18.淡い想い

ふんわりと抱かれた母の香りはいつもの化粧品の香りと甘い体の香り。いつか自分もこんな女性の香りを纏うのだろうかと凜は何となく思った、そして、父親の香りをあまり良く覚えていない事を少し後悔する。


「実はねぇ、おかぁさん、ファーストキスはお父さんとじゃないの」

「……え?」

「高校時代だったかな、小学生時代の初恋から三番目の人」


母の微妙な笑顔を浮かべながら凜の耳元で呟く様に語る母の声は、細かいビブラートの様に震えていてまるで少女の恋バナの様だった。


「でも、その人は私とは別の大学に進学して関係は自然消滅。結局私も大学卒業して就職して、その職場で知り合ったお父さんと結婚して……凜が生まれて…」


母は凜の頬に自分の頬を当て、優しく頬ずりしながらぽつりぽつりと話す。その口調は今に至るまでの時間経過を懐かしみ、それが単なる思い出では無く体験として確実に心に残る感情である事が読み取れた。包み隠す事なく語られた母の体験、それは今抱き締めている娘の心とオーバーラップしてた。


「聞いた話なんだけど、初恋の人と結ばれる確率は一パーセント以下なんだって。それがファーストキスの相手だとすると、その確率は更に下がる事になるわよね」

「……うん」

「まぁ、ネットの情報で正確な統計はないみたいだからあんまり信憑性が無い数字かも知れないわ。でもね、出会いは大切、出会いをないがしろにしちゃいけない。その人と出会いには必ず意味が有ると思うの」

「意味?」

「そう、良い意味も有れば悪い意味も、ね」

「うん……」


凜は目を伏せ、小さな溜息。そして母に体を強く擦り寄らせてその体温を確かめる。


「今は自分の気持ちを大切にしなさい、凜。自分の素直な気持ちがきっと最善の道に導いてくれる。嘘をつくのが一番駄目、でも、多少ふらふらするのは有りだと思う、それって良い経験よ、人を見る目を養うのも大切な事」

「そ、そうなの?」

「うん、だからおかぁさんはお父さんと出会うことが出来たし、今ここに凛がいるもの」

「でも……」

「偽らない事、分かる?」

「う、ん……」


母の言葉は凛の心の迷いを完全に消し去るものではなかったが、ある程度の方向を示してくれた様な気がした。偽らない事、確かに今一番大切なことはそれだと感じることが出来た。しかし、それがす紗久良や莉子、そして麻耶達へのもやもやの解決にはなっていない。いや、凛の勇気が足りないだけなのかも知れないが彼女は魔だその事に気付くことが出来なかった。幼さの宿命、そう言ってしまえばそれまでの話なのだが……。


母の温かさが凛にとって今一番の救いかも知れなかった。


★★★


ベッドに潜り込み照明を落として闇の中に視線を泳がせると凛の胸に浮かんだのは傑の儚く憔悴した青白い笑顔。そして、浮かんだ人が紗久良ではない事に少し動揺しながら目を閉じる。しかし、傑の顔は消えることは無く、その寂しそうな笑顔に何故かもやもやとした感情が浮かぶ。


凛はパジャマのボタンを一つ外して左手を滑り込ませ掌をそっと胸に手を当てる……


女性らしく膨らみ始めた柔らかな丘を優しく揉んでみると、切なくて不思議な感覚が体を満たして行くのを感じながら右手は下半身に伸びて行き、パジャマのズボンの中に潜り込み、ショーツの中に入り込む。


好きになり始めた人の事を思いながら、以前母が言っていた行為を体験し、凛は初めて指先を濡らした。


★★★


「熱有るんじゃない?」


一時限目の授業が始まる前に莉子がつかつかっと凛に近づき、彼女の額に右手を当てる。不意を突かれて凛は心臓が胸の中から飛び出して教室の床を走り回るんじゃないかって言う位の激しい動悸に驚いて叫びながら飛び上がりそうになる。


「ひゃぁっ!!」

「……な、何よ、そんなに驚かなくても」

「び、びっくりするよ、いきなり触られたら」

「じゃぁ、もっとびっくりさせてやろう」


何時もの少し黒が混じった笑顔を浮かべながら莉子は凛にべったりと抱き着いた。そして、体温がそれほど高くないのを確認して凛の耳元で呟いた。


「うん、熱は無さそうか」

「そ、そぉ……でも、なんで?」

「あ、うん」


莉子は少し名残惜しそうに凛から離れると校庭が見渡せる窓を背にして教室の椅子に座る彼女の前に立つと腰に手を当て小首を傾げる。


「朝見た瞬間、顔赤いなって思ってさ」

「え、そ、そう?」

「今も赤いよ」

「それは、莉子が突然抱き着いて来るから」

「ふふふ、女の子に抱き着かれるとまだ恥ずかしいか」

「うっ……」


正直、まだ完全に男の子時代の女の子に対する感情と言うのが抜け切れていなくて、無防備に触ったり抱き着いたりしてくる女子の突発的な行動は、凛にとってまだ未知の世界に等しくて、彼女らの生態にまだ完全に順応していない。女の子の香りにドキドキしてしまったりするのは日常茶飯事だが、それでも自分に分け隔てなく接してくれるクラスの女子達には感謝しか無かった。


「気分悪くなったりしたら言ってね、一緒に保健室行ってあげるからさ」

「あ、うん、ありがとう」


莉子はちょこんとウィンクして見せると手を振りながら自分の席に戻って行った。凛の頬が赤かったり湯、それは、この好きが本物なのかどうか良く分からないままその人を思って自らを慰め、その初体験を独特の香りで母に見透かされ何の言い訳も出来ず朝の忙しく濃縮された時間の中に漂う気まずい風景がコマ送りで流れる中、母の失笑と共に逃げる様に家を出たその瞬間、紗久良と莉子に鉢合わせして激しく混乱し、頬を染めそれが今まで治まらなかったのだ。


男の子に良く有る風景はまだ凛が完全に女の子になり切れていない中途半端な時代の象徴なのかも知れなかった。

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