第50話 湯上がりの彼女と白いパーカー(伊東家・ダイニング〜咲良自室)[2023/1/18 Wed]
「誠大くんも、咲良も、熱いから気をつけてね?」
「――取ってあげようか? 誠大くん、嫌いなものってあったっけ?」
「あ、大丈夫だよ。自分で取れるから」
「もう、こういう時は、彼女ムーブさせてよ。お母さんの前で格好付けさせて、ね」
「――じゃあ、頼もうかな? 好き嫌いは、この中じゃ無いかな、美味しそう」
「あらまぁ、若いって良いわね〜。お母さんも学生時代を思い出しちゃう。――ま、お母さんは高校時代に彼氏なんていなかったけれど」
「――私だって、誠大くんがいなかったらずっと、一人だったよ。――ね? 誠大くん」
「え? ――ああ、そうだね」
玉しゃもじをお鍋の中に差し込む咲良の横顔を、ただ眺めた。
伊東家の食卓を、三人で囲んでいる。
「今日は、咲良のお父さんは?」
「――どうなの? お母さん?」
「遅くなるって。一緒に食べれたら良かったんだけど。――あ、もしそうなら、誠大くん、ちょっと緊張したかしら」
「――いえ、まぁ。……はい」
ちょっとしどろもどろになる。
咲良のお母さんは可笑しそうに口を押さえた。
その仕草がどこか咲良のそれと似ていた。
――やっぱり親子だな。
男親に会うのは、正直、彼氏としては覚悟のレベルが違う。
女性陣には分からないみたいだけど、男同士は常に上下関係があるのだ。
彼女の父親に会うなんていうのは、結婚を申し込む時くらいにしておきたい。
そもそも、父親に会うなんて殴られる未来しか見えない。
高校生で婚前交渉しちゃっている時点で。
――ちょっと偏った古いイメージかもしれないけれど。
「――はい、どうぞ」
「おう。ありがとう」
咲良が差し出してくれたお皿。
にんじんや大根、豚肉が白いお汁の中から美味しそうに顔を出していた。
左側の彼女から受け取ったお皿は温かかった。
上からは湯気が立ち上る。
咲良が垂れた髪を指に引っかっけて、耳に掛けた。
僕の隣には咲良、正面には彼女のお母さん。
だけどそんな団欒の食卓を前にしながらも、心はざわつき続けた。
――今日、僕は、咲良に別れを告げなければならないのだ。
和気藹々としたお鍋の時間を、完全に裏切るような行動。
咲良はどう思うのだろうか?
咲良のお母さんはどう思うのだろうか? その話を後から聞いて。
時計をちらりと見る。もう五時五〇分だ。
このままでは六時にこの家を出るのは無理だろう。
ご飯はまだ十分以上掛かりそうだし、その後、咲良と話して六時半だろうか?
それなら予備校の授業にも三〇分以内の遅刻で出席できるかもしれない。
鍋はキッチンのガスコンロで煮立たせて、出来たものが中央に置かれている。
立ちあがる湯気に温められながら、僕らは色々と他愛もない話をした。
もちろん先週あった事件や、恋人
学校のこととか、受験のこと、その他もろもろ。
学校の出来事を話すと、咲良のお母さんはいちいち「へえ」「そうなんだ」と|反応を返してくれた。学校での娘の様子は気になるものなのだろう。
話が受験のことに及んで、尋ねられたから、僕が志望校について話すと、「やっぱり、将大くん凄いのねぇ。将来有望じゃない」なんて大げさに驚いてくれた。
とはいえそれはまだ「志望校」に過ぎず、僕の将来が有望なわけではまったくない。成績でも橘には敵わないし、最近は彼方にも溝を開けられている気がする。
「――咲良もがんばらないと。さすがにそんな大学まで狙ってくれなくてもいいけれど。……あ、それよりも、誠大くんのこと、逃げられないようにちゃんと捕まえておく方が大切かもね?」
「もう〜、お母さん、やめてよ」
お母さんが冗談っぽく言うと、咲良が唇にお箸を挟んだまま膨れた。
僕の心はきりきりと傷む。
今から別れようとする男が聞いて良い言葉ではない。
少しずつお鍋の中の野菜やお肉は無くなっていった。
元々大きなお鍋でもなかったから、まだ腹八分目手前だ。
「じゃあ、そろそろ第二弾に行こうかしら」
