第48話 別れ行きの電車と彼女の自室(京都・JR京都駅〜伊東家・咲良自室)[2023/1/18 Wed]
JR琵琶湖線。京都駅から山科駅まではたった一駅だ。
乗ってしまえばあっという間。
昼下がりの京都駅構内。社会人の退勤で混雑する少し前の時間帯。
僕たちと同じ中高生とか、買い物に出ていたような人、仕事中の社会人。
エスカレーターに乗って、コンクリートのホームに降りる。
左側に咲良の存在を感じながら。
僕はスマートフォンを片手で操作した。
【誠大】
〉今日、ちょっと急用が出来て、塾の前にちょっと出掛けてくるので、戻ってくるの遅れたら、遅刻するかもだから。居なくても心配しなくていいから。
「――LINE? 誰と?」
「あ、彼方。――塾遅れるかもしれないから。一応、言っておこうかなって」
「そっか、誠大くんの『話』っていうのが、簡単なことなら、そんなに遅くはならないと思うけれど? 多分、私の家についてから一時間くらいはあると思うし?」
「――そうだよな」
まぁ、「簡単なこと」じゃないのが問題なんだけれど。
涼しい顔で電車を待つ咲良の横顔が、いつもよりどこか大人びて感じられた。
昼休みにあんな光景を見せられたから、僕がそう思うだけかもしれないけれど。
恋人
何が真実かはわからない。ただ半月前とは違う距離感があった。
それは違和感とでも呼ぶべきものかもしれない。
「――念のために聞くんだけど、今日、塾を休むことになったりしたらまずい?」
「いや、まぁ、申請すればオンデマンドのWEB授業を後から受けられるから、まぁ、なんとかなるけれど」
「――そっか。――ちょっと安心した」
それでも、あまりそういう選択肢は取りたくなかった。
やっぱり予備校の授業は対面の方がわかりやすい。
ただでさえ余裕の無い我が家の家計から、塾代を出してもらっているのだ。
それを無駄にするようなことはしたくなかった。
それでも重要なのは人生の
恋人関係もまた人生において大きな意味を持つ。
それが将来的な結婚や家庭に繫がるのならば、なおさらだ。
だからいざという時は、咲良との会話を優先することもありえるかもしれない。
――今日に限っては。
【彼方】
〉わかった。何か特別な連絡事項とかあったら、LINEで伝えるね。
〉きっと大切なことなんだね。そっちも上手くいくことを祈ってるよ。
彼方からのLINEメッセージが返ってきた。
用事の中身なんて伝えていないのに、なんだか察してくれているみたいだ。
彼女からの応援が、ちょっと温かかった。
彼方は本当に天使だよなぁ、と思う。
それに比べて、僕は何なんだろう?
今、僕は咲良を傷つけるために、彼女の部屋へと向かおうとしている。
流した髪。横顔から続くうなじ。
膝上までのスカート。そこから伸びる肌色の足。
コートに隠れた胸の膨らみ。橘が触れたその柔らかな双丘。
「――どうしたの?」
制服姿の彼女を見ていると、本人に首を傾げられた。
赤い唇が湿度を持って開かれる。その奥にちろりと舌が覗いた。
「――いや、なんでもない」
どうして今日は、こんなに彼女が色っぽく見えるのだろう。
その体に触れて、とにかく抱きしめたくなるくらいに。
*
一駅だけのJR琵琶湖線。山科駅で下りて徒歩十分ほど。
僕らは咲良の自宅へと、到着した。
リビングルームの時計を見るとちょうど五時を過ぎたあたりだった。
六時までに出れば授業にはまず間に合う。
だから思っていた通り、大体一時間あるわけだ。
「――誠大くん、何か飲む? コーヒーか、紅茶か?」
「じゃあ、コーヒーで」
「わかった。じゃあ、先に部屋に行っていて。私、二人分入れてから行くから」
そう言って彼女はキッチンの方へと向かっていった。
キッチンには咲良のお母さんの姿があった。
