第48話

 店から帰りがけに無料で配られていたパンを一つ手にとって歩きながら食べたが、砂の塊のように味がしない。熱でもあるのか、舌が腫れ上がっている感じがする。


 休んでいる暇はない。考える余裕を与えるな。敵にも、味方にも。


 ギリシャ神殿を模した劇場の金色に塗られた柱に寄りかかってドギーに連絡を入れる。機嫌のよさそうな声ですぐにAIに会話させていると気づいて通話を切り、ムラサメを呼び出した。


「ドギーが出ねえ。使えねえデブだ」


「いきなり何ですか? 知りませんよ、子守じゃあるまいし。あの人、ときどき位置情報もわかんなくなるんですから、探せないです」


「じゃ、お前でいいや、ロアとその周辺の監視を手配してくれ。特にロアだ」


「ロアってあのおっかない人? 会ってきたんですか?」


「ああ、どうにも奇妙だ。モールの襲撃に加わった連中の顔を付き合わせてみたが、接点が見あたらん」


「本当に妖精で操っていたとか?」


「いくらこの街でもな、お前らより奇妙なものなんてないんだ、覚えとけ」


 ムラサメが電子音のような声で短く何か言うと、端末から抑揚のある電子音が返ってくる。おそらく端末とOSを介さずに会話している。


「ね、すごいでしょ、ゼブリウムの実験」


「ね、じゃねえ。お前らと一緒にすんな、言葉を使え」


「脳の機能損傷を修復しようとして、頭部にゼブリウムを埋め込んだ被験者がいたんです。術後、意識が戻ったとたん周囲にいた人間の意識が変成して、全員の意識が一つになった……と推測される事件があるのです」


「確かに似てるが、操ってるのとは違うな。そいつはどうなった?」


「死んでますね。すぐに脳の組織が分解してしまったとあります。死後の細胞の分解過程が始まった、と」


 ムラサメの何かを読み上げるような口調を不審に思いつつ、ロストは立っている場所を変える。マチネーの時間で人が集まってきていた。


「しかし、初めて訊く話だ。そんな情報、どこに転がってた?」


「だってこれ、イス・ウォーターのデータベースですもん」


「はあ?」


「イス・ウォーターの製薬部門の前身がゼブリウムの医療利用を目指していたクルーメディシンです。ゼブリウムの研究資料は貴重でしたから、倒産させずにイスのような大企業が買収したみたいですね」


 ロストは一番端の柱に寄りかかり、後頭部を何度か打ち付けながら、新しい情報の有用性を分析する。


 ゼブリウムが関わっているとなると厄介だ。鉱石の流出を厳しく規制している最下層の国民が上がってくる事態へと発展すれば、いつものような調整は不可能になる。


「大丈夫ですか? 呼吸がヘンです。病院に戻ったほうがいいんじゃないですか」


「心配すんな、健康体すぎて看護士から見放された。それより、クルーメディシンで研究に携わってた連中は、まだ社内にいるか?」


「はっはっは、ロストごときのセキュリティ・クリアランスではそこまで調べられません」


「俺のアクセス・コード、勝手に使うな」


「私のコードじゃ給与明細も見られませんよ。いや、ほんと人権ないですよね、私」


「人じゃねえからな。ドギーのコードは使えるのか?」


「ぜったいムリ。触っただけでばれます。おしおき怖い」


「妙なところでガードが堅いよな、あのおっさん。わかった、俺のコード使って調べられるだけの情報、集めとけ」


「関係ありそう?」


 ロストは階段の真ん中に座り込み、指先を擦り合わせる。エディナの腰の物体に触れたときの、指が空洞になって共振しているかのような震えが蘇り、その震えが低く唸る声に聞こえてくる前に拳の中で震動を潰した。


 繋がりがないとは言えない。だが、エディナの身体にゼブリウム実験の痕跡があったことは、ムラサメと共有していい情報でないのは確かだ。


「今はまだわからん」


「ふうん。まあいいでしょう。あ、それとロストにメール来てますよ、珍しい。差出人はわかんないですけど、今日のことはごめんって」


「相手のわからんメールを開くな」


「なんで? 私もロストにメッセージしとこ、今日のことはごめんっと。メールの人、恋人ですか?」


「お前の頭ん中の水、腐ってんじゃねえのか」


「遠回しな否定ですね。いらぬ疑いをもたれるだけですよ」


「お前になら問題ない」


「本で読んだんです。メールとかメッセージでのやりとりは親しくなるほど短くなるって。言わなくてもわかることを省くようになるんですね。今日のことはごめんでわかり合えるなんて、多くの時間を共有している証拠です」


「何でも自分が中心と思ってる傲慢な女かもよ?」


「傲慢な人はこんな謝り方はしません。隠すつもりならいいですよ、そういう恋もありますから。でも実は私、恋ってしたことないんですよ」


「そいつは驚きだ」


「どんななのかなー、楽しいのかなー」


 ロストは階段に背中を預けて寝そべり、柱の上に彫刻された馬に引かれた戦車に乗った女を見上げる。娘に見える二人も乗っていて、全員が怒っているらしい。


 段差の角がゆっくりと背中に食い込んできて、ロストの胸を突き上げる。痛みで、張り裂けそうだ。


「お前、エディナが好きか?」


「はい、とっても。ずっと一緒にいたい」


「じゃあ、お前はエディナに恋してるんだ」


「わあ」


 通常の言葉と高速言語が入り交じりながら、ムラサメのエディナへの思いが溢れている間に通話を切った。


 呼吸も動悸も収まり、汗は冷えきった。でも、ロストは頭の中にちらばっている自分の計画を整理することから目を背け、ただ彫刻を眺めている。


 まず、自分が必死になっているのは認めよう。


 独断で役員会の意向に反し、ロアとの良好な関係も危険にさらした。モールで起きた襲撃のような事件を再び引き起こす可能性も理解した上で、それでもエディナを踊らせる。


 どうしてそんなに必死になっているのか考えるには、疲れすぎている。戦車の車輪が回り始め、眼球が勝手に左右に動いて気分も悪い。


「気分が悪いんですか?」


 陽炎のようにゆらめく警備員の影が問いかける。たぶん警備員だ。


「いや、気分はいいほうだ。少し休んだら行くよ」


「本当に? 一緒にいたほうがいい?」


「俺はそうは思わないな」


 ずっと一緒にいたいとは思わない。ただ、ずっとヒーローでいてほしいと思う。記憶にいつまでも残る、決して色あせない、輝かしいヒーローでいてほしい。

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