9.二人だけの時間

「どうかしたの?」


三人で学校に向かう道すがら、凜は妙に紗久良を避ける。その不自然な行動に紗久良は不思議そうで少し不満そうな表情を見せながら訪ねてみたが凜は視線を合わせようとせず、何も答える事も無かった。


「なに、どうしちゃったのホントに、なんか変よ凜君、何か有ったの?」


紗久良を避ける凜を追いかけて息がかかる位近づくと、その耳元で呟くが彼女はちらっと視線を飛ばしてよこしただけで、やはりなのも答えない。そして何故か頬を染めたりもする。要するに、昨夜ちらっと考えてしまった紗久良も自慰行為をするのか、その考えが頭の中で渦巻いてしまってまともに彼女の顔を見る事が出来なくなっているだけなのだが深読みしすぎたり莉子が紗久良に明るくこう言った。


「……嫌われたんじゃないの、紗久良」


紗久良の耳元で囁く莉子の言葉に思わずドキリとする。彼女の『嫌われたのでは』と言う言葉に心当たりが有るからだ。それは昨日の男子からの告白。女の子になった凜は男の子に恋をしてしまったのではないか、そして私は嫌われたのではないかと。


ただ、その事にどうして自分が動揺しているのかは自分自身、理解出来てはいない。幼馴染で兄弟みたいな関係、それ以上の感情はない筈だから気にすることなど無い。


更に、もしも凜が男の子と付き合う事になったとして、その恋愛が成就されるとすれば、それは女の子としての幸せへの第一歩ではないか、むしろ祝福するべき事象で有って、周りがとやかく言う話ではない。全ては凜が決める事で有って彼女の考えがすべてにおいて優先される……筈なのだが…紗久良の心には何かが引っ掛かっていて、それで単純に納得する事は出来なかった。


微妙な乙女心はまだ発展途上の様だった……


★★★


「それでは宜しくお願いします」

「ええ、分かりましたわ、喜んでお引き受けします」

「意外と向いてるような気がするんですよ、この前ご招待頂いた時の感想も悪くは無かったですし、こう言うの、案外好きなのかもしれませんわ」

「そうですか、それは宜しかったですわ。それにしても初めて凜ちゃんがセーラー服着て歩いてるところを見て一瞬何事かと思っちゃったわ。つい最近まで学ラン着て歩いてたのに、どうしてって。それに死にかけたって聞いた時には本当にびっくりしちゃったわ。何だか色々と大変だったんでしょうねぇ」


茶室に正座して話し込む二人。今、凜の母が居るのは、佐々木のお婆ちゃんの自宅兼茶道教室だった。母は凜に茶道を習わせる事を決意してその申し込みの為にここを訪れていた。凜にはまだその事を伝えてはいなかったが先日の凜の反応を見て嫌がる事は無いだろうと踏んだのだ。


凜は月一で女の子になる手術を受けた総合病院の中に有る心療内科に通っている。術後の精神的なアフターケアと言う意味合いなのだが、念の為、薬も処方されている。だが、それで良いのかと言う疑問を母は抱いたのだ。


たまに精神的に不安定になる事が有って、医師の指導で凜は向精神薬を服用しているし、ごくたまにだが眠れなくなることも有るらしく、睡眠導入剤も使ったりしていた。ただ、薬の副作用やこれからも服用し続けるリスクを考えると、心のバランスを保つのであれば、何か習い事をするのが良いのではないかと考えた母が辿り着いた答えがこの茶道教室だった。


素人考えだからそれが本当に正しい判断と言い切れない面もあるが、少なくとも毒にはならないだろう、そう考えたのだ。それに、これから女の子として生活して行くに関してもプラスになるだろうと。師範の免状を貰えれば一生食いっぱぐれないであろうと言う打算も含めて。


★★★


放課後、ユーホニアムのケースと譜面ふめんだいと譜面入れを持ってかなり妖しい挙動を見せながら何時もの練習場所である自分の教室に向かう凜は一抹の不安を抱えている。もしも昨日同様、佐藤傑が現れて言い寄られたらと言う不安だった。それを考えると練習に身が入らないのは明白だから、仮病を使って体調不良を理由に休んでしまおうかとも思ったのだが、とんでもなく後戻りしてしまった演奏技術を早く取り戻すにはそんなことも言ってられなかった。


それに、傑は受験生だから毎日々々部活に顔を出す事も無いだろうと言う淡い希望的観測も有ったから、今日も練習に参加する事にしたのだ。


そして、教室の扉を開けて中を覗いて目に入ったのは、意外な人物だった。


「……さ、紗久良、どうしたの?」

「凜君、練習付き合うわ」

「え、なんで……」

「ま、理由は色々と……ね。一番の理由はやり過ぎてないか監視するって言うのが一番かな」

「監視って……」

「自分では大丈夫だと思ってるかもしれないけど、正直まだほとんど病み上がりよ。無理して倒れて周りに誰もなくて放置されましたじゃ洒落しゃれにならないでしょ」


そういって微笑む紗久良の顔を見ながら凜はぴくんと眉毛を動かして見せる。


「練習見てても面白くないよ」

「大丈夫、時間は有効に使うから」


紗久良は通学に使う学校指定のショルダーバックの中から毛糸玉と編み棒を取り出した。


「凜君にマフラー編んで上げるね」

「……え、う、うん」


紗久良はそう言って毛糸を編み棒に絡ませて、器用に毛糸を編み始めた。その手つきはかなり手慣れたもので、その巧みさに凜は暫くの間見入ってしまった。


「……どうしたの凜君、練習しないの?」

「え、あ、ああ、そう、そうだね」


思わず見入ってしまったことがちょっと恥ずかしくて頬を染め、後頭部をポリポリと掻いて微妙な笑顔を浮かべながら凜はユーホニアムのケースを開けて本体を取り出すと、引っ張り出した椅子に腰かけて、ベルを上にして抱きかかえる。そして、マウスピースを取り付けるとゆっくりと息を吹き込んだ。


ふうっという楽器の中を吹き抜ける息の音が響く。凜は楽器を温めながらちらちらと紗久良の方に視線を向ける。彼女は楽しそうに軽く笑顔を浮かべながら編針を動かしている。


二人だけの時間は穏やかに流れて行く。


思いがけず訪れたこの時間は凜の心を擽ると同時に深い安らぎを感じさせてくれた。そしてそれは姉弟の様に育ってきた二人の関係が少し変わりつつあることを思わせてくれる瞬間でもあった。

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