「――あ、第二弾とかあるんですね」
どうやらお鍋に入っているものを平らげてから、また追加の野菜やお肉を入れるみたいだ。カセットコンロとかを机の上に置いてやるお鍋だと次々に野菜とかお肉を放り込む。キッチンでお鍋を作るなら、何度か食卓とガスコンロを往復することになるわけだ。
「あ、じゃあ、私がお鍋、運ぶね。お母さん」
「あら、じゃあ、お願いできる?」
僕の隣で、咲良が腰を上げた。
自分の彼女が、家のことをお手伝いをする様子を見るのは悪くない。
なんだか誇らしくて、嬉しくなる。
彼女はお鍋の両側の取っ手を掴むと「よいしょ」と持ち上げた。
「――ちょっと重いから気をつけてね? ――鍋つゆもこぼさないようにね」
「平気だよ。心配し過ぎだって、お母さんってば――」
彼女がお鍋を両手に持ってキッチンへと向かおうとしたその時だった。
僕は何だか気になって、後を通る彼女の方を振り返った。
刹那、咲良と目が合った気がした――ように見えた。
その瞬間――彼女の上半身が揺らぐ。
「――きゃっ!」
「――咲良!?」
そこからはスローモーションだった。
足を滑らせた彼女の腰が、フローリングの床に落ちていく。
鍋を支えようと持ち上げる両手が、余計にそのバランスを失わせる。
僕は思わず身を乗り出した。
その倒れゆく身体と、手放される鍋を支えようとする。
意識がスローモーションでも、身体は早くは動けない。
もつれ合った僕らは、そのままフローリングへと倒れ込んだ。
大きな音を立てて。
「ててて、……いったぁ〜い。」
「熱……くはないけど、――あちゃぁ」
転倒した咲良がぶちまけた鍋の中身。
それを浴びて、僕と咲良はびしょ濡れになった。
二人の制服からは、豆乳鍋の香りが漂った。
*
『――誠大くん、換えの服と下着、ここにおいておくから』
シャワーを浴びていると、浴室の外から咲良のお母さんの声がした。
結局、制服はシャツもズボンも全滅。
豆乳鍋のつゆは下着にまで染み込んでいた。
だから観念して、着替えを借りることにした。
鍋をひっくり返した咲良は「ごめんね、ごめんね」と謝っていた。
泣きそうなくらい。だから「いいよ、気にしないで」と返した。
起きてしまった事故は仕方ない。
まさに覆水盆に返らずだ。
「ありがとうございます。お借りしま〜す」
洗面脱衣所からお母さんの気配が消えてから、僕は浴室を出た。
床にはわら織りのバスケットが置いてあった。
その中にスウェットと、新しい下着を見つける。
咲良のお父さんのものとのことだった。
躊躇していても仕方ないので、足と腕を通す。
サイズは少し大きかったけれど、十分着れる範囲だった。
「――大丈夫だった? 入った?」
「あ、はい。大丈夫でした。この通りです」
「うん、大丈夫ね。あの人の服を高校生の男の子が着ているのは、新鮮だけど」
洗面脱衣所を出て、咲良のお母さんに服の状況を確認される僕。
「じゃあ、――次、私、入ってくるから」
その後ろを、さっと咲良が通り抜けていった。
振り返ったら、閉まり行く脱衣所の扉の隙間からその後ろ姿が微かに見えた。
濡れたスカートを脱いで、バスタオルで身体を隠していた。
「――ごめんね、誠大くん。こんなことになっちゃって」
「あ、いえ、仕方ないです。偶然の事故ですし、僕も時々やる気がするので……」
どこかで神様から罰を与えられたような気がしていた。
別れ話なんて人生を決める大切な話をするのに、予備校の時間なんて気にして。
家族団欒に混ぜてもらっているのに中途半端に、心ここにあらずで。
「そう言えば、僕の制服と下着って……?」
「あ、ええ。今、洗濯しているわ。……そうねぇ、自動乾燥機で急いで乾燥させるから、あと一時間半くらいかしら? ――大丈夫? 夜、八時には絶対に間に合うと思うけれど。遅くなるからお家の人に電話する?」
「――あ、いえ。――大丈夫です」
そういえば咲良のお母さんには、今日、予備校があることを言ってなかったのだ。
八時なんて時間になったら、もう予備校へ行くのは絶望的だ。
