11.それでも……

「……あの、ねぇ、おかぁさん」

「ん?」


何時もの様に母と二人で囲む夕食のテーブルで凜はかなりおずおずとした少し怪しい素振りを見せながら尋ねてみる。


「あの、冗談でも人の事好きだとか嫌いだとか言うのって、良くない事だよね」


自分に対して少し躊躇している様に感じられた母はその異変に違和感を感じて少し驚いた様な表情を見せる、その後かなり改まった顔付を見せる。


「……凜、何か有ったの?」


大きく変化した母の表情に今度は凜の方が戸惑いを見せる。かなり不自然な問いかけを見せた事に対するその反応は自分の事を本気で心配してくれている証以外の何物でもないのだが、いらぬ心配をかけているのではないかという遠慮が先行する。


「……あ、いや、うん、別に何でもないから」


慌てて質問を引っ込めようとしたのだが、母には彼女の裏側の考えを察した様で、少なくとも今の質問を有耶無耶うやむやにしてしまうのは良くない事だと判断して、何時もの笑顔を見せながら凜の質問を掘り返す。


「心配事が有るのなら一人で抱え込まない方が良いわよ。煮詰まっちゃうと変な方向に走ってもっと困った事になったりするから」

「……え、う、うん」


左手にお茶碗を持って右手のお箸を噛みながら少し俯く凜は上目使いに母の顔に視線を送ると母はにっこりと微笑んで見せる。凜は思う、母親の笑顔は何故自分をこんなにも安心させてくれるのかと。


「あ、あのさ、ちょっと前に僕に告白した人が居るって言う話、したじゃない」

「……え、あぁ、凜の先輩の子だったわよね、その彼がどうしたの?」

「それがね、入院しちゃったんだ、急性リンパ性白血病にかかっちゃったんだって」

「まぁ、それは大変ね、お気の毒に……」

「それで、吹奏楽部の顧問の先生が、本人もご家族の方も大変そうだからお見舞いには行くなって」


母親はそう言ってから持っていたお茶碗と箸をテーブルに置いて右腕て頬杖を突きながら天井に視線を送り、何事かを考えながら小さな声で呟いた。


「そうねぇ、その方が良いかも知れないわね、色々バタバタしてると思うし」

「そしたら、部内で根拠の無い噂で溢れ返っちゃってみんな浮足立っちゃって収拾付かなくなっちゃって」

「成程、混乱の原因は不安から来ることが多いものね」

「それを何とかしたいから新部長の今野が僕に協力してくれって言うんだけど……」

「あら、凜、協力出来ないの?今野君って昔からのお友達じゃない」

「そうなんだけど、あいつ、佐藤先輩と直接話して確かな情報を皆に伝える為に家族の人に僕が先輩の事が好きだってアピールして取り入って、その伝手つてで合わせて貰えって言うんだ」


母の目が点になる……


「ず、随分短絡的な作戦ね」

「でしょ、僕、思わず今野のっぺたひっぱたいちゃったよ」


そう言って頬を膨らませる凜の顔を見ながら母は口に手を当てくすくすと笑い始める。


「笑い事じゃないよおかぁさん」

「ご、ごめんごめん、でも、拳じゃなくて平手が飛んだのね」


その様子を想像してくすくす笑いが急激に増幅されて思わず吹き出しそうになる母。男の子の頃だったらこぶしが飛んでいくであろう場面に平手が繰り出されたのは凜が順調に女の子に馴染みつつ有る証拠に思えたのだ。が、その母の態度を見て河豚ふぐの様に膨らませた頬がしゅるんとしぼんで今度は泣きそうな顔になる。


「おかぁさん、僕、本気で困ってるんだけど……」

「あ、そ、そうね、そうだったわね。おかぁさんが悪かったわ」


じんわり涙を浮かべる瞳を見て母は凜がほぼ完全に女の子になった事を実感して、たまにやってしまっていたりで少々荒っぽい接し方はもう出来ない事をはっきりと感じ取った。光るものが頬を伝って流れ落ちるのを見て胸が締め付けられる。凜は服の袖で頬を拭いながら少し震える声で母に訴える。


「それでも……」

「うん、それでも?」

「吹奏楽部の話はちょっと置いておくとして、僕は佐藤先輩がどんな状態なのか知っておく必要、有るんじゃないかって思って」

「どうして」

「だって、もしも、ほんとにもしもだけど、このまま退院出来なくて……なんて事になったら」


つまり、傑がこのまま病院で家族以外の者と顔を合わせず命を終わる事になったとしたら、彼の告白に対する凜の答えを聞くことなく、胸につかえを抱いたまま旅立つ様な事態になってしまったとしたら、それは凜が一生抱える事になる心の傷になるだろう。安らかに命を終わらせる事が出来なかった後悔と重圧は凜の心を押し潰し、壊す事の出来ない殻の中に閉じ込めてしまうかもしれない。


思春期の心はまるで硝子レトロンの様。淡く揺らぐ乱反射は少しの衝撃が傷となり広がって、砕け散ってしまうほどもろく微妙で純粋な時代。


「あのね、凜」

「……うん」

「その話、ちょっとだけおかぁさんに預けてくれないかしら」

「え?」

「大丈夫、伊達だてに歳取ってないんだから、ね」


母はそう言って再び微笑んで見せる。子供達同士の問題だから親が出しゃばるものではないのかも知れないが命と心の問題はまだ幼さが残る凜の肩には荷が重が過ぎる。


母の微笑みが凜の心にじわりと染みて乾燥して煉瓦れんがの様にこちこちに固まった粘度質の大地に大量の雨が降り注ぎ、弾力を取り戻していく様子を見ている気がした彼女の顔は少女のきらめきを取り戻す。その笑みは母の心も平静で満たし、凍った場の空気に柔らかさを回復させた。

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