18.ステージのプロポーズ

万国共通、ひざまずいて指輪を掲げて見せる行為はプロポーズ以外の何物でもない。凜は約束を果たしてくれたのだ、その気持ちを受け止めると同時に両方の瞳から熱い涙が滂沱となって頬を伝い零れ落ちてステージの床に小さな水溜まりが出来る。


曲は間奏に入り今野が奏でる『泣きのアルトサックス』の音色が会場に響き渡る。それに合わせて湧き上がる拍手に包まれて紗久良もにっこりと微笑んで見せる。


その表情を見詰めながら、凜の唇がゆっくりと開かれ心からの言葉を口にする。


「……紗久良、僕と…結婚してください」


頬を伝う涙がスポットライトに反射してきらきらとまるで宝石の様に輝かせながら紗久良は口角を上げると同じく小さな声で呟いた。


「はい……」


そして、そう返事をしてからしっかりと頷いて見せた。それと同時に場内が再び拍手に満たされる。観客の目にはそおそらくコンサートに合わせた寸劇に映っているのかも知れないがこれはあくまでリアルな告白と本気のプロポーズ、今ここで二人は一生の愛を誓った。


凜はゆっくりと立ち上がるとベルベットの指輪入れから指をを取り出し、紗久良の左手を取り、ちょっと震えながら薬指にそっと指輪を挿した。紗久良は指輪が着けられた手を少し顔に近づけて指輪の清廉せいれんな輝きに目を細める。それは決してスポットライトが作り出した輝きではなく凜の心の輝きのように感じられて再び瞳から涙が溢れ出る。


頬を輝かせながら紗久良はゆっくりと顔を上げ、凜と視線を交わし暫くの間見つめ合い、暖かな瞬間が訪れた時、二人は自然と近付いて凜の唇が紗久良の唇に触れる瞬間、世界は一時的に止まった様に感じられた。その一瞬の間、二人の心が強く結ばれ、喜びと幸せが言葉に出来ない程深く伝わって行く。口付けは、約束と共感の証、そして新たな旅への第一歩を象徴し、その一つ一つの触れ合いが、未来への希望と愛情に満ちた物語を紡いで行くと二人は確信した。


二人を祝福する拍手が沸き起こる。観客は演技だと思っている者がこの段階でも大半で、事情を知っているのはステージ上の吹奏楽部員と莉子だけだった。唇を離し再び見つめあう二人はしっかりと赤い糸で結ばれたのだ。その姿を見ていた今野は号泣し、もらい泣きする部員もちらほらと見られたが演奏は最後までしっかりと行われて演奏会はフィナーレを迎え大きな拍手に包まれながらすべての予定を終了した。


見詰め合う二人の傍らに麻耶がゆっくりと歩を進め交互に眼差しを送るとマイクを自分の口元に近づけて一言。


「凜君、紗久良さん、おめでとう」


彼女の言葉に凜と紗久良は眩しい笑顔でそれに応える。


拍手に満たされる場内で二人の心は一つになって未来へ向けて歩み出した。まだ幼さが残る愛だけど、時が育て、成熟して行く筈だ。少し頼りなさも感じられるが彼女達には未来の輝きをほんの少しだけ垣間見た様に思えた。


★★★


「そっか、ちゃんと言えたのね」


コンサートが終了して帰宅した凜をキッチンのテーブル越しに座りながら仕事の都合で残念ながらコンサートに行く事が出来なかった母が一瞬言葉を詰まらせながら少し掠れる声でそう言った。


「うん、紗久良も喜んでくれたし、僕もとってもほっとした」

「でも、凜、マジな話、ホントにこれからだからね」

「勿論それは分かってるよ」

「紗久良ちゃんに嫌われないように素敵な大人にならないとね」

「……素敵な大人…かぁ」


母の『素敵な大人』と言う言葉に凜はちょっと表情を曇らせる。


「ねぇ、おかぁさん」

「……ん?」

「素敵な大人って……どんな大人なんだろう」


その凜の質問に母は居住まいを正し椅子に座り直すと笑顔で真っ直ぐに見つめ、穏やかに、そして極めて優しい口調でこう言った。


「勉強なさい」


母の微笑みに包まれながらかくんとうなだれる凜。だが、確かにそう言われればそうするしかない。紗久良はあっちに行ったら多分、死に物狂いで勉強する筈だ。まるで異世界に転生したお姫様に似た境遇に見舞われる訳だからそれを乗り越えるには自分を磨くしかない、そして、極東の東洋人と言う少し卑下された見方を変えさせるしか、そこで暮らして行く術は無いのだ。だからそれに見劣りする大人に仕上がる訳にはいかないし、更に傑との約束も有るから……どう考えても勉強するしかない様に思えた。


凜はゆっくりと立ち上がると溜息を一つ。そして暗い表情のまま無言でキッチンを出て行こうとしたのだがそれを母が呼び止める。


「凜……」


それに応えて凜は徐に上半身だけを少し捻ってどよんとした表情をの顔を半分だけ、母の方に向ける。


「ドレス、とっても似合ってる。やっぱり私の娘だわ」


微笑む母に向けて微妙な笑顔を作って見せると凜は肩を落としてよたよたと自分の部屋に向かってぺたぺたと歩き出した。だが、母の言葉で当面の目標は決まった様にも感じられた。当面、勉強と部活に専念する。そして、来年には志望校を確定させ、再来年には合格を勝ち取るのだ。そう思うと心に小さな闘争心の炎が灯った様に感じられた。そして、必ず紗久良を自力で迎えに行くのだと改めて心に刻み込んだ。


★★★


窓から見上げる冬の夜空は透明でまるで自分の心が映し出されている様だった。光の無い漆黒の光景だがその中には無数の星が輝いてそれが全て『希望』の輝きに見えた。紗久良は婚約指輪をその空に翳してみると、ダイヤモンドの輝きは希望の一つとなって夜空に溶け込んだ様に見えた。そして、改めて見上げる夜空に瞬くすべての星が自分と凜に祝福の言葉をささやいている様に見えた。


紗久良は星を見上げながら願う、二人の時間が永遠の幸せで有る事を。

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