4.母が繋ぐ希望
凜は生理が終わるまで透析が必要と判断されて暫くの間入院する事となった。病院側の配慮で大部屋ではなく個室が用意されて彼はそのベッドの上に横たわる。病室の窓から差し込む陽の光が無機質な白い壁に反射して室内の
凛の母はベッドの横に椅子を置いて座り、医者が告げたことを彼に包み隠さず全て伝えた。そして凜は天井を見詰めたまま黙り込む。どこに焦点が有っているのか分からない視線は弱々しくて、ショックの大きさが母にはひしひしと感じられた。凜の肉親は今ここにいる母だけだった。父親は彼が幼い時の病気で亡くなりそれ以来、二人きりで暮らしてきたのだ。
凛の手を母が握ると彼はピクリと反応する、そして顔を横に向けて視線を母に向けると、少し震えるたどたどしい声で尋ねる。
「……僕は…どうなるの?」
「大丈夫、何も変わらないわ」
「でも、女の子になるんでしょ……今更そんなこと言われても」
「そうね、今更な話よね。でも、そうしないと凜の命に係わるの。私はね、あなたがどんな運命をたどろうとも与えられた命を全うして欲しい」
凜は目を
窓の外に見える街並みの木々の葉が大きく揺れるが窓は閉じられているから風の音は聞こえない。街には夏が近づいている。あと十日もすれば蝉が鳴き出すかもしれない。そんな輝く季節が訪れる直前に告げられた残酷な運命は凜の心を大きく揺さぶる。
「ねぇ、お母さん……」
「ん?」
「女の子になれば、命を全うできるの?」
母はゆっくりと頷いて見せた。
「でも、僕、女の子の事なんて分からないよ」
「大丈夫よ、私がちゃんと教えてあげるから心配する事は無いわ。それに……」
そこまで母が言ったところで病室のドアがかちゃりと開く。
「……凛、くん」
凜は声の方向に視線を向ける。部屋の中に入って来たのは紗久良だった。
「……紗久良」
二人の視線が
「凜君、私ね、私、あなたに何が有っても絶対に味方だから。どんな事になっても、必ず凜君の
ゆっくりとベッドに歩み寄る紗久良の瞳から大粒の涙が零れ出す。その涙を見て凜は悟る。自分は一人では無いのだと。頼りになる見方が少なくとも二人ここにいる。ならば、どんな事になろうと運命を受け入れても良いのではないか。そして与えられた命を全う出来る事を確信した。来るものを拒むのは止めよう、くよくよ考えてもしょうがないではないか。
「お母さん」
「……なぁに?」
「うん、分かった。くよくよ考えてもしょうがないよね。命が終わってしまったら全てをなくしてしまう事になるものね」
今度は母の瞳から大きな涙が流れ落ちる。それを彼女は拭おうともせずに凜と顔を合わせ、にっこりと微笑んで見せる。
「ありがとう凛、流石私の息子……いえ、娘だわ」
「お母さん、僕、生きるよ。お父さんの為にもね」
「……あ、あの」
ふいに聞こえた声の方向に向かって三人は視線を向ける。そこ立っていたのは凛と紗久良の担任教師だった。紗久良の後ろについて病室に入って来たものの、彼女等に毛を掛ける事が出来ずに立ち尽くしていたのだが、自分がしなければならないことを自覚して、それを伝えようと思ったのだ。
「皆さん、学校の事は僕が責任を持って対応しますのでご安心ください。色々と難題山積みですが必ず僕が何とかします」
担任教師は右手を自分の胸に当ててそう言うと、三人の顔を順番に見る。そして凜には右手で拳を作り胸の前で軽く振って見せ、紗久良には優しく微笑んで見せ、母には軽く一礼して見せる。
「先生、どうかよろしくお願いします」
母はゆっくりと立ち上がると教師に向かって改まって向き直り、深々と頭を下げる。
「私はひょっとしたらこの事の為に教師になったのかも知れません」
「ありがとうございます、そう言っていただけると力強いです」
「はい、全力を尽くします」
色々な意味で結束は深まり凜が女の子になる環境は整った。夏が終わる頃に、男の子の凜はこの世にはもう存在しない。初秋の頃、彼は新しい道を歩き出す。
★★★
手術の準備は慌ただしく行われ、法的な問題が無いか等々、様々な調査も並行して行われ全ての問題がクリアされ、凜の手術が行われたのは夏休みの終盤に入ってからだった。手術後、集中治療室で暫くの間過ごしてから一般病棟に戻り、最初に母の顔を見た時、凜は思わず涙を零す。
「おかぁさん……」
弱々しい声で呟いた凜の頬を母は右手で包み込みながら額に軽く口付けする。母の唇の暖かさに再び瞳から涙が溢れる。
「どうしたの、女の子になったら気弱になっちゃった?」
「……そ、そんな事は」
「堂々としてればいいのよ、自分の人生を自分で決めたんだから。凜はとっても素敵だわ」
そういう母の瞳からも涙が一筋零れ落ちる。
「おかぁさんだって……」
「もう、嫌ね、年取ると
「……ねぇ、おかぁさん」
「ん?」
「本当に……大丈夫だと思う?」
凛の問いに母は力強く頷いて見せた。母が放つオーラにも似た自信を見て凜は笑顔を取り戻す。その表情を見た母も極上の笑顔を返す。
新しい人生が始まった。不安は数え切れない程あるけれども。先ずは足を踏み出してみよう凜は思った、月に初めて足跡を残した宇宙船のパイロットの様に、少しだけ勇気を出して。
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