第51話
意識がはっきりしてきたのは作業を始めてから丸一日が過ぎたころで、シュリのガラス化はほとんど終わっていた。
姿勢は路地で発見されたときの足を投げ出して座っている形に近づけ、少し前傾させて壁がなくても安定するようにした。関節部を綺麗に仕上げるサポーターを外せば完成だ。
車庫の中は夏みたいに暑く、ロストのシャツは汗でもとの色がわからないくらい黒くなっていた。ドギーがクーラーボックスからビールを取り出して投げてよこす。
ドギーはタンクトップ一枚で、首筋から肩まで汗で光る肌にいくつもの染みが浮き、彼の好きなダルメシアンみたいだ。
ビールなんて疲れていないと美味いとは感じない。瓶に口をつけて首を反らせると冷たい泡が喉を下りていく感覚が数秒間、心臓の鼓動に取って代わる。ロストにとってのビールは感覚そのものだ。
「初めてにしちゃうまくいったんじゃないか。こいつをどこに置く?」
「エディナの住んでる住宅街。こういのはやりすぎってくらいがいいんだ」
「いい迷惑だな。報道されたら引っ越さないといけなくなるぞ」
「そのくらいこっちで用意するさ」
「お前のアパートとか?」
「あんなとこにエディナが住めるか。それに俺はどこに住むんだよ? 今のアパート借りるのもすげえ苦労したんだぞ」
ドギーは見え透いた嘘に騙されないぞというふうに、人差し指を振る。
「一緒に住めばいい。レディにそういう話はなかったから噂になってるぞ、インタビューのときに一緒にいた男は誰だって」
「たんなる護衛だ」
「護衛がインタビューのときまで側にいることはない」
「そういう要望だったんだよ。一人じゃきついから一緒にいろって」
「お前は知らないかもしれないが、レディは他人との間にきっちり線を引いて、決してまたがせない。なのにお前だけは完全にその内側に入ってる」
「お前、何で笑ってんだ? こないだは一緒に行動するなって言ってたろ」
「調整班としてはな。でも、お前がそういうつもりなら俺は止めない。レディにだって、特に今は、支えてくれる人がいてもいい」
「俺が何をやってると思ってる? 俺のやること、考えること、どれか一つでも知られたら、あいつは俺を殺す」
「そうかもしれない。でもな、まさにこれがだよ。お前が彼女のためにここまでするのは予想外だった。だから、本気なんじゃないかと思った。なあ、俺の言ったことは気にしなくていいんだぞ。記憶を失う前の自分にも、遠慮しなくていい。お前だって誰かを幸せにできるし、誰かに幸せにしてもらえる」
ロストは飲みかけのビールをシュリの股の間に置く。美味いと感じるのは最初の一口だけ。後は股の間にあったって不思議はないようなものだ。
ドギーが浮ついた言葉を重ねるほどに、ロストの中で感情が失われていく。意味や形を与えようとするほどに、手の中からすり抜けていく。背中が焼け付くような焦燥だけが残り、喪失の恐怖が唯一の思い出になる。
失う前から、彼女を失った気持ちになる。
「そんなんじゃねえよ。お前が前に言ってたろ? みんなが誇りに思える人のために働けば、いずれ自分を誇りに思えるようになるって」
ドギーは少し考えるふりをしてからうなずく。たぶん覚えていない。覚えていなくてもいい。ドギーをずっと見ていれば気休めの、他愛のない嘘だったとわかる。ロストが今、口にしようしていることみたいに。
「それとはちょっと違うが、俺はエディナが……あいつが、自分を誇りに思うようにしてやりたい」
言い終わった後も身体のどこかからずっと空気が漏れている音がした。どこかに穴が開いて漏れた言葉だ。
ロストは作業台の下に重し代わりに置いてあったハンマーを取り出し、軽く素振りする。
「さあ、カット・グラスはこいつのどこを持ち去る?」
「この姿勢だと腕だろうな。骨まで浸透してると固くなってるから気をつけろ」
「詳しいな」
「映画を観ろって言っただろ」
「いやだね。映画なんてみんな退屈だ。テーマ? メッセージ? ゲロは人の見てねえところで吐けってな。さて、どっちの手を残したいかな? 十三……四だっけ? それだとやっぱ右手が大事だよな」
「ジャーナリスト志望だろ。シャッターを切るのは左手じゃないか?」
「シャッター? こいつは報道カメラマンじゃないぜ」
「相手の弱みをつく反射神経、独自の目線と論理、危険の中でも行動できる勇気。素質は充分にあった」
「ないさ。だって死んじまった」
ドギーがシュリを擁護するように右手首を掴み、倒れないように足を押さえる。
「右だ。この子に敬意を払え」
「死んでも夢は見るって? 泣けるよ。どの芝居だ?」
からかうように笑いながら、ロストはハンマーの先端をシュリの右前腕に乗せる。手首と同じ幅が続いて、ちょうど太くなり始める辺り。
つっかえながら質問するケイトをこっそり見守る目つき、インタビューでレディを責め立てる真剣な顔。指の長い、ロストと同じくらい大きな手。エディナを軽々と抱え上げるのを見て、いてくれてよかったと思った。
ロストはハンマーを肩の高さまで持ち上げる。あまり大きく振りかぶると肘から上まで割れてしまう。力加減が重要だ。
ガラスになった横顔にシュリの愛嬌のある表情をロストは見ることができる。こういった邪魔なものが雪みたいに降り積もって、やるべきことができなくなる。
彼らのことを誇りに思えと?
シュリが目を開けて喋る。レディに感化されて無謀な行為に走る若者たちの話だ。誰もあんな連中を誇りになんて思わない。罪悪感を押しつけられて、戸惑うだけだ。
お前もあいつらとたいして変わらないぜ。動画を公開して死んだ。
シュリが他と違うのは、マックリルが彼の死を有用と判断したことだ。マックリルが? ロストが?
どっちかわからなくて、集中力が途切れて、疲れ果てた身体は振り上げたハンマーを保持できなくて、手から滑り落ちるようにハンマーが振り下ろされる。
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