8.暖かな掌

「嬉しい……」


紗久良の自室で床にぺたりと座り込み息を弾ませる凜の姿を立ったままで見下ろしながら紗久良は少し悲し気な笑みを浮かべ小さな声でそう呟いた。


「……どうにも、ならないの?」


全力で自宅から紗久良の家まで駆けてきた凜は治まらない荒い息の合間を縫って何とかそう言うとゆっくりと顔を上げる。それに応えて彼女は小さく頷いて見せた後、凜と同じ様に床にそのまま座り込む。そして息がかかる位近くまで顔を近づけるとそのまま暫くの間凜を見詰める。


その瞳は少し潤んでいるのが見て取れた。凜はゆっくりと右手を上げて彼女の頬に掌を当てると紗久良の震えが伝わって来る。


「紗久良……」


小さく呟いた凜を見詰めながら当てられら手に自分の左手を重ねる。


「凜君の手、あったかいね」

「紗久良もあったかいよ」

「これを感じられなくなるのはやっぱり……少し寂しいかな」


空は繋がっていて見上げれば同じ空を見上げている凜を思う事は出来る、でもこの暖かさは感じる事は出来ないくて、心だけの繋がりは自分を不安にしてしまうだろうと紗久良は思った。


「……絶対に忘れないから」


自然に口から出た言葉には彼女の全ての思いが詰まっていた。男の子ではなく女の子の凜に対する告白はかすかに掠れて震えている。呟くような言葉だったが凜はしっかりと頷いて見せた。


「僕も絶対に忘れないから、大人になったらきっと迎えに行くから」


凜の声も少し震えてはいたが紗久良の耳にしっかりと届いていた。そして瞳から熱い涙が一滴流れ落ちると同時に二人の思いは馴染の友情から恋に変わった。それは時が経てば愛に変わって更に時が過ぎれば結晶化して夜空の星ほどの距離が有ってもそれはもはや無意味になる。凜は紗久良に更に顔を近づけて額同士を重ね彼女の熱と息を感じながら思う、この出会いに感謝しようと、そしてこの思いを必ず成就しようと。


★★★


部室に全員が集合して箱椅子に座ったその前で今野が高らかに宣言する。


「皆様大変長らくお待たせしました。顧問の吉川先生から正式にゴーサインが出ましたので、明日から吹奏楽部の練習を再開します」


同時にわっという歓声と共に拍手が沸き上がる。この宣言を裏読みすると、前部長である傑の病状が快方方向に向かいだしたという事も表しているのだが、お見舞いに関しては本人の意向でまだ控えて欲しいという事も同時に告げられた。最も麻耶はほぼ毎日彼の病室を訪れていて、お見舞いを控えて欲しいという思いは、ひょっとしたらそれと他の部員が鉢合わせするのを少し気恥ずかしく思ったからなのかも知れなかった。


「で、再開にあたりまして学校の生徒と親御さんを含めてご招待するクリスマスコンサートの開催も決定しましたので皆さん気合入れて練習してくださいね」


『はい!!』と言う元気な返事が部室に響き、部は久しぶりに活気を取り戻し、通常営業の方向に向かって動き出した。そして、これからこの集団をまとめて行く重責に今野はある意味心地よくも有る緊張感に身を引き締める。


「あの、部長……」


そんな彼に向けて麻耶が小さく顔のあたりまで手を上げて何かしら聞きたそうな表情を見せる。


「はい、なんでしょう?」

「その、クリスマスコンサートって、どんなことやるんですか?」

「先生の話だと何組かに分かれてのアンサンブルコンサートになるそうです」

「ほぉ……」

「組み合わせは先生の方で考えるそうなのでちょっと待ってくださいね、決まり次第メンバー表渡しますから、ほかに質問ありますか?」


そう言って部員を見渡す今野に対して質問が出なかったのでその日はそれで解散となった。そして凜は久しぶりの公式活動に心を躍らせながら心の中で誰を招待するか秘かに心に決めるのだった。


★★★


「そうか、練習再開か」

「うん、だから、これからは土日か祝日くらいしか会いに来れないかもしれない」

「しょうがないさ、それより真面目に練習するんだぞ」

「はいはい、分かってますよ、前部長様。これでもパートリーダーですから」


そう言いながら麻耶は病室と廊下を隔てる硝子越しに微笑んで見せる。傑もそれに応える様に微笑むとそれは段々とくすくす笑いに変わっていく。そしてひとしきり笑った後麻耶はベッドの上に置かれている教科書や参考書に目をやった。


「……一人で勉強、ですか」

「ああ、でもまぁオンライン授業をしてくれる学習塾なんかも有るから完全に孤独って訳でも無いけどな」

「そう、ですか……」

「病気を理由に志望校のランクを落とすのもしゃくだしな、やれることはしておかないとな」


真顔に戻った傑を見詰め麻耶の表情は少し不安そう、学年が違うから一緒に勉強というのも少し難しい物が有る。こうして病室を訪れて話をしながら不安を和らげることは出来るかも知れない、しかし受験の問題となると流石に彼女にとっては厳しい案件だった。


「そうだ麻耶、頼まれて欲しい事が有るんだが……」


傑は真顔のまま麻耶に何か重大なことを打ち明ける様に少し重い口調でそう言った。


「……え、あ、はい」

「凜に伝えて欲しい事が有る」

「え……凜君に、ですか」

「そうだ、大事なことだ」


更に真剣さを増す傑の表情を見てただ事では無い事を察して麻耶はごくりとつばを飲み込む。


「伝えてくれ、ちゃんと勉強しろよって」


……麻耶の目が点になる。


「は?」


蛙がひきつけた様な声で答える麻耶を見る傑の表情がゆっくりと緩んで行く。そして暖かな笑顔を湛え乍ら更にこう続けた。


「折角、同じ学校で同級生になれるチャンスなんだから手を抜いて落ちるんじゃねぇぞって」


麻耶はその言葉の意味を理解して再び明るく輝く笑顔を取り戻すと元気に一言答えて見せた。


「はい、必ず伝えます」

「ついでにケツもぱたいてやってくれ」

「はい!!」


そして二人は木枯らしすらも春風に変えてしまいそうな笑顔で見つめ合いながら心を通わせる。これから冬は本番だが温かな風が心を吹き抜けて行った。

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