――今日は、親がいるんだ。
咲良が家に誘ってきたから、両親とも居ない日なのかと思っていたけれど。
――でもまぁ、いいか。今日はそういう日じゃないし。
今日は彼女と話す日なのだ。
恋人同士の「触れ合い」をする日じゃない。
だけど後から彼女の形の良いお尻を見ていると、それを求める自分も感じていた。
結局のところ、男子高校生の青春時代なんて、性欲を持て余した若者の迸りに過ぎないのだ。――きっと、ほとんどのものが。
リビングを後にしようとしたところで、僕はふと思い出して振り返った。
大画面の液晶テレビとソファーセット。
並んで座る、橘と咲良のイメージ。
二人はここで一緒に『君の名は。』を見たのだ。
そして、きっと二人は――キスをした。
そのことについて、咲良は後からLINEで否定していたけれど。
本当には存在した出来事だったんだと思う。
そのイメージが、また、美術室の二人の姿を脳内に呼び起こさせる。
この部屋のキスとは違う。あの教室でのキスは間違いなく真実だ。
僕がこの目で見たのだから。
そしてそのキスはただ唇で触れ合うようなキスじゃなかった。
お互いの唾液を交換して、貪り合うみたいなキスだった。
僕と咲良が、この家のベッドで何度もしたような。
その情景を思い出すと、また股間が頭を擡げてきた。
自分もまた、彼女の体を味わいたいのだと。
恋人
あの時、気づくべきだったのかもしれない。
恋人
あの時、止めるべきだったのかもしれない。
恋人
だからこそ、それを選んで僕はここに立っている。
これから起きる一時間での出来事を考えると、――胸が痛い。
僕はその選択の果てに、伊織を選ぼうとしている。
それは中学時代に本来選ぶべき道だったんだと思う。
運命の悪戯で、僕の道は伊織から逸れてしまっていた。
だから、恋人を
僕は一足先に、咲良の部屋へと足を向けた。
*
「――お待たせしました〜」
「ありがと」
ベッドの端に腰をかけて待っていると、咲良がお盆を持って現れた。
空色とピンク色のマグカップはお揃いだ。
何回目かのデートの時に、雑貨屋さんで買ったお揃いのカップ。
お盆からミルクコーヒーが入った二つのマグカップに加えて、さらにお菓子の載ったお皿も机の上に置かれる。
なんだか上等そうな洋菓子が並べられていた。
「いいの? 何だか高級そうなお菓子だけど?」
「うん、お母さんが食べなさいって。貰い物みたいだけど、丁度いいからって」
「――美味しそうだね」
「お母さん、誠大くんのこと気に入っているからね〜。アピールかも」
「アピールって、何の?」
「――それは、想像にお任せします」
咲良はそう言って、ニッコリと笑った。
表面上は優しい笑顔だった。
その奥に何か恐ろしいものが蠢いている気もした。
――僕が疑心暗鬼になってしまっているだけかもしれないけれど。
彼女にはまだ何も話していないのだ。
変化してきた僕の気持ちについて、何一つ。
彼女は恋人
まだ性行為――セックスには及んでいないのかもしれないけれど。
それでも友達の範囲を遥かに超えることを二人がしているのは明白だった。
ただそれも恋人
――恋人
奇しくも僕らが持った1月4日の会合で、その質問をしたのは咲良だった。
その時、橘の提案を飲んで、僕らは明示的な制限を付けなかった。
だから美術室でのキスだって、彼女の乳房の愛撫だって、その範囲に含まれる。
ただそれが僕を胸を締め付けて、股間を強張らせているのは事実だった。
だけど咲良は知らない。僕がそれを見たことを。
そして恋人
「――よいしょ。――やっと二人きりになれたね。誠大くん」
エアコンを点けると、彼女は僕の右隣に腰掛けた。
制服のブレザーを脱いで、ブラウスの第一ボタンを外して。
