だな。

これでバイトでも雇えよ、オーファンのガキとかいいんじゃねえか」


 近くのカウンター席でロストたちを見ていた観光客の二人に微笑みかけ、コーヒーに小便が入ってると囁いてからテラスに出る階段を上がる。


 テラスに出ると、いつも壁で区切られた空しか見ていないロストには白い空が広すぎて目眩がしそうだ。

 最上層にあまり出てこないのは用がないだけでなく、嫌いだからだ。

 明るくて清潔で、汚れが目立つ。


 肉厚な葉が傘みたいに広がったサボテンに似た木の下でベンチに腰掛ける。

 イス・ウォーターのロビーと同じ雰囲気で、座ったのもほとんど無意識だ。


 記憶を失った男はどこだって同じ風景にしか見えないと思っていた。

 見知った場所なんかどこにもない。

 でも、久しぶりに最上層に出てきて、ここは自分の居場所じゃないと感じた。


「じゃあ、どこがお前の居場所なんだ?」


 黒いスーツを着てロストが投げ捨てたコーヒーを飲んでいる、浅黒い肌の男がベンチの隣に座る。

 昼下がりに仕事にあぶれた死神が、会う予定のない男に会いに来たみたいに。


「出てくんな。鏡の中で金玉いじるくらいにしとけ」


「それだよ、汚い言葉に粗野な態度。のけ者にされたがってる。

そんな連中しか集まれない場所が、自分の居場所だと思いたいんだ」


「消えろ」


 心臓が早鐘を打つ。

 周囲の景色が高速言語で説明されてるみたいに容赦なくロストの耳に入ってくる。

 気温、風の流れ、人の数、靴音とつま先の方向、交錯する視線。


 胸の中で拍動する言い知れぬ不安から目を逸らせない男が一人。


「変化を怖がってるんだよ。新しく大切なものができると、新しい居場所ができる」


「そんなものはない」


 反応してはいけないとわかっていても、口が勝手に動く。

 反応すればそいつの存在を認めることになる。

 会話をするほどにそいつは大きくなり、やがてはロストを攻撃し始める。


 だから、無視しろ。


「そうだ。大切なものなんてお前にはない。

大切なものができると人は強くなるなんて嘘だ。大切なものは人を脆くする。

喪失の悲しみには誰も抗えない。知ってるだろ、お前はそれで壊れちまった。

覚えてない? 任せろ、いちから全部話してやる。今、ここで」


「ロスト?」


 ケイトの声にロストは顔を上げる。


 少し動いただけで鼻先や顎から汗の滴が垂れるくらい、顔にだけ汗をかいている。額や目の周りがひどく、泣いているみたいだ。


「熱中症? 一人でぶつぶつ言ってたけど、大丈夫?」


「久しぶりに上に出てきたからな。これじゃ最下層の連中をモグラなんて呼べねえ」


 ケイトが背負っているリュックから冷たい水の入ったボトルを取り出してロストに渡す。

 準備がいい。オーファンは日光の下では厳しい体温管理が必要だ。


「お店で何かあった? 雰囲気がヘンだった」


 ロストは水を飲んでからボトルを首の後ろに当てる。


「ああ、コーヒーに小便入ってるって騒いでるのがいてな、アホだったぜ」


「アホが騒いでる店に置き去りにした?」


「お前の待ち合わせの相手とかだったりしたら、バツが悪いだろ。

ケイトちゃんに気を使ったんだよ。じゃなきゃ叩きのめしてヒーローになってる」


 ケイトは目を閉じて怒りを抑えるが、唇が白く、山形に盛り上がっている。

 息を吐くと同時に勢いよく方向を変えると、彼女は一人で歩き始めた。


「あとはここまっすぐ行くだけだから。休んでからゆっくり来れば、ヒーローさん」


「怒んなよ。可愛い唇が真っ白になってるぞ。

胸もケツも小っちゃいんだ、チャームポイントは大事にしよう」


 ロストの言葉を振り払うみたいにケイトの背中のリュックが左右に揺れていた。一緒に揺れそうになる自分の頭をボトルで押さえつけ、胸を指先でゆっくりと叩いて心臓をなだめる。


 久しぶりに見えたのはドギーには黙っておこう。

 ムラサメにも、誰にも。


 水で口をゆすいでから木の根元に吐き出し、ボトルを逆さまにして突き刺した。


「大事にしよう」


 ロストは意識してゆっくりと、完璧に独り言を言った。

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