第22話
「フェイがいるでしょ。私のよ、返して」
高圧的なエディナの言葉に微笑むしかない。要求は相手から出させるものだという交渉の原則を知らない。
調整が必要だ。
振り向いた若い男には目が四つある。
本来の目の下に付け加えられたタトゥーの目には涙袋までちゃんとあって、彼の表情の動きに合わせて笑ったり悲しんだりした。
「あんたら何? 彫るんじゃなきゃ来んなよ。
ここ行き止まりだろ、用がないやつは来ないようになってんだよ」
四ツ目の声はエディナの顔を見て、眉と一緒に跳ね上がる。
エディナの顔に気づいたのかと思ったが、ただ単に彼女の美しさと、車椅子に座っているのに見下ろしているような視線に驚いただけだ。
ロストはすかさず前に出て名刺を見せ、ムラサメの取得証明書を表示した。
「すまないね、ここに来たフェイは我が社の所有物だ。
君たちが保護してくれて感謝している」
「黙れよおっさん。女に顎で使われるやつが勝手に喋んな。香水くせえんだよ」
背後でエディナが楽しそうに笑う。
リラックスしていて自然と溢れてきた、いい笑い。きっと期待通りの会話だった。
「我が社だって。あなたレッド・ブランチでしょうに。
オッケー、いいよ、そういう威勢のいいのは大好き」
エディナは言いながらロストを押しのけ、半分笑ったまま四ツ目の肝臓のある辺りに拳を打ち込んでいる。
下から鋭い角度で打ち上げられているから、身体の中心に重い塊ができたみたいに苦しいはずだ。
ロストは思わず口を手で覆う。
エディナは口の中が唾液で一杯になった四ツ目の髪を掴んでシートに押しつけ、タトゥーを入れるのに使う高速振動するニードルを手に取る。
「四つもあるなら一つくらいなくなっても気にならないよね」
四ツ目は苦しそうに目を閉じるだけだ。
あまりに強く押しつけられているから首を振ることもできない。
ただ必死に手を振って奥の壁にかかったタペストリーを指している。
エディナが顎でロストに調べろと指示を出す。
四ツ目の指摘通り、顎で使われている。香水臭いだろうか?
タペストリーの裏はガレージの外まで続く通路があり、坑道の中に繋がっていた。ロストの隣に来て覗き込みながら、エディナが得意そうに話しかけてくる。
「こう見えても、荒っぽい地域で育ったのよ。
はったりくらい使えるの。調整班でも仕事できそうじゃない?」
今のははったりじゃなくて脅しだと教えてやりたいが、ロストには他にやるべきことがある。
エディナが通路の向こうに気を取られている間に、シートに額をつけたまま悶絶している四ツ目を横向きにして寝かせる。
頬を軽く叩いて意識があるのを確かめ、口の中の唾液を吐き出させた。
「大丈夫か? 後で話がある。どこにも行かずにじっとしてるんだ。
お前のために言ってるんだぞ。あの女は犬と一緒で、逃げると追ってくるからな」
通路の中はLEDランタンがいくつもぶら下げられていて明るい。
ビニールのトンネルみたいな通路は疫病発生時に設置された簡易処置施設をそのまま使っていて、黄色く変色している。
夜中の廃病院みたいに不気味な中を、エディナは鼻歌を歌いながら優雅に角を曲がる。
坑道の中の空間は床から天井までビニールで覆われ、処置台が放置されていた。
そのうちの二台が並べられ、一台にはオフショルダーのセーターを着た痩せた女が寝そべり、もう一台に今朝、見たままの格好のムラサメが縛り付けられていた。
四角く手入れされた髭の男がムラサメの額に線を引き、レーザーメスのスイッチを入れたところだ。
「本当にいるのね、フェイの髪を移植するバカが」
エディナは工場見学にでも来たみたいに見回しながら部屋に入り、麻酔用の点滴を車椅子に収納してあった杖で倒す。
「もしかして移植するのは頭の中身? それなら納得できるけど」
「フェイに脳はない。なんか、液体の中に粉みたいなのが浮いてるだけだ」
ロストは言いながら倒れた点滴の支柱を拾い上げ、処置台から起き上がろうとしていた女の顔面にフルスイング。
騒がれても、エディナに気づかれても困る。
女の頭は小さくて、小枝で枯れ木を叩いたみたいな手応えで、支柱も曲がる。
処置台から転げ落ちる女の頭を足の甲ですくい上げるように蹴って、しっかり意識を奪っておいた。
後はムラサメを取り戻すだけだと振り返ると、エディナが眉をひそめてロストを無言で非難する。
営業の許可は取ってあると大声で訴えている髭面のほうは見向きもしない。
「なんだよ、頭から床に落ちるよりいいだろうが」
「その人はただの客よ。無視していい」
「勝手に殴ったり咎めたり、忙しいやつだな。
