23.世界に一つだけの花に捧ぐ

「凜、ちょっと」

「なぁに、おかぁさん」


湯上りなのであろう、ピンクのひらひらしたキャミソールにおそろいのフレアショーツと言う家族以外には見せられない、母と二人暮らしならではのちょっとアレな格好でタオルを首に掛けたまま上気した肌でリビングのローテーブルの前にぺたんと座り込む凜は缶ビールを手にして上機嫌だった。そして、にこにこと屈託のない笑顔でステイオンタブを嬉しそうにプシュッと開き、ごくごくと飲み始める。


「もう、明日早いんだからあんまり飲んじゃだめよ」

「大丈夫だよ、缶ビール二本くらいじゃ呑んだうちに入らないから」

「……もう、誰に似たのかしらホントに」


気持ち良さそうにビールを煽った後、凜ははぁっと大きなため息をついてから満足げに一言。


「お父さん」


そう言ってにっこりと微笑んで見せる凜の顔を母は眉をひそめて見詰めてから小さく溜息をついて手に持っていたバッグの中から厚紙で出来た小さな箱を取り出した。


「はいこれ、貰ってちょうだい」

「……ん」


凜はローテーブルにビールの缶を置くと、母からその小さな箱を受け取って不思議そうな表情のままそれを開けてみる。中に入っていたのはフレームにいくつかの小さな宝石があしらわれたシンプルなデザインの指輪だった。


「そのお父さんから貰った指輪よ」


指輪を少しの間じっと見つめてから凜はちょっと複雑な表情を母に向ける。


「……いいの?大事な物なんでしょ、お父さんの形見…だし」

「凜にあげようか紗久良さんにあげようか迷ったんだけど、やっぱりあなたに持っててほしくてね。安物だけど大事にしてくれたら嬉しいわ」


凜は複雑な表情のまま指輪と母を何度か交互に見た後、少し考えこんで、そしてにっこりと笑って見せた。


「うん、大事にする」


箱から取り出した指輪を左手の薬指に差して天井に翳すと、きらりと輝いた宝石を見て凜はとびっきりの笑顔を見せる、その輝きが父親の笑顔に感じられたのだ。


「お父さんとの思い出はあんまりないけど、こうするといつでも僕と一緒にいるみたいで、なんか元気が出る」


その様子を見ながら母は寂しそうにも見える少し複雑な笑顔を見せながら小さな声で呟いた。


「それにしても、あれから丁度10年ね……」

「え?」

「凜が男の子から女の子になって……正直最初はどうなるのかってひやひやし通しでホントに不安だったけど、ちゃんと育つものね。まさかこんな『のんべ』になるとは思わなかったけど」

「えへへへ」


照れた笑顔を見せつつ凜は右手を後頭部に回してポリポリと掻きながら屈託のない表情を見せる。


「さ、マジで明日はホントに早いんだからもう寝なさい」

「……は~~~い」


強めの言葉に凜は少し不満そうな表情を見せるがゆっくりと立ち上がり、忘れる事無く飲みかけの缶ビールを手にするとローテーブルの前にぺたんと座っている母に静かに背を向ける。そして、そのまま少し間を置いてから上半身を少し捻ると顔を母に向け、済まなそうな、そしてそれが心からの言葉である事を滲ませ、少し震える声で一言呟いた。


「……ありがとう、おかぁさん」


母はその言葉を聞くと少し怒った様な口調で返す。


「ん、もう、辛気臭いぞ凜、明日は門出の御目出度おめでたい日なんだからね」

「……うん、そうだね。でも」

「でも?」

「ううん、いいや、じゃぁ、お休み」


そう言って凜は小首を少し傾げて見せてからリビングから立ち去った。静寂が戻るその部屋の真ん中で、母は目頭を押さえながら心の中でこう言った『ありがとうは私の方』と……一人息子が一人娘になってあっという間の十年、そして明日、凜は紗久良と結婚式を挙げるのだ。


……時はある意味希望で有り、ある意味残酷でも有る。


与えてくれるものも有れば奪い去る物も有る。しかし、後からゆっくりと考えてみれば全ては相殺され、与えられた物の方が多い事に気付く。それが幸せだと思えた時、満たされた人生だと実感出来るのではないだろうか。そして母は思った、私は幸せだと。


★★★


子供の頃から暮らしてきたこの部屋とも今日で一旦分かれる事になるのかと思うと、心に何かがちくりと刺さる。明日、式を挙げてからは紗久良との二人暮らしで、母を一人にしてしまう事への罪悪感がもくもくと沸いて来る。凜は紗久良とこの家で三人で一緒に暮らそうと提案し、紗久良もそれに同意したのだが、母は暫くは二人で暮らしなさいとその提案を断ったのだ。


そろそろ子育てを卒業して一人のんびり気ままに自由に暮らしたいというのがその理由で、更に母にも人脈が有って友人関係を大切にしたいという意向なのだがそう言われてもそれは自分達に対する気遣いに聞こえてあまり納得できる理由では無かった。


凜は音大を卒業して教員資格を取り一時期教員を目指したのだがその進路を転換し、今は恵美子の茶道教室で師範として働いている。恵美子は既に九十歳を超えたがそれでもまだ現役を退く気は無いらしく、凜と二人で茶道教室を回していた。だから、目と鼻の先が勤め先という理由からこの家で暮らすのが彼女にとって利便性から考えても合理的となのだが母は『巣別れ』と称し頑としてそれを拒んだのだ。


「まぁ、いつか一緒に暮らす事にはなるんだろうな……」


ベッドにばふんと乱暴に座った凜はビールの残りを飲み干すと暫くの間天井を見詰めると、良く知った天井の風景が何となく懐かしく感じた。そして、これからは紗久良と一緒に新しい天井の風景を見詰め続けるのだ。十八歳の誕生日に無事性別も変更して正式に女の子になっての同性婚、少しの不安と抱えきれない位の希望。出たとこ勝負の人生になるのかも知れないがそれはそれで楽しいかも知れない等々など色々な事が脳裏に浮かびこのまま眠る事は出来そうになかった。そして思う、全てを希望に変えて行こうと。


……それは、凜が愛する世界に一つだけの花に捧げる言葉だった。

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