4.晩秋の雪解け

絶対零度、つまり摂氏マイナス二百七十三度の状態では時間すら凍り付き、流れを止めてしまうと物理の授業で聞いた様な気がした麻耶は今がその状態だと察するまでにそれほど長い時間を必要としなかった。いや、察したと同時に時間はその流れを止め、自分の未来はそこで終了したと思えた。


……傑の右眉がピクリと動く。


「愛、してる……?」


顔面が蒼白になった摩耶は彼の質問に答えるための思考は停止していて、言葉そのものを失ってしまっている。彼女の肩を押さえている凜の手にその証拠たる震えが伝わってくる。完全にフリーズしてしまった事をまずいと感じて凜が咄嗟に口を出す。


「あの、つまり、恋人として付き合ってくれないかと言う意味……」


その声と同時に向けられた傑の視線の冷たさに凜の言葉の語尾もふにゃふにゃとだらしなく消えて行く。


「凛……おれ、話したよな…」

「え、ええ、勿論覚えてます」

「ならどうして摩耶をここに連れてきて挙句の果てに愛してます等ふざけた事を言わせる」


今度は凜がごくっと一度つばを飲み込む。そして、背中を流れ落ちる気持ちの悪い冷たい汗を意識しながら再び口を開く。


「せ、先輩、言ってたじゃないですか、摩耶さんって控えめだけど快活で、ある意味男子みたいな性格をしているから内面では打ち解けられるんじゃないかって……」


少し震える声で呟く様に言った凜の言葉に今度は傑がフリーズする。


「だ、だから、もう一度告白したら考え直してくれるんじゃないかって思ったから……その、摩耶さんをここに…」


ふにゃふにゃでへろへろな口調で喋る凜の頭の中も苦汁にがりを入れられた直後の豆乳状態に陥って、固まり始めるのは時間の問題、これ以上言葉を発するのは無理な状態に追い込まれつつあった。しかし、それとは反対に傑の表情はすこし温かさを取り戻し、ゆっくりと緩んでいく。


「凛……」

「は、はい……」


返事の語尾のトーンが不自然に上がるのが自分でも感じられ、それがかなり失礼な態度なのは分かっているが八割がた固まった思考回路は標準的な行動を取るための信号を体に送る事が出来ない。脳裏に映る画像の左下に表示されたスタートメニューを右クリックしてシャットダウンまたはサインアウトの項目を選択して再起動を掛けてみたい心境だったがそれすらも出来ない位混乱していた。


しかし、傑の言葉は意外な物でそれを聞いた瞬間滞った電気信号が再び流れ始めるのを感じた。


「……凜、摩耶、ありがとう」


そして、にっこりと微笑む彼を凜と紗久良は一瞬呆然と見詰めてから二人視線を合わせる。そのまま暫く見つめ合ってからその視線を再び傑に返した。


「ただ、返事は少し待ってくれないか。やはりその……凜には分かってもらえると思うが…まぁ、そう言う事だ」


凜の表情が緩み笑顔が戻るが摩耶は彼の少し待ってくれと言う言葉の次に発せられた部分の意味が良く分からなかった。


「摩耶……」


さっきとは打って変わって暖かな陽だまりの様な笑顔を湛えながら話し掛ける傑と目が合った摩耶の頬がほんのりと朱に染まる。


「は、はい」

「告白を受け止めるのは大切な事だよな」

「え、は、はい……」

「だから、答えは少しだけ待ってくれないか。決心が付いたら必ず摩耶に直接返事をするから」

「は、はい、先輩、私、先輩のつっかえ棒になる自信ありますから!!」


傑の表情を見て極限状態から解放された摩耶だったがその反動で今度は思考が暴走気味の方に振れて、今度は訳の分からない事を喋り出し傑は苦笑い。このまま会話を続けさせるとまたマイナス方向に針が振れそうだったのと、面会時間の終わりが近づいている事に気が付いて凜はかなり興奮気味の摩耶を引き摺る様にして傑の病室の前から立ち去った。


久しぶりにコントの舞台ライブでも見た様な場面を目撃した傑は一度目を伏せてから再び薄く瞳を開く。それと同時に少しだけだが口角が上がり、心からの笑顔が浮かぶ。


「傑、傑……」


凜と摩耶と入れ替わる様に現れた母親、真知子が入院してからふさぎ込むことが多かった彼の変化に気が付いて不思議そうに呼び掛けた。


「ああ、母さん……」

「どうしたの、何か有ったの?」

「ん、いや、何も」


言葉とは裏腹に表れた彼の瞳の輝きの違いは母親の目には明らかだった。少しの変化だったがそれは周りの者達にもささやかな安心を振り撒く輝きだった。


★★★


病院を出てそのコンクリート製の塀に背中を付け息を荒げる摩耶は隣にすまなそうに立つ凜を見ながらとびっきりの笑顔を見せながら大声で叫ぶ。


「きゃ~~~、もう、やったよ、やっちゃったよ凜君!!」


その声があまりにも大きなものだったから不審に思う者がいないかどうか、凜は周り慌ててをきょろきょろと伺う。


「ま、摩耶さん、声、大きいよ」

「何よ凛君いいじゃない、私、今まで生きてきた中で一番素敵な言葉を言ったのよ」

「一番素敵な言葉……って」

「ん、もう、鈍いな凜君、愛してますよ、愛してますっ!!」


摩耶の大声は止まらない、そしてそれは心からの正真しょうしん正銘しょうめいうそいつわりの無い心からの叫びだった。二度目の告白は爽やかな達成感に包まれてこの思い出は一生ものになるだろう。年を取ってから思い返せば青くて恥ずかしさだけが沸き上がる思いなのかもしれないが、これがその時の精一杯だった事には胸を張れる筈だ。正直な思いを伝えた摩耶の爽やかなその姿が凜の瞳に羨ましく映る。そして、自分もいつか必ず同じことを今一番大切に思う人に伝える事を心に固く誓った。


……季節は晩秋、しかし二人は雪解けを迎える春の様な温かさと光に包まれていた。

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