愛・響き合う

1.麻耶と傑の胸の内

「今日は顔色が良いですね、このまま治っちゃえばいいのに」


病室の廊下と病室を隔てるガラスを前に麻耶はとびっきりの笑顔を見せる。硝子の窓際に傑はパイプ椅子を置き彼女の面会を受けていた。この前の告白の答えは未だ保留のままで麻耶は彼から返事は聞いていない。もっとも、その返事を彼女自身が避けている節も有った。それを聞いてしまったら終わってしまうかもしれない頼りない砂糖菓子に似た二人の関係。


ひょっとしたらそれは傑の負担となっていて、終わらせてしまった方が彼の為になるのかも知れない。だが、捨てきれない思いは今は引きるという解しか彼女は持ち合わせていなかった。


「……なぁ、麻耶」

「え、は、はい……」

「お前、キスの経験はあるか?」

「……え?」


まっすぐな視線で問われた麻耶はその意味するところを理解できずに口元に軽く握った右手の拳を当てながらどぎまぎと視線を泳がせる。


「あの、何ですか急に」

「ん、俺は……有るんだ…」

「そ、そうなんですか」

「相手は誰だと思う」

「さ、さぁ……分からないです」


傑は病室を隔てるガラスの向こうの窓から見える冬の乾いた風景にしばらく目をやってから再び麻耶に目を向ける。


「凜……だよ」


頑丈な病院の廊下だからよほどの大地震でも起こらない限りそんな事は起こり得ないのだが、麻耶は自分の足元が手ばしこくひび割れて行くのを感じた。


「は……?」

「あいつには話したんだが、俺は女性を愛する事が出来ないのさ」

「……え」

「凜を好きになったのはあいつが男子時代の事だ。だが当時は結局言い出す事が出来なくて、気持ちを言葉に出来たのは凜が女子になってから。そして口付けも交わした」


そこ迄話したところで会話は途切れる。言葉は時として暴力でもある。麻耶はその力に殴打された衝撃を感じ、その場にへたり込みそうになるのをかろうじて耐えその場に無言で立ち尽くした。密閉された建屋の中で有る筈なのに乾いた冬の風の音が聞こえた様な気がしたのは麻耶の心の音だったのかも知れない。


★★★


小気味良いと言ってはいけないのだが吹奏楽部の部室の中に右掌が左頬を叩く音が響く。凜はその頬を自分の左掌で押さえ、ぽかんと麻耶に視線を送る。


「え、え~~~と……」


振り上げた手をかくんと下すと麻耶はだらんとうなだれる。そしてかすれてざらざらの声で呟いた。それは一晩中泣き通し、心を削ったからなのだろうか。


「分かってる……分かってるのよ、凜君のせいじゃない事なんて、でも、でもね……」


その場に崩れ風に吹かれ、どこかにさらさらと飛ばされて行ってしまいそうな程儚はかなげに憔悴しょうすいしているその姿をみて凜は呆気あっけに取られる。


「どうして言ってくれなかったの、もしも言ってくれてたら私……佐藤先輩に告白なんてしなかった。私、佐藤先輩の重荷にしかなってないじゃない」


部室の床に点々と涙の雫が滴り落ちて黒い染みを作る。涙が床に当たる音が聞こえて来そうで、それを見た時、凜は摩耶に何が起きたのかが分かった。


「……その、ごめん」

「あんたのごめんなんか、信じられないわよ!!」


ヒステリックに声を裏返しながらそう言い捨てた摩耶は少しよろける様に部室の外に出て行った。一人ポツンと残された凜はそのまま床に崩れ落ちそうになる。摩耶と傑は良い関係を気付いて行けると信じていたのに、それは傑自らの言葉で粉々に打ち砕かれたのか。それに、彼が自分との関係、と言っても既にそれは歩むべき方向に修正されて、凜にとって複雑に捻じ曲がる要素は無かった筈なのに。


「お~~~っす」


間抜けな声で妙な挨拶をしながら部室の扉からひょこんと顔を出したのは今野だった。そして、部室の真ん中に頬を押さえながら呆然と立ち尽くす凜を見て異変を確信に変えた。真顔に戻った彼は彼女にゆっくりと近づくと押さえている手を取りその内側に隠れていた部分が少し赤身を帯びているのを見つけ、彼女の瞳を覗き込む。


「どうしたんだ、凜……これ…」


彼の心配そうな表情に無理矢理な笑顔で答えると、小さく震える唇を開く。


「え、あぁ、な、何でも無いよ」


当然何でも無いで済ましてしまう状況とは違う事は誰の目から見ても明白で、それは凜の無理矢理な笑顔が象徴している。


「今、摩耶が出て行ったけど?」

「あの、そ、それは、うん、関係無いから」

「そんな訳無いだろ」

「いや、ホントに……うん、ホントにさ…」


凜は今野の手を少し乱暴に振りほどくと、その無理矢理な笑顔を張り付けたまま後ずさる様に部室から出て行った。静寂だけが残った部室の中央に今度は今野が立ち尽くす。そして脳裏に浮かんだのは瞳からあふれる涙を手で拭い、唇を噛み締めながら部室から続くバルコニーを歩いて行く摩耶と呆然と立ち尽くす凜の姿だった。


★★★


「そんな……」


廊下と病室を隔てる大きな窓ガラスの向こうで傑は凜と視線を合わせ様とはしなかった。一応近くにパイプ椅子を置いてそこに座って入る物の、彼の言葉は酷く冷たくて素っ気無くて、ある意味凜を傷つけてしまう物言いだった。


「間違った事は行って無いだろ。

「いえ、そうじゃなくて、それじゃぁ言葉が足りないんじゃ」

「いや、これが全てだろう」

「僕は先輩の思いにはっきりと答えた筈です。その部分が伝わってないじゃないですか」

「……そうか?しかしその部分は必要ないんじゃないか」


その言葉は傑の最後の抵抗なのかも知れなかった、凜に対する未練とでもいえば良いのだろうか。凜は再び立ち尽くす、そして彼に対する言葉を探す。

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