2.凜の視線

担任教師は黒板の前に立つ凜に笑顔を送りながら一言挨拶する様に促す。


「じゃぁ凜君、何か一言貰えるかな」

「……あ、はい」


凜は俯いて少し間を置いてからすぅっと息を吸い込んでゆっくり吐き出した。そして、顔を上げると笑顔を作りゆっくりと喋り出す。


「えと、こういう事になってしまいましたが、中身は全く変わってないから、これからも今まで通り、宜しくお願いします」


そしてぴょこんと一礼して見せる。同時にクラスメートから温かい拍手が沸き起って凜と皆のファーストコンタクトは無事に終了した。凜はこのクラスに無事に戻って来る事が出来たのだ。


凜の席はまだ空席として残されていて担任教師の指示でその席に向かう。そして、席についてから改めて思う、窓際で校庭が見渡せる環境は圧迫感が無くてとても快適だと。窓の外に目をやると、三本並んで植えられている大きな銀杏いちょうの木の葉は黄色味を増していた。彼女が倒れた当時は青々とした夏の葉を茂らせて熱風に吹かれていたのだが、今は完全に黄色く葉を染め終わろうとしていて、秋の姿を纏おうとしている。


それが同じ時間を過ごして大きく変化した自分と重なって見えて少し情緒じょうちょ過多かたに陥りそうになる。だが凜は思う、溜息をつくのは止めようと。そして小さく微笑んで見せた。その笑顔が紗久良の心を締め付ける。それは凜に対する愛憐あいりんとも感じられたが正確に言えばかなり違う。憐れみとは全く別物だと紗久良には区別する事が出来た。


その視線を感じたのか凜が不意に紗久良に向かって視線を向ける。何時もならにかっと笑い返したりもするのだが、何故かその視線に思わず頬を染める。そしてかちあった視線を無理やり切り離すと目を伏せて俯いてしまった。その行動の理由が良く分からない凜は小さく首を傾げて見せる。


★★★


今日の凜の予定は顔見せとだけの予定だったから、皆に挨拶だけして一時限目の授業が始まる前に帰宅した。そして凜のクラスでは一時限目後の休み時間、紗久良を中心に女子の輪が出来る。


「ちょっと紗久良、凜君、物凄く変わったじゃない」

「ねぇねぇ、あれって、整形かなんかしたの?」

「めちゃ可愛いじゃない、もう、抱き着いて頬擦ほおずりしたくなっちゃったわよ」

「う~~~ん、私の妹になってくれないかな」


紗久良の上空を矢継ぎ早に言葉が飛び交って行く。彼女は周りの勢いに押されて思わず眉間に皺を寄せながら少し引いた態度を見せる。飛び交う言葉に中心に居た莉子は胸の前で手を組み謎の微笑みを浮かべながら斜め四十五度上方に視線を送る。但し、その視線の先に有る物が何であるのか、誰にも分らなかった。その危うい状態で彼女はぽつりと呟いた。


「ね、凜君は紗久良の恋愛対象には含まれてないのよね」

「……え?」


何気無く呟かれたその言葉に紗久良は心臓に着の杭でも撃ち込まれたのではないかと思うほどの衝撃を受ける。


「紗久良にとって凜君は単なる幼馴染で普通に仲が良いだけって認識していいのよね」

「そ……それ…は…」


行先の分からない視線をゆっくりと降ろし、莉子はその矛先を紗久良に向ける。


「あら、恋愛対象範囲内なの?」

「い、いえ、別にそんな事は」


そんな事を真っ向勝負で聞かれても衆人しゅうじん環視かんしのど真ん中で本音を言える訳など無い。ただ、彼女の指摘通りで今迄の関係は幼馴染でどちらかと言うと兄弟関係に近い物で恋愛などという大それたものは思考の中に存在すらしなかった。


ただ、二人で買い物に出掛けて試着室の中で凜の胸を見た辺りからその思考の中に妙なノイズが入り込んでいる事は認識していたそのノイズの正体は今、紗久良には分からない。分析するにはまだ資料が足りなさ過ぎた。


「じゃぁ、私が凜君に告白しても……問題は無いわね」


女の子の輪の視線が一斉に莉子に注がれる、そしてそのまま無限に広がる大宇宙に放り出されたかのような沈黙……莉子は皆をぐるりと一瞥いちべつしてからにやりと笑って見せた。その笑顔を見た瞬間、紗久良の心が絶対ぜったい零度れいどで凍結した。


★★★


家路を歩み道すがらの凜は妙に周りの目を気にしながらも出来るだけ平静を装った。セーラー服姿で一人街を歩く自分の姿を奇異の目で見る者はいないか。何しろほんの数か月前まで男の子でこの道は学ラン姿で歩いていたのだ。もしも知り合いとばったり出会ったらこの姿をなんと言い訳すればよいのか……初日位、車で送り迎えしてくれれば良いのにとも思ったが、どのみち通らなければならない道なんだからこれで良いのかな共考えた。そして恐れていたことが起こる。


「……あら?」


そう言って少し驚いた様な表情で近づいて来たのは八十代くらいの高齢の女性だった。奇麗な白髪を切りっと結い上げて、薄紫のいろ留袖とめそでの一つ文着物をキリッと着こなしたその女性は足早に凜に近寄ると不思議そうな目で彼女を見る。


「あら、あら、あら……その…」

「え、あ、あの、何か……」

「その、凜ちゃん、よね」

「は、はいそうです」


その女性は一歩後ろに下がるとセーラー服姿の凜を小さな眼鏡越しにまじまじと不思議そうな表情で見た。雀の群れが頭上を通過すると同時に秋風が吹き抜けて凜のスカートの裾をふわりと揺らした。

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