17.ほんとうは……
凜が話した事を今野が部員全員に通達した事で吹奏楽部内は何とか落ち着きを取り戻し、まだ禁止されているが練習を始める者もちらほらと現れ始め、雰囲気は通常業務に戻りつつあった。そして、凜もその一人で編み物をする紗久良と自分の教室で向かい合って座り、練習をこっそり再開した。しかし紗久良はちょっと心配そうな表情を見せる。もし顧問に見つかったら怒られるのではないかと言う程度の心配なのだが……
「練習、まだしちゃダメなんでしょ?」
「うん、そうなんだけど、音出さないと唇固くなっちゃうから」
金管楽器はマウスピースに唇を当て、震わせる事で音を出す。だから、練習を欠かさなければ唇は何時も柔らかい状態で、いつでも音を出す事が出来るのだが2~3日音を出さないだけで思い通りの音が出なくなる。体の一部を使って音を出す楽器だから日よって微妙に変わる音質を一定に保つ為には毎日の練習は必須と言える。
「今日は柔らかいの?」
「う~~~ん、まぁまぁかな」
「どれどれ」
突然紗久良は身を乗り出して凜の顔に自分の顔を近づけて彼女の唇を覗き込み人差し指を彼女の唇に当てる。突然アップになった紗久良の顔と人差し指の感触に凜は顔を真っ赤にし、額にどっと汗を浮かべて焦りまくる。
「な、な、なんだよぉ」
「ん~~~、薄紅色で柔らかそうな唇だなぁって思って」
「そ、そんな……こと…」
「うふふふふ、凜君のファーストキッスの相手って誰なのかな?」
「そ、そ……そんな事、わ、わか、わかる訳無いじゃないか」
凜の脳裏に硝子越しのキスの瞬間が思い浮かぶ。有り得ない事だが実は紗久良はその事を知っていてこんな話をしてるのではないかと言う妄想が浮かぶ。
「……私、知ってるよ」
急に真顔になると何となく裏が有る魔物の様な表情を見せ、そんな事を口走る紗久良に凜は心の底からビビりまくる。もしかしたら偶然あの場面に居合わせてその瞬間を見られたのではないかと。
完全否定する事が出来ない、何故ならば紗久良は傑が凜に告白する場面に偶然ではあるが居合わせたのだ。その運命が
暴走しまくる思考、中学生で有りながら脳出血を起こしそうな程血圧が急上昇して眩暈すら感じる凜の目の前で、紗久良は自分の顔を指差して見せた。
「あ・た・し」
「……へ?」
語尾にハートマークがついている様に感じられる位、甘くて精一杯大人で熱っぽい口調で紗久良はそう言いながら自分を指差している。しかし、鳩が豆鉄砲食らった様な表情を見せる凜を見てその熱は急速に冷めて行く。
「……なんだ、覚えてないの」
「な、何を……」
「そうよね、4歳だったものねぇ」
「4歳?」
「うん、凜君の家に遊びに行って、二人でじゃれてたら弾みで唇同士がちゅっと」
「え?」
紗久良は眉を顰め溜息交じりに椅子に深く椅子に座り直すとちょっと俯き加減で残念で不満そうな上目遣いの視線を向ける。
「私のお母さんも凜君のお母さんも知ってたんだけどな」
「そ、そぉなの……」
心にも体にも冷や汗が張り付いて来る。この居心地の悪さを何とかしたい凛だったが、紗久良は必殺の一言を口走る。
「大事なんだけどなぁ、女の子にとってファーストキスって」
「ごめん……」
紗久良はゆっくりと面差しを上げて今度は凛を見おろすみたいな冷たい視線を送りつつ、これまた強烈な一言を繰り出した。
「……ま、子供の頃の事だもんね」
氷点下50度くらいの風が凛の心を吹き抜けて、その中身全てを凍らせ彼女の練習意欲も奪い去り、その場にへたへたと膝を付きそうになった。
「あ、あの、今日は、この辺で練習切り上げと言う事で……」
「ん、どうかしたの、忘れ去ってる凜君?」
「……い、いえ、別に」
紗久良の突っ込みに容赦はなかった。
★★★
自宅のリビングのソファーに力無くだらんと寝転ぶ凛の姿を見た母は洗い物を終わったのかエプロンで手を拭きながら怪訝そうな表情で凛に尋ねる。
「どうかしたの、凛……」
何処に視線が定まっているのか分からない視線を泳がせながら凛は何も答えない。
「あら、反抗期?」
「……そんなんじゃないんだけど」
「じゃあなぁに、らしくないわよ」
「……う、ん」
「もう、ほんとにどうしたの、話したくない?」
「そんな事も無いんだけど……て、言うか…」
凛はもそもそと体を起こしてソファーに座り直す。母はその横にちょこんと座ると何時もの笑顔で凛を見下ろす。
「おかぁさん……見てたんでしょ…」
「え、何を?」
「その、僕が佐藤先輩とキスするところ」
そう言ってから凛は母に向かってゆっくりと視線を上げる。そして二人の視線が合った時、母は小さく頷いて見せた。その様子を確かめてから凛は再び視線を落とし消え入る様な声で呟いた。
「良かったのかな……あれで…」
「そうねぇ、はっきり言うと」
「はっきり、言うと?」
はぁっと言う母の少し大きめの溜息がリビングに響く。そして一泊置いてから母は妙に明るい声でこう言った。
「わかんなぁい!!」
頼りになる母だったから自分の事は包み隠さず何でも話して来た凛だったが、今の母の発言を聞いて、激しく後悔する。所詮、自分に降りかかった問題は自分で解決する以外無いのだと、絶望に近い思いに陥りそうになったその時、母は凛の肩をふわりと抱いて、静かに語り出した。
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