8.母の特別授業

一応、お茶碗とお箸は持っているが料理に全く手を着けようとしない凛の様子を見て母は一抹の不安を覚える。帰宅した時から明らかに様子がおかし有ったが、直ぐに自室に籠ってしまったのでゆっくり話をするタイミングが夕食になってしまったのだ。最初、食欲がないからと拒んだのだが母が無理矢理引っ張り出したのだ。


「……凛、何か有った?」


優しく微笑みながらも腫れ物に触れる様な口調で母は慎重に尋ねてみたが凛は何も答えない。ただ大きく溜息をついただけだった。しかも地の底から湧き出たような深い溜息、それは今、彼女がかなり大きな悩み事を抱え込んでしまった事を察するには十分な反応だった。


「ね、話してみない?おかぁさんに話しても前に進む話じゃないのかもしれないけど、言葉にすれば少しは心が軽くなるわよ」


目を伏せ黙り込んでいた凛は母の言葉を聞いて意を決した様に顔を上げてぽつんと一言だけ何呟いた。


「……こく…られちゃった」


あまりにも小さな声で全く抑揚よくよう無してぼそっと呟いたものだから、一応聞き取れた物の、効き間違いかと思って済まなそうな口調で聞き返す。なんだか微妙な心情に陥っている様に見えるから、質問は慎重にしないといけないと母は思った。もしも必要ならば月一で通わせている心療内科の先生にも相談する必要が有るかも知れないとも。


「ん?」


出来るだけ明るく、軽い雰囲気で聞き返した母に凛は再び極めて聞き取りにくい口調で呟く。


「好きだって……言われちゃった、部の先輩に」

「好きって、どういう意味で、お友達として?」

「恋愛感情だって……」

「あらまぁ、で、相手は女の子?」


その質問に一瞬答えるのを躊躇って、暫くの間視線を泳がせてから意を決したのが分かる表情で母に向かって答えた。


「ううん、男子」


今度は母が絶句する。男の子の生活が長かったかられん愛感情を抱くとすれば多分、女の子だろうと以前から思っていたのだが、その予想に反して男の子に告白されたと言う事実にかなり驚いてしまった。


「お、男の子に告白されたの」


凛は静かに頷く。


「へ~~~、大胆不敵な子がいるモノねぇ。ひょっとしてだけど、凛が男の子だった時から好きだったとか……?」


凛が再び頷いて見せた。


「そっかぁ、それで、凜はなんて返事したの」

「……返事なんて出来ないよ」

「どうして?」

「だって、部活の先輩で楽器の演奏が上手うまいから尊敬してた面は有るけど、恋愛対象として意識してた事なんて一度も無いし、第一同性だし……ん、まぁ今は違うのかも知れないけど」

「男の子には興味が無いって事?」


性同一性障害の症状が有った訳では無いから、凜のベースの思考は男の子のままで男子に恋愛感情を抱く事は今のところ出来ない事は至極自然なことだ。だが、それを時間が解決してしまった場合、一つ問題が発生する事に気が付いて、母は一応釘を刺しておくことにした。


「ねぇ凜、仮に、本当に仮にだけど、あなたが男子に対して恋愛感情を持ったとして、一つだけ注意して欲しい事が有るの」

「注意して欲しい事?」

「そうよ」

「何、何に注意すればいいの」


母は持っていたお茶碗とお箸をテーブルに置くと居住まいを正し、かなり真剣な表情で語りだす。


「男の子と女の子の一番の違いって、なんだと思う?」

「え、違い?うん、そうだなぁ、見た目……かな」

「違うわ、子供が産めるか産めないかって言うところよ」

「……あ、ああ、そうだね」

「勿論、体にはいろんな事情が発生するからこの世界の女性全員が子供を産めるわけじゃないけど一般論として一番の違いはそこに有るわよね。で、凜、赤ちゃんの作り方って……知ってる?」


母の質問に凜は思わず頬を染める。男の子だった頃、そろそろその辺りに目覚め始める年頃だったから、友達との会話の中にそういう話が出てそれほど詳しくではないが知識としては何となく認識している部分はあった。


「女の子って学校の保健体育科の授業なんかで意外と早めに教えられるし、生理も始まるから案外その手の知識はあるんだけど、男の子って結構危なっかしいのよね」

「危なっかしい?」

「そう、聞きかじりの知識と勢いだけでね。避妊なんて意識はまるでないからそのまんまでしちゃったりとか……ね」


母の『しちゃった』と言う言葉が妙に生々しく感じられて凜の頬は更に鮮やかな朱に染まる。母はそんな事は完全に無視して赤ちゃんの作り方を避妊方法も含めてかなり生々しく、リアルに、極めて具体的に語り始めた。凜はその話をお茶碗とお箸を持ったまま完全に固まりながら聞いた。少し気を失い気味だったから右から左に抜けて行ってしまった部分はあるが話を聞き終わった時、その過程をほぼ理解出来た様な気がした。


「……そ、そうなのね」

「そうよ分かった?」


そう言ってにっこり微笑む母の顔を見ながら凜はかなり躊躇ってからかなりの小声で尋ねる。


「あ、あの……さ…」

「なぁに?」

「そんなに、気持ち……良いの?」

「まぁその辺は人にもよるんでしょうけど、なんだったら試してみればいいわ」

「え?」


凜の質問に母はちょこんと首をかしげてにっこりと微笑んで見せる。



「自分でしてみればいいのよ」

「は?」

「聞いたこと有るでしょ、自慰じい行為こういって」


凜は母が言い放った単語を聞いて気を失いそうになる。実際問題、その意味は何となくだが知っていた。ただ、男の子時代から今まで経験は無かったからどういう感覚の物なのかは具体的には分からない。だが、母はそんな事はまるでお構い無しにそれついて語りだす。母の語りは赤ちゃんの作り方よりある意味衝撃的で、凜は眩暈めまいを覚えながら思考停止の状態に追い込まれてしまった。


★★★


食べた実感が全くない夕食を終えて宿題を済ませて入浴後、自室で本を読んだりゲームをしたりして暫く過ごすのが日常だったが、母の話が強烈すぎて精神的な疲労がピークに達してしまったから今日は早々に就寝することにした。そして、パジャマに着替えて電気を消してベッドに潜り込んでは見た物の、何故か目が冴えて眠る事が出来ない。そして、母の話が頭の中に甦る。


凜はかなり躊躇ちゅうちょしながら、と言うか恐る恐ると言う雰囲気で右手をパジャマのズボンの中に差し込んで、ショーツの上から女の子の部分に右手の人差し指を当てる。そして力を込めようとした……のだが、恥ずかしさと飛び出しそうに脈動する心臓大暴れ状態の恐怖が入り混じってそれ以上先に進む事は出来なかった。頬が燃えるように熱くなっているのを感じながら凜はぽつんと一言呟く。


「……紗久良は…するのかな」


そして、闇じっと見詰めてから更にもう一言。


「おかぁさんの……莫迦ばか…」


そして頭から布団を被ると無理矢理眠りに落ちようと努力したが、それは空回りに終わり朝まで一睡もする事が出来なかった。カーテンの隙間から差し込む朝日を感じて凜はむくりと起き上がり、ベッドの上にぺたりと座り込むと少しカーテンを捲って外の様子を眺めてみる。


空模様は晴天の様だったが、あまり晴れ々々としない一日が始まりそうな予感がした。

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