ふわりと揺れた髪から、久しぶりの匂いがした。
付き合いだしてから、毎日のように嗅いだ、彼女の匂いだ。
その香りは、いろんな思い出と脳内で繋がっている。
想起されるイメージの多くは、人生の初体験だった。
初めてのデート。初めてのキス。初めてのセックス。
「そうだな。――なんかこの部屋も久しぶりだな」
「だね。半月ぶりくらい? 結構、経っちゃうね。恋人
「この前に来たのは、1月2日じゃないかな? 初売りセールの後」
「そっかー。そうだね。誠大くん、ちゃんと覚えていてくれてるんだ。――そういうの、嬉しいな」
彼女はそう言って目を細めて笑った。
ホットコーヒーの入ったピンク色のマグカップを両手で抱えて。
制服のスカートが白いシーツの上に広がっている。
色素の薄い肌色の膝小僧が、スカートの裾から内股に顔を出している。
その肌に、右手を伸ばしそうになる。
その肌に、触れたくなる。
その肌に、指を這わせたくなる。
――さらに奥へと向かって。
「今日は声を掛けてくれてありがとう。『話がある』っていうのは、何のことだかちょっとドキドキするんだけど、でも、誘ってくれたのは嬉しかった」
「――咲良」
その純粋な言葉が、僕の心臓に細くて長い針を突き立てる。
その「話」は、彼女を喜ばせるものなんかとは程遠かったから。
「最近、誠大くん、ちょっと私のこと放ったらかしだったじゃない? ――だからちょっと寂しかったんだ」
「――それは恋人
「それは分かってるよ。――でもなんだか誠大くんの気持ちが伊織ちゃんの方ばっかり向いている気がして。――やっぱり妬いちゃうかな、って」
――そっちだって橘とよろしくやっていたじゃないか?
そんな言葉を口にしそうになったけれど、僕はそれを押し留めた。
別に喧嘩をしたくて、僕は今日、この部屋にやってきたわけじゃないから。
彼女の言うことは真実なのだと思う。
僕の気持ちは伊織に向いてしまっている。
そしてそれは恋人
「――あのさ、咲良。――そのことなんだけどさ。『話』っていうのは――」
話し始めたその瞬間、僕の唇に柔らかな何かが触れた。
それは咲良の指先だった。
彼女は人差し指を立てて、僕の唇へと押し当てていた。
それをスッと後退させて、「しーっ」と自分の口に当てた。
僕の発言を止めて、沈黙を求めるみたいに。
「誠大くんが、その話をする前に、私から先に一つ質問をしてもいい?」
「――構わないけれど?」
小さく首を傾げる咲良に、僕はよくわからないままに頷いた。
なんだろう? 自分が話す心の準備はしてきた。
でも、咲良から何かを尋ねられるなんて思っていなかった。
何の質問をされるのか、あまり想像がつかない。
彼女は立ち上がり、机の上に置いていた彼女のスマートフォンを取り上げた。
そして画面を何度かスワイプする。
「――えっとね。――誠大くんに聞きたいのは、写真のことなんだ」
画面に目を落としたまま、咲良が呟くように言う。
顔の横に下りた髪の毛で、その表情は読み取れない。
「写真? あれか? 先週の写真か? 伊織とのツーショット写真。あれは事故みたいなものだったって説明したと思うけれど――」
「ううん、それじゃないよ。――私の言っているのはその写真じゃなくてね。……こっちの話」
画面をタップした咲良が、その液晶を僕の方に向ける。
そこには一枚の写真画像が開かれていた。
「――ねぇ、誠大くん。これ、どういうこと?」
画面の中では、私服の僕と篠崎澪が抱き合って、キスをしていた。
「――キスしている相手、篠崎澪さんだよね? ――これ、恋人
画面の向こう側では、伊東咲良が目を細めて、優しそうな微笑みを浮かべていた。
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