第31話

 エディナが触れる前に、ケイトはテーブルを叩いた手を引っ込める。

 椅子の上で膝を抱えているみたいに丸くなって、ロストのほうも見ようとしなかった。


 エディナはまだケイトの手がそこにあるみたいに、指先でテーブルの表面を擦る。

 ケイトが勝手に感じているインタビューを台無しにしたという気持ちを擦り落とそうとしている。


「私が足の感覚を失ったのは、テロに巻き込まれたから」


 エディナはケイトでもシュリでもなく、カメラに向かって、その映像を観ている見知らぬ人に家族の親しみを持って語りかける。


「歩道に車が突っ込んできて、私はとっさに側にいた女の子を庇った。

車と私の間にその子の母親が挟まれて、私たちは何とか無事だった。

でも、車から降りてきた男がナイフで通行人に斬りつけた後、母親とその下敷きになっている私たちをめちゃくちゃに刺した。

そのとき、私が何を考えていたかわかる?」


 自嘲気味に笑う彼女に誰も答えない。

 もうすでに撮り終わった映像を観ているみたいに声が届くなんて思えなかった。


「代表選考会。水泳の。

その日の午後の選考会に間に合うか、ずっと考えてて、心臓の鼓動と、背中に入ってくるナイフが身体の中で糸をちぎるみたいな感じとが、頭の中でプツップツッて鳴ってた」


 シュリの質問に答えていない。ただ誰もが求める答えにエディナは向かっていく。


「母親と私の背中が盾になって女の子は無傷だった。

毎年、その子からクリスマス・カードが届くの。絵本みたいに大きくて、開くとサンタがホーホーホーって感じのやつ。

最初は笑えなかったけど、毎年、見てるうちに可笑しくなってきてね、いつからか笑ってた。

私たちは長い時間をかけて、痛みしかない記憶を笑いに変えた。そして思うの。

もしも、あの日に戻れたら、私は同じことをするだろうかって」


 いつの間にか聞いているシュリたちの呼吸のタイミングがエディナと重なっている。淡々と語る中に彼女の記憶の情景が閃き、暖炉の前でクリスマス・カードを開く彼女と同じ表情になっている。


「二人目の犠牲者を出したくない。

足を失おうと腕を失おうと、私はその気持ちのままに行動する」


 話が終わったと気づくのに数秒かかった。


 シュリが軽く開いたままになっていた口を閉じ、それでもまだエディナの微笑みに宿る他人と自分の痛みを区別しない無分別の優しさ、雨水のわずかな重さに撓んだ細枝のように曲がった唇に目を奪われながら、カメラを止める。


 ロストがため息に聞こえないようにゆっくりと息を吐くと、ケイトがうつむいたまま立ち上がる。


「ちょっとトイレに行ってきます」


 テーブルに置いた帽子を目深に被り、早足で立ち去るケイトの小さな背中を黙って見送るシュリのすねを、ロストは軽く蹴り上げる。


「あ、俺、見てきます」


「悪いな。ケイトの考えてたのとは少し違ったのかもしれん」


 失礼します、と頭を下げてシュリはケイトを追った。


 エディナは正面の二人がいなくなった後も微笑みの余韻を残していたが、やがて紫の煙が入った容器を手に取り、中身を確かめるように振ってロストの前に置いた。


「シュリは満足できるインタビューを取って、私たちも予定通りだった。傷ついたのはあの子だけ。

聞いた? オールド・ファッション・ボーイよ。あれじゃただのファンじゃない」


「シュリの質問はいい。編集でケイトの部分を削れば、いいインタビューになる」


「そう? 私、ちゃんとできてた?」


「へたに打ち合わせしなかったからか、自然な感じが出ててよかったよ」


「どのへんがよかった?」


「過去語り。差し込むタイミングも表情も完璧だった。演技力、あるじゃねえか」


「演技じゃなかったから」


 ロストはその言葉が演技であるかのように笑って聞き流し、空になった容器を捨ててこようと席を立つ。


 とっさにロストの腕を掴んだエディナの手は強張って、誤って誰かを殴りつけてしまったみたいに震える。


「ケイトはあんたに失望したりしない。利用されたなんて思ったりしないよ」


「カメラならもう止まってる。いつもみたいにひどいこと言えば?

今のあなたは最低な上につまらない」


「安心しろ、そんなやつとはしばらく顔を合わせないですむ」


 驚いてロストを見上げたエディナの顔には不安と寂しさが、いつもはない影を目の下に作る。


「そうなの?」


「入札を取りに行く方向で固まれば、俺たちは入札のための調整に入る。

あんたはカット・グラス捜査の指揮を執る準備でレッド・ブランチに入る」


「ふうん」


 そんなことは当然わかっているというふうにエディナはうなずく。

話が終わっていなくて、まだ続きがあるとわかっていて、でもただの一言も言うべきことが思いつかない。


 少なくともロストはそうだ。

 失われた記憶を自分の中に探るときと同じ、白いキャンバスに白い絵の具を塗り重ねる虚無感があるだけ。


 エディナが車椅子を引き、ロストに向かって顎を横に振っているのが、道を空けろという意味だと理解するのにも数秒かかる。

 最低でつらまなくて、とても鈍い。


「帰る。考えてみたら、これ以上ここにいる意味なんてないもの」


「待てよ、あの二人が戻ってきて俺たちが消えてたんじゃ、何が起こったのかと思うだろ」


「あなたは残って。形だけの護衛だもの、後は一人で大丈夫」


 ロストを押しのけて通ろうとするエディナの車椅子の車輪が椅子にぶつかり、倒れると同時に屋外で木琴に似たリズミカルな音が連続して鳴った。

 楽団の演奏なんかじゃないのは、音を聞いて首をすくめたエディナの反応でわかる。


 耳で聞いているのに、胸に響く音。衣服をはぎ取られたみたいに自分が無防備に思える。

 膨れあがる不安に身体を捻られ、窓の外を凝視すると、モールの出口に向かって走っていく人々と、また別の方向から人々を追い立てる木琴に似た音。


「嘘でしょ、こんな上層でテロ?」

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