9.凜の誓い

「そう、なの……」


キッチンのテーブルを挟んで座る凜と母。凜から紗久良が家族と共に海外に転勤する事を聞いた母親の表情はかなり深刻だったが凜は意外と晴れ々としていて何か吹っ切れた様な表情だった。


「それでいつ頃の話なの?」

「うん、来年の春だって。ヨーロッパの方は新学期が九月だからそれに合わせようって言う話も有ったみたいだけど、こっちの方で中途半端になっちゃうからって」

「イギリスねぇ……」

「うん、ドーバー海峡の向こう、地図で見たんだけどロンドンって北海道より北なんだね。冬って寒いのかな」


テーブルに頬杖をつきながら凜は母親を笑顔で見詰め更に続ける。


「ブリティッシュ・ミュージアムとかナショナル・ギャラリーとか見て回れるところも多いみたいだから紗久良の好みに合う街かも知れないね」


相反して心配げな母は腫れ物に触るような慎重さで凜に尋ねる。


「それで、凜はどうするの?」

「どうするのって……今はどうしようもないよ」

「まぁ、確かにそうなんだけど」

「それにあんまり頻繁にメール送ったりとかしたら里心着いちゃいそうだし、かといって何もしなかったら忘れられそうだし、難しいよね」


どことなく他人事の様な口調に母は一抹の不安を感じながらもそれを出来るだけ表情に出さない様に気を配る。


「ねぇ凜……」

「ん、なぁに」

「凜は紗久良ちゃんの事、どう思ってるの」


その言葉を聞いて一瞬真顔に戻る凜だったがその表情は直ぐに柔らかな物に戻る。


「紗久良が言ってた、絶対忘れないって」

「そう……」

「だから僕も大人になったら必ず迎えに行くからって言ったよ」

「必ず?」


柔らかな笑みを湛え凜は小さく頷いて見せた。その様子を見ながら母は居住まいを正し少し厳しい視線を彼女に向ける。


「ふむ、よろしい。ではこれから頑張って勉強しないといけないわね」


その言葉に凜の目が点になる。


「え……なんで?」

「イギリス迄紗久良ちゃんを迎えに行くんでしょ、少なくとも英語で日常会話位は出来るようにならないとね」

「……え?」

「空港とか通りのど真ん中でもたもたしてたら紗久良ちゃんに笑われるわよ、恥かきたくないでしょ。紗久良ちゃんって器用だから英語のマスター位あっという間だと思うわよ、語学音痴の凜君」


痛いところを鷲掴わしづかみにされたような気がして凜の表情が見る々曇って行き額から冷たい汗が一滴流れ落ちた。


「大人になってからって言うけど時間って案外早く過ぎ去るわ、タイムイズマネー、善は急げ」

「今から勉強しろと……」


母はにっこりと微笑むと深く頷いて見せた。思わぬところで地雷を踏んだ凜は不満そうな表情を作りながらもゆっくりと立ち上がってのたくたと自室に向かって歩き出す。その姿を微笑を絶やさず見送りながら母はひらひらと手を振って見せた。凜は二、三歩歩いてから一度立ち止まると、ちらっと頭だけ振り向き母に視線を向けてみたが彼女は笑顔で手をひらひらさせる。


「男に二言は無いんでしょ」


少しドスが混じった母の言葉に小さな溜息と共に一言返す。


「女の子だもん……」


しかし、傑からも勉強の手を抜くんじゃねぇぞと言う伝言を麻耶から聞いていたからその手前もあってこれからは部活もそうだが勉学にも励まないと色々と立つ瀬がなくなりそうな気がしてきた凜はとりあえず誓う、それなりに勉強頑張ろうと。あくまでもそれなりにだが……。


★★★


顧問の吉川から正式にクリスマスコンサートの編成が発表されて、凜は今野、麻耶を含めた6人編成のアンサンブルを行う事になり、配布された楽譜をとりあえずじっと眺めてみた。楽曲的にはスタンダードでおなじみの曲が多かったから難易度的にはそれほど高くは無いが、アンサンブルだから指揮者が居ない、だから息が合わないとぼろぼろの演奏になってしまうからその点だけは注意が必要と凜は考えた。


「じゃぁ、今日は楽譜をじっくり読み込んでもらって音合わせは明日からにしようか。あ、もちろん、個人的に音出してもらっても構わないからね」


メンバーに部長と言うリーダーが居るのは心強いしなんといっても話がまとまるのが早い。この年代は色々拘りのある子が多いから意思決定に時間がかかって結局中途半端に終わる事が間々有るから前に出て引っ張ってくれる人材は有難い。その彼に指示に従って本日は解散となった。


「なぁ凜」

「ん?」


部室を出てから今野に不意に呼び止められた凜は楽譜に目をやったまま彼に向かって振り返る。


「お前、コンサートには誰を呼ぶつもりだ?」

「うん、そうだね、日曜日だからおかぁさんは来てくれると思う」

「そうか、それだけか?」

「あとは紗久良……かな。今野はどうするんだ」

「俺は絶対に莉子さんを呼ぶ」


それを聞いた凜の目尻が少しいやらしく垂れ下がる。そしてきわめて軽いノリでこう言って見せた。


「いよっ、あっついね~~~」


冷やかしたつもりだったが今野はそれに動じる事は無く右手で強く拳を握り、わなわなと震わせながらバックに激しく炎を燃え上がらせる。


「おう、コンサートで良いとこ見せて莉子さんのハートを鷲掴みにするんだ」


鬱陶しい熱気を楽譜でぱたぱたと仰いで遠ざけながら凜は思わず苦笑い。だが、それは自分も同じではないかとハタと気が付き楽譜を口元にあてがい天井に視線を向けながら考える。紗久良には居なくなる前にちゃんと伝えなければならない事が残っている、それを必ず口に出して言葉で伝えようと改めて誓った。


「今野、頑張ろうな」

「おお、勿論だぜ!!」


燃え上がる男の友情に凜は涙しそうになるのと同時に心の中で今野を茶化してしまった事を謝りつつ、紗久良の心に思いを馳せた。

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