9.本当に好きな人

恵美子は凛の瞳に語り始める。その柔和にゅうわな微笑みは人生を重ねてきたからこその温かみと深さが有った。その心地良い眼差まなざしを感じた凜は面差おもざしを上げ、彼女に自分の視線を重ねる。


「私さっき凜ちゃんは一番好きな人が誰だか分らないんじゃないかって言ったけど、あなたが不安に思う原因は、本当に好きな人が誰なのか実は気が付いてるところから来てるんじゃないかしら」

「……そ、そんな事は」


どぎまぎとはっきりしない態度を見せ、優しく温かい視線を遮る様に凜は顔を横に向け、少し掠れた声で恵美子の意見を否定して見せたのだが……


「凜ちゃんはとって優しいわよね。だから他の人の事を過度に気遣ってそこから出て来る不安で、自分を見失ってるんじゃないかしら」

「ぼ、僕はまだ好きな人なんて……」

「いないって思ってるの」


小さく頷く凜、しかし恵美子はゆっくりと首を横に振って見せた。


「深く考える必要なんてない、素直になればそれでいいのよ。そうすれば不安も消えるわ」

「素直に?」

「そう、素直に。少し恥ずかしいかもしれないけど、こうやって胸に掌を当てて、目を瞑って……私ね、何かに迷ったり、何をしていいのか分からなくなったら何時もこうして自分に聞いてみるのよ」


その仕草は他人に見られたら少し恥ずかしい様な気がしないでもないが、一人でやってみたら結構落ち着ける様にも感じた。月に一度、手術を受けた病院の診療内科でカウンセリングを受けて、心の中の不安を吐露とろし、薬を服用する日々が続いている現実だがこれを繰り返せばそれも必要無くなるかも知れないとそんな事を思う。


その根拠になっているのは恵美子の重ねた歳月、その事実は明確な確信を与えてくれる。静寂と恵美子の笑顔に包まれる茶室は凜の歩を一つ先に進めてくれた。


★★★


「え?」


月曜の放課後、何時もの様に入った吹奏楽部の部室で凜はほぼ親友のサクソフォーン担当、今野清から話を聞いてその内容に絶句する。


「それ、ホントの話なの?」

「ああ、さっき顧問の吉川先生から直接聞いた話だから……」

「そ、そう」


今野の話によると前部長で凜に告白した佐藤傑が入院したと言う。その入院の理由というのが『急性リンパ性白血病』を発症したからなのだそうだ。


「あのさ、僕が間違えてなければ、それって、え~~~っと、ちょっと名前が出てこないんだけど、かなり有名な女子の水泳選手がかかった病気だよね」

「ああ、そうだ」

「その水泳選手って、病気治ったよね」

「うん、競技に復帰して結構いい成績出してるよな」

「……だったら、佐藤先輩も…治る、んだよね」


言葉を区切り、遠慮がちに尋ねた凜の質問に今野は返答しなかった。ただ、それが返答の代わりでもあった。


「なんだよ、なんで黙ってんだよ」

「……ん、あぁ、まぁ、その、な…」

「おい」


部室の中の空気が凍った様な気がした。そこに麻耶が入って来る。そして、二人のちょっと変な空気を察して恐る々の表情でそろそろと近寄ると押し殺した声でこう尋ねる。


「なに?なんか有ったの……」


首をちょっとだけ動かしてほぼ視線だけを麻耶に視線を送りながら今野は凜に伝えたほぼそのままを彼女にも伝えるとその顔は猛烈な勢いで蒼白に変わる。


「だ、大丈夫なんでしょ、白血病って一昔前は不治の病とか血液の癌とか言われてたけど、今の医学技術なら治るって聞いたことある様な……」


そう言いながら明らかにおろおろとした動きを見せ、我を失っている麻耶の様子を見ながら今野は目を伏せる。そして一言……


「あんまり、良い状態じゃないらしい」

「そ。そんな……そんなことある訳ないじゃない。つい先日まであんなに元気でトロンボーン吹いてたじゃない」


二人の会話を聞きながら凜は気になる事を思い出す。それは彼が先日、告白を受けて少ししてからこの部室で少し放った『あまり時間が無い』という言葉、それに憔悴した表情。時間が無いという言葉の意味は『卒業までの時間』、そして彼の表情は受験勉強疲れと受け取ったのだが、それは間違いではなかったのかという思いが頭をよぎる。そして凜は今野に尋ねる。


「じゃ、じゃぁさぁ、お見舞いに行かないとじゃない?」

「それがな、今、御両親も御兄弟も直接会う事は出来ないんだって」

「え?」

「なんでも感染症を防ぐためにクリーンルームって言うところに入ってるらしいんだけど、そこに入るのって結構手間暇かかるらしくて外から顔を見るくらいしか出来ないんだって」

「……そう…なんだ」


躊躇い勝ちの返事を凜がしたのとほぼ同時に部室の中に嗚咽が響く。麻耶が大粒の涙を流しながら突然泣き出したのだ。普段明るくて快活で、クラリネットというパートのメンバーを引っ張っていくリーダーシップを持つ麻耶の涙を見るのは初めての二人、どう対応していいのか分からなくなり、軽いパニック状態に落ちる。そしてその涙の本当の意味を理解していない。


更にその場面に部員が何人かがやがやと入ってきたものだから、今野と凜が麻耶を虐めたのではないかという誤解迄生まれて部室内は騒然とした空気に包まれる。ただ、その誤解は今野の説明で直ぐに溶けて重苦しい空気は直ぐに解消されたが麻耶は泣き止まない。女子達が取り囲んであれこれと慰めて見てはいるが落ち着きを取り戻せずに押し殺した鳴き声が部室の中に漂い続ける。


その鳴き声が裸で抱き合いながら眠った時の紗久良の嗚咽と重なって聞こえた時、麻耶の涙の本当の意味を凜は理解した。


秋の日は釣瓶落とし。練習は開始される事無く時間だけが過ぎて行き、赤鴇色夕日が部室の中に差し込み始めた時、顧問の吉川が現れてその日はそこで解散、そして今週の練習は全てキャンセルと佐藤へのお見舞いは暫くの間遠慮するようにとの通達が有った。


泣き止まない麻耶に凜は言葉をかける事が出来ない、彼女の切なさが紗久良の姿に重なって見えた時、凜には恵美子が言った一番好きな人が誰なのかおぼろげにだが思い浮かべる事が出来た様な気がした。

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