12.凪の日……

体育の授業で世代を超えて嫌われるのが『持久走』。球技や器械体操は動きに変化が有ったりスピード感が有ったりでそれなりに素人でも楽しむことは出来るのだが、この、ただひたすら長距離を走るという競技はその最中、苦しさに紛れて自分の内面を掘り下げてしまう事が有って、あとで自己嫌悪に陥る事が有ったりするからそういう面でも嫌われるのではないだろうか。


ただ、その教義の向こう側に確固たる目的が有ればそれも苦にならない。凜の場合、ユーホニアム演奏に必要な肺活量を増強するという目標が有るからそれもあまり苦にならないから、今日の授業は持久走と言われてもそれ程文句をぶーたれる事も無い。


その持久走のタイムアタックが行われた授業後の教室で女子達に混じって体操着から制服に着替えていた凜にクラスメートの一人が訪ねた。


「ねぇ、凜君って、マラソン好きなの?」

「う~~~ん、そんな事は無いけど」

「でも、授業中かなり真面目に走ってたわよね」

「ああ、楽器演奏するのに肺活量入るから必要に迫られてっていう感じが有るんだよね」

「ふ~~~ん、大変なのね、吹奏楽部って」


吹奏楽部は分類上は文化部に入れられるがその内容は意外と運動部に近い。息を吹き込む楽器が多いからその担当者は練習中にかなりの体力を使う。それを補う為に体力をつけるのも練習の一つ、その内容の中にはマラソンも含まれるのだ。


「……それにしても凜君」


話しかけた同級生は凜の胸をじっと見て、わざとらしく鼻の下を伸ばして見せる。


「それなりになって来たね」


その発言を聞いた凜は顔を真っ赤にして瞬間的に体操服の上着でブラで包まれた胸をぱっと胸を隠す。


「な、何言ってるのさ」

「ふふふ、これでもちゃんと心配してたんだよ、ぺったんこのまんまだったらどうしようって」

「ぺ、ぺったんこって」


その子は凜の顔に自分の顔を思い切り近づけるとにっこりと笑って見せた。その態度は凜をからかっている様に見えなくもないのだが実際には本気で心配しているらしく、その笑顔に裏は無い様だった。


しかし……


「うふふ~~~ん」


その子の背後から肩越しにだらんとぶら下がったのは莉子だった。そして、うなだれた頭を重そうに持ち上げると、むふっと鼻息を吹いてからその子の頬に自分の頬をずりずり擦り付けブラックな笑顔を浮かべて彼女の耳元でぼそぼそと呟く。


「あらぁ、凜君の柔らかなバストは私の物なんだからねぇ。駄目よ、横からてぇ出しちゃぁ」


そのぬめっとした声色こわいろにクラスメイトはかなり引いた表情を見せる。そしてそっと莉子を肩から引き剝がすと、するすると教室の奥の方にフェードアウトして行った。それを見ながら苦笑いの凜は思う、彼女、当分自分に近づいて来てくれないだろうなと。


★★★


昼休み、紗久良と莉子の三人でお弁当を囲む凜はスカートのポケットの中に入れて有ったスマホが振動したのに気が付いてそれを取り出し画面を確認する。その様子を見ながら莉子が羨ましそうな表情を見せる。


「凜君良いなぁ、スマホ持たせて貰えて……」


その物欲しそうな声を聞いて凜は困った様な笑顔を見せる。


「ああ、これ?これは何というかこう、母子家庭で働くおかぁさんとの連絡用ツールにしかなってないから遊びではあんまり楽しくないよ」

「でも、SNSを見られるのはそれだけで楽しいと思うけど」

「実はこれ、アプリが殆ど入ってなくて」

「そうなの?」


凜はスマホの待ち受け画面を莉子に見せる。そこに表示されているアプリは通話とメール、それにブラウザだけだった。


「これの使用目的はもっぱら通話とメールだけ。高校生になったら入れて良いよっておかぁさんは言ってるんだけど……機種も僕が欲しかった奴じゃ無いし」

「ふ~~~ん、中学生はまだ子供……かぁ…」


溜息交じりの莉子の言葉に紗久良が返す。


「辛いところね」

「ホントよねぇ、これでも体を持て余したりするのにさぁ」

「……え?」

「あら、紗久良は時々来ない」

「来ないって……何が」

「こう、むらむらっとした物が」


紗久良と凜は一瞬顔を見合わせてから頬を赤らめ無言で俯く。


「あら、何よ……」


二人の行動に莉子は動じる事は無く、お弁当のおかずの玉子焼きを一齧り。そして不思議そうに交互に視線を送る。それは彼女にとっては当たり前のことで特に隠す事でもなく恥じる事でもない様で、人間なんだからと言う割り切りが有った。


「そうだ、凜君、それで、お母様から何の連絡?」


莉子の言葉に凜はタイムアウトしてしまったスマートフォンにログインし直して着信したメールの内容を確認する。


「……ん?」


そして極めて怪訝そうな表情。その表情から何か悪い知らせでも有ったのかと心配し、紗久良が遠慮がちに声を掛ける。


「どうか……したの…」

「え、う、ああ、ううん、何でもない!!」


その凜の慌てぶりを見て今度は紗久良が不審そうな表情で凜のスマホの画面を覗き込もうとしたのだが彼女は慌てててアプリを閉じてスマホをスカートのポケットの中にしまい込む。そして取り繕うような笑顔を作って必死で話題を反らそうとする。


「なによ、悪い事じゃ無いんなら教えてくれたって良いじゃない」

「だ、だから、ホントに何でもないから、ね……」


必死でこの話題から逃げようとする凜の態度が気にくわない紗久良の表情が見る見る曇って行く。その様子をあっけらかんと眺める莉子。三者三様の表情を見せながら昼休みの淡く穏やかな時間は過ぎて行く。それはまるで嵐の前の静けさの様だった。

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