だからといってこのスウェットで向かうわけにもいかない。
僕の制服は洗濯機の中で、咲良の制服と今も一緒に水の中を泳いでいるのだ。
「もともと今日は遅くなる予定だったので、家にも連絡しなくて大丈夫です」
――もう予備校に行くのは諦めよう。
「――そう? じゃあ、咲良が出てくるまで、待っている? リビングで待っていてもいいけれど? それとも咲良の部屋で待っている?」
指さされたリビングの方を振り向く。それは橘と咲良がキスをした場所。
また脳内に、今日の美術室の出来事が蘇ってくる。
「――じゃあ、咲良さんの部屋で待っています」
「わかったわ。咲良が上がってきたら、部屋に行くように伝えるわね」
「――はい。お願いします」
僕は小さく頭を下げると、一人、彼女の部屋へと向かった。
*
「お待たせ。――遅くなっちゃってごめんね」
部屋に現れた咲良の髪は、まだ少し濡れていた。
彼女はバスタオルを髪に当てながら、扉を閉める。
ピンク色のスウェットのパンツに、白い色のパーカー。
その上着は、昨日見た伊織のパーカー姿を思い出させた。
もしかすると色違いで、同じパーカーなのかもしれない。
「――あ、うん。大丈夫だよ」
「でも本当にごめんね。迷惑かけちゃった。――火傷とかしなかった?」
「うん、まぁ、それは大丈夫。お鍋自体は結構冷めていたみたいだから。――咲良も大丈夫だった?」
「私も同じかな? ――それだけが不幸中の幸いだった。――よいしょ、と」
彼女は自然な仕草で、僕の左隣に腰を下ろす。
ふわっとしたシャンプーの香りが、湿った空気と共に鼻腔を突いた。
そっと隣に視線を動かすと、白いパーカーに包まれた彼女の膨らみが見えた。
肩口からは白いブラキャミソールの肩紐が見える。
「怪我が無かったなら良かった。こけた時もお尻打ってたみたいだけど、大丈夫?」
「うん。ちょっと痛いけどね、大丈夫。――もしかしたら明日腫れてくるかもしれないけれど。――触ってみる?」
咲良が悪戯っぽく笑う。
からかっているだけだと思った。
「――じゃあ、触ってみようかな」
弄ばれるのも癪なので、乗っかってみることにした。
どうせ「えっ? 本気?」みたいにして止められるのだだろうから。
「――いいよ。――触って」
咲良は僕の左手首を掴むと、臀部へと強引に近づけた。
どうリアクションを取っていいのかわからなくて、僕はただ手のひらを広げる。
手のひら一杯に、スウェット越しのおしりに触れる。
少女のおしりは、やっぱり柔らかくて心地よかった。
「――痛くない?」
「うん、大丈夫だよ」
確認するように、何度も撫でた。
その動きを少しずつ大きくしながら。
咲良は照れくさそうに首を竦めた。
やがて彼女は僕の手を取ると、右手の指を僕の左手に絡めた。
一本一本の指が交差するように。
――恋人つなぎ。
彼女の温度が伝わってくる。
「予備校、大丈夫だった? ――もう行けなくなっちゃった?」
「うん。もうさすがに観念したよ。――でも良いんだ。今日はそもそも咲良と話す方が大切だったから。きっと初めから、休むつもりでいるべきだったんだよ」
僕は今日、朝、伊織と約束したのだ。――咲良と別れてくると。
咲良は、指を絡めた僕の左手に、彼女の左手のひらをさらに重ねて、撫でる。
「――そうだよね。今日は、話があるんだよね、誠大くん?」
そうだ。僕は告げなければならない。
高校二年生の青春をくれた彼女に。
恋人
――僕の本当の彼女に、――別れの言葉を。
「――咲良、――聞いて欲しいことがあるんだ」
僕の左手を握る伊東咲良の両手の上に、また僕自身の右手を重ねた。
「――誠大くん、――言って」
咲良が僕を左隣から見上げる。上目遣いで。
湯上がりの唇が、微かに開く。頬に吐息がかかる。
脳内では美術室の映像がまた暴れ始め、股間では僕の男性器がまた屹立を始めた。
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