10.紗久良、心の霧が晴れる時
練習の手を止めて凜は外に視線をやり、小さな声で呟いた。
「だいぶ日の入りが早くなったね」
「え?」
不意に呟いた凜の言葉に紗久良は編み物の手を休めて窓の外に目をやった。太陽は西に傾き茜色の光で教室の中が満たされている事に気が付いた。その光が銀色のユーホニアムに反射して凜の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。輪郭がはっきりしないその姿を見て紗久良の心臓がドキリと脈打つ。
妙に儚げに見えるその姿に少し不安を感じたのだ。一段と女の子らしい輪郭になりつつ凜の姿に男の子の面影は既に無くて外を出歩いたとしても、誰の目にももう男の子として映る事は無いだろう。
「十月ももう半ばだものね」
「紗久良、そろそろ帰ろうか」
「ええ、あまり遅くなるとお母さんに心配かけちゃうものね」
柔らかな空間と共に過ごした二人きりの時間は終わりを告げた。凜はユーホニアムをケースの中に戻すと、バルブや管を取り外して手入れを始める。紗久良も編み物の道具を片付けてショルダーバッグの中に仕舞う。朱に染まる教室の中で二人に会話は無かった。黙々と楽器を弄る凜の姿を見詰める紗久良の心に有る思いが
もしも……もしも凜が男の子のままだったら自分との関係はどうなったのだろうかと。幼馴染で兄弟みたいな間柄で終わったのだろうか、それとも……
紗久良は『それとも』の後に続く言葉を見つける事が出来なかった。いや、見つけてはいるのだがあえて当て
「さ、紗久良、終わったよ」
「うん、じゃぁ行きましょうか」
二人は立ち上がり、教室の扉に向かって歩き出そうとしたその瞬間、突然がらりと扉が開かれた。そして、外に立っていたのは莉子だった。
「あれぇ、紗久良、まだ居たの?」
意外そうな表情を見せる莉子、彼女はバスケ部でレギュラーとして活躍している。額に汗を滲ませながら現れた彼女は二人の様子を見て、口に首に巻いたタオルを当てながらにやりと微笑んで見せる。
「あらぁ、これはこれは、中々お熱い様ですな。どう、二人きりの時間は楽しめた?」
莉子はちょっと悪いくすくす笑いを浮かべ二人にゆっくりと近づいて交互に見てから小首を傾げて見せる。
「でも、凜君は私の彼女だからね。紗久良はただの幼馴染、その辺は
彼女の表情からその言葉はあくまで冗談に近い物であることは読み取れたが彼女の心にざくりと付き刺さる。そして、その言葉は紗久良の本心を掘り出してくれた。霧がゆっくりと晴れて行く様な感覚にはっとする紗久良。そしてゆっくりと視線を向けた先には、優しく微笑む凜の姿が有った。その表情を見ながらごくりと唾を飲み込んでから彼女は小さな声で呟いた。
「……凛、くん」
教室の中は沈みかけた太陽が放つ
紗久良が呼んだ
「……え、なに?」
「あ、あの、その、ううん、何でもない」
激しく頬を染め胸の前で両掌をひらひらと振りながら意味不明の否定をして見せる。その意味に凛が気付く事は無かったが、莉子は何となくだが察した様で、紗久良を明確にライバルと認識した様だった。
間も無く日は完全に沈み、闇で街を覆い隠された時、人々は暫しの急速で体と心を癒す。そして物語はゆっくりと新たに転がり出す。
★★★
湯船に体を浸しながら紗久良は大きく伸びをする。そしてほおっと大きく溜息をついてから膝を抱えて鼻の下までお湯に潜って膝を抱えて目を閉じる。そして、教室での出来事を思い返しながら自分の心にもう一度問いかける。
「……私、凛君が…好き…なの?」
莉子の言葉を切っ掛けに自分の本心に気づいた紗久良だったが、改めてそれを自分に問い直す。幼馴染で正に幼いころから一緒に過ごしてお互い空気の様な存在だった筈なのだが、紗久良の思いは恋に変わった。
凛は今や異性では無い。それなのに恋心を抱くのは不自然な事ではないか。女性同士の恋愛感情が存在することは知っている。でも、自分位の年頃は認識がまだはっきり確立されていない場合が多いから、所謂、疑似恋愛と言う奴ではないか。
感情と言葉が入り乱れて心の中を埋めて行く。胸の奥に竜巻でも発生したのではないかと思う様に精神的に乱れて収取が付かなくなりかけた時、有る景色が心に浮かぶ。それは、凛と一緒に女性用の衣類の買い出しに出掛けた時の風景。
試着室に入ってトレーナーを脱いだ時にちらりと見えた凛の胸。その時のときめきの意味は、私は男の子では無く、女の子を愛する
「うん、分かった……私、凛君が好きで、間違い無い」
凛と同様、紗久良も新しい一歩を踏み出した。それは決して平坦な道ではないのかも知れないが、精一杯彼女を愛してみようと誓った。その思いを祝福する様に初冬の星座は透明な輝きを放って見せた。
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