俺は痩せた女が嫌いなんだよ、見ると蹴飛ばさずにいられないんだよ」
微かに、写真に撮って並べないとわからないくらいわずかに表情を曇らせ、エディナは自分の萎えた足を見下ろす。
気に障ったんなら怒ればいいのに。
ロストは支柱を投げ捨てて髭面に向き直る。
「店のことはどうでもいいんだ。俺たちはそこのフェイを引き取りに来ただけだ。
解放してくれたら帰る……ちょっと話を聞かせてくれたら帰る」
言い終わらないうちに飛んできたレーザーメスを屈んで避け、両腕を広げて突進してきた髭面の肩を膝で止める。
身体はロストより小さいが、鋭くて力強いタックルだ。
膝で受けた衝撃でよろめくのを髭面の頭を掴んで踏みとどまり、耳を削ぎ落とすように肘を打ち下ろす。
髭面が耳を押さえて仰け反ると、顎を膝で蹴り上げた。
手応えはいいが、ひげ面は思ったより耐久力が高く、ロストの膝を抱えてねじる。
関節を壊されないように同じ方向に身体を回したとき、呑気にムラサメの拘束を解いているエディナが目に入る。
「おい、手伝えって。こいつレスリングかなんかやってるぞ」
「犬はボスにしか従わない。そしてあなたは私のボスじゃない」
ロストの知らないうちに急に機嫌が悪くなるのはケイトと同じだ。
エディナのような得体の知れない生き物の中にも十二歳の少女と同じ部分があるのが確認できるのは大きな安心と理解に繋がる。
つまり、今のエディナはダメだ。何も期待できない。
ロストはしっかりと膝に顔を押しつけて隙間を作らないようにしている髭面の鼻に指を突っ込み、引きちぎる勢いで引っ張る。
髭面が悲鳴を上げ、生暖かい血と唾液がズボンに飛び散った。
「ねえ、ちょっと、このフェイ意識がないんだけど、普通に起こしていいの?」
「ムラサメだ、名前を呼べ」
髭面は抱えたロストの膝を持ち上げて後ろに押し倒す。
ロストが後ろに倒れ込むときに首の後ろを両手で守ると、折れ曲がった麻酔の支柱が手の甲に食い込んだ。
「ムラサメ……イントネーション正しい?
まあいっか、ムラサメ、起きて、持ち主が引き取りに来たよ。ってこの服、私のじゃない? 何でこいつが着てるの?」
「お前がやったんだ」
麻酔の支柱の折れ曲がって尖った部分を半分ちぎれた耳に突き入れる。
ひげ面の眼球が上向きに回って膝を抱える力が緩むと、顎を押し上げながらこめかみに肘を打ち込んだ。
「思い出の服だよ。あんたに思い出してほしいって」
くだらなそうにエディナはため息をつく。
「ときどき何でもあげちゃうのよね、悪い癖だわ。着るなら寸法直せばいいのに」
顔のどこでもいいから何度も肘を打ち込んで、肘と相手の骨が直接打ち合っているみたいに腕全体に痺れとが走ったときに、髭面は完全に力を失った。
瞳は中央に寄り、鼻筋が凹んで、鼻血には粘度の高い血の塊が混じる。
服に付く前に素早く腕の中から足を抜き、うつぶせにした髭面の腕を組んで額を乗せておく。
窒息はしないだろう。
「なかなかよかったわよ。お金の取れる試合じゃなかったけど」
「あんたと違って人に見せる商売じゃねえんだ。勤務評価くれ」
処置台に手をついて背中を丸めると腰より少し上の筋肉が引きつる。
呻きそうになるのを咳き込んでごまかし、ムラサメの頬を手のひらで叩くとムラサメの頭が振り子みたいに揺れて髪が左右に広がった。
「それでいいの? 名前は?」
「いくらフェイでも麻酔で寝てんのに聞こえるわけねえだろ。
名前呼んでくれたら後でムラサメが喜ぶってだけ」
ロストの脇腹に杖の先端がねじ込まれ、呼吸が止まる。
「あなたにドギー、それにムラサメ。変な名前の人ばっかりよね、調整班」
「ムラサメは日本語だよ。田舎の集落に降る雨って意味だ」
「違いますよ。強く降ったりやんだりする雨ですよ。
まあ私のムラサメはそのムラサメではないんですけど」
得意げに説明したのに、いつのまにか目を覚ましていたムラサメに否定される。
意識ははっきりしているらしいが、身体は思うように動かせず、エディナに助け起こされている。
「エディナが助けに来てくれた。
やっぱりヒーローだ、すごい、みんな一人でやっつけちゃった」
「すごいよなあ、たっぷりお礼を言っとけ」
フェイについての知識がないエディナは抱きついたまま離れないムラサメをどう扱っていいかわからず、ロストに目を向けて助けを求める。
ロストはうなずくだけで手は貸さない。興奮して聞こえていないムラサメと、穏やかに引き離そうともがいているエディナを残し、一人で店のほうに引き返した。
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