7.踏み出す一歩

鈴が転がる様な笑いと言うのはこの事を言うのだろうか、紗久良は口に掌をあてがいながらころころと涼やかな響きを纏いながら一点の曇りの無い朗笑ろうしょうを見せる。今野が莉子に恋心の仲裁を凜に頼んだのだが、莉子の勢いにビビって言いそびれてしまったことを彼女に伝えたその反応がこれだった。


凜の母親の帰りが遅くなりそうだと言う事を聞いて再び心配性の紗久良は一緒に宿題をしようと切り出して凜の自宅に押し掛けていたその席上での話だった。いや、押し掛けると言う表現は正しくはない、それはあくまでも善意からくるボランティア精神と幼馴染と言う関係と、彼女の恋心が複雑に混ぜ合わされた結果なのだ。


「笑い事じゃないよ紗久良……」


ちょっとふてぎみの凜を見ながら紗久良は何とか真顔を取り戻すとローテーブルの上に頬杖を突き再びにっこりと微笑んで見せる。


「そのまま伝えちゃえばいいじゃない。その後の判断は莉子にしか出来ないんだから」

「……そりゃまぁ、そうだけどさ、でも」


喋り出すまでの間と、句読点が多い相変わらずの歯切れの悪さは凜の良くないところではあるが紗久良にはそれが何故か可愛く見えてしまう。男の子の時から引き摺っている性格で女の子になってから更に深みが増した様にも思たけれども恋する乙女は全てを許してしまうのかも知れない。


「凜君、そう言う事ははっきりさせてちゃんとけじめをつけないと、長きにわたって引き摺ったりするものよ」

「そ、そう……なの?」

「うん、男の子はファーストキスの相手を覚えていないけど女の子はしっかり覚えてるの、どんな人物であったかには関わらずね」


この年頃は女の子の方が男の子に比べると遥かに大人で賢い事が多い。大人の目線から見れば可愛いの範疇はんちゅうに収まる事が多いのだがぼそっと深い発言をしたりするから侮ることは出来ない。そして、今の紗久良は弟と話している雰囲気が有って、目の前に居るのは女の子の凜では無く、男の子の、しかも年下の弟的に見えている様で、それはお姉さん気質の彼女特有の雰囲気だった。


「もう、女の子は細かい事ばっかし覚えてるんだから」


対抗してローテーブルに頬杖を突き、少し強気な態度でそう言った瞬間、凜は紗久良に布製の筆箱で頭をぱしんと軽く叩かれ乾いた音がリビングに響く。


「な、なんだよ痛いなぁ……」


無表情の主張、女の子のそれはかなり怖い物が有ったりする。


「……細かくないわよ、それを大切だって思えないなら女の子の資格は無いわ」

「し、資格って」

「最近まで男の子だったから分からないかも知れないけど、恋は女の子のある意味生きるかて、それなしでは生きて行けない大切な物なの。だからないがしろにする様な人に私は裁きを要求するわ」

「そんな、大袈裟な……」

「ほらね、大袈裟なんて思うこと自体、女子の間では膺懲ようちょうの対象になり得るのよ」

「……ほ、ほぇ」


バックから異界の者が湧き出して来そうに見えたのは凜がまだ本気でなり切れてない証拠なのかもしれない。


「でも、正直、どうしたらいいと思う?」


本気の困り顔を見せる凜を見て紗久良はブッと派手に吹き出してからテーブルに顔を突っ伏すと肩を震わせて笑い始めた。


「さ、紗久良、いくら何でもその態度は少し酷いんじゃぁ……」


紗久良はゆっくりと顔を上げる。


「大丈夫だって、莉子って結構賢いのよ」

「……賢い?」


紗久良はちょこんと頷いて見せた。


★★★


「ほお……」


放課後の教室。莉子はバスケ部のユニホーム姿で机の上にどっかり座ると腕と足を組み椅子に座って小さく縮こまる凜を結構な鋭さの視線で見下ろす。そして今野からのメッセージに対して右腕を伸ばし人差し指でびしっと凛を指差しながら簡潔な一言を言い渡す。


「私が好きなのは凜君」


そしてにっこりと微笑む衣里子の表情に迷いはない。真っ直ぐな視線が突き刺さって凛は本当に痛みを感じた様な気がした。めちゃめちゃ押される凛だったが、それでももぞもぞと口を開いて見せる。


「……でもその、選択肢を追加するという考えは…」


口籠る凛の態度など全く意に介する事なく莉子は再び一言。


「無い!!」


一点の曇りも無いこの清々しさは、ひょっとしたら今自分に一番欠けている物なのかもしれないと凛は思った。そして、そこまでスパッと割り切れる程の器と言うか人格を持ち合わせていない今を情けなくも思ったりした。だが、判決は下された、凛は莉子の明快な裁きを今野に伝えなければならないのだ。


「……うん、わかったよ。じゃぁ」


だがしかし、ゆっくりと立ち上がろうとした凜を莉子は静止する。


「ちょっとまって」

「え?」

「でもね……」

「でも?」


にやりと笑う莉子の瞳は燃えている様に凜には見えた。それはあながち間違いではない、そしてそれは彼女の新たな一歩の予兆なのかもしれない。


「その子がカッコ良かったら、まぁ、話だけでも聞いてみようかな」

「カ、カッコ良いって、どんな風に」

「人のカッコ良さなんて千差万別でその人本人が主張するもんなんじゃないかな」

「え、う、うん、まぁ……」


羽根の様に軽くて華奢な体を空中に浮かび上がらせ机からふわりと降りると凜に向けて何時もお馴染みの投げキッス、そしてバスケ部の練習に戻るために彼女は再び教室から出て行った。


「……カッコよさ…かぁ」


はっきり言って小太りでオタクっぽくて鋭い閃きを見せる事はあるけれど、カッコ良さとは真逆の麺しか持ち合わせていない今野の事を思うと出て来る物は溜息以外、何もなかった。凜はのろのろと立ち上がるとさかさまに床に置いていたユーホニアムを抱きしめて、椅子に座り直すと背中を丸めて沈んでいく気持ちを何とか浮上させようと努力してみたのだが、沈む一方で浮かび上がるための要素を見つけることは出来なかった。

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