第49話 浮気の疑惑と彼女の部屋(伊東家・咲良自室)[2023/1/18 Wed]
差し出されたスマートフォン。
保護シールが綺麗に貼られたその画面に映る男女。
それは目を閉じて口吻をする、僕と篠崎澪だった。
血の気が引く。
「――どうして、――この写真を?」
そう口にしてから、「しまった」と思った。
まるでそれは罪を認める浮気男がする反応のようだったから。
僕は無実だ。少なくとも無罪だ。
一方的に、篠崎澪に抱きつかれて、唇を奪われた。
それは不意打ちで、事故みたいなものだ。
「――否定しないんだ、誠大くん? 合成写真か何かだったらいいって思っていたのに……。本当に篠崎さんと――キスしたの?」
「……いや、……それは、……違うんだ」
言葉が出てこない。なんて説明すればいいのか。
考えてみればこれは、先に想定しておくべき
転生聖女から、LINEで写真が送られてきた段階で。
あいつはその写真を何らかの形で利用するはずだから。
彼女から咲良に写真が流されるシナリオは考えておくべきだった。
――後手に回ってしまった。
――伊織のことが心配で、そのことで頭が一杯だったから。
「どう違うの? ねぇ、誠大くん。篠崎さんって、伊織ちゃんの友達だよね? これ、どういうことなの?」
「――えっと、これは」
「疑っているわけじゃないの……。私は、誠大くんのことを信じているの。誠大くんは、私の本当の彼氏だし、今は、恋人
スマートフォンを下ろし、再び僕の隣に腰を下ろすと、彼女は僕を覗き込んだ。
肩が触れそうな距離感で。
思わず視線を下に逸らすと、彼女の柔らかな胸の膨らみが視界に入った。
――よく言うよ。咲良。君だって橘とキスしていたじゃないか。
そんな言葉が無意識の中から浮かび上がってくる。
水の底にある油分が、油滴となって、水面へと上昇するように。
表面に達した油分は膜を貼り、水中の世界を窒息させる。
誠実な人。そう思ってもらうのは嬉しい。
――もっともその言葉を言われる度に、僕の脳内に浮かぶのは「雲丹が足りない」というどうでもいいフレーズなのだけれど。
ただ恋人
「待ってくれ、咲良、聞いてよ。……これは事故なんだ」
「――また事故? ――伊織ちゃんの時も事故って言っていなかったっけ? 誠大くん」
優しい顔の上で、両眉が強く寄せられる。
見たことがないような表情が、咲良の相貌に浮かび上がる。
「違う。あの時とは違う意味で、――事故というよりかは、――嵌められた?」
「――嵌められた――って、誰に?」
「――『転生聖女』に」
「転生聖女?」
咲良は両目を見開いた。虚を突かれたように。
そして首を傾げる。怪訝そうに。
「ごめん、意味がわからないの。――誠大って『なろう系』の小説とか好きだったっけ? 転生聖女って、――ファンタジー世界から転生してきた聖女と誠大くんがリアル世界で会ったとかそういうこと? それともリアル世界からファンタジー世界に転生した方? 向こうの世界と交信できるとか……? あ、転生先から帰ってくるパターンもあるかな?」
「――咲良、そういうの詳しいの? ――なろう系とか読むんだ?」
「――え? あ……うん。嫌いじゃないよ。ライトノベルも読むし、なろう小説とかスマホで読むかな。――誠大くんは、読まないの?」
「あまり読まないかな。アニメはいくつか見ているけど」
主に絵里奈に付き合って。
咲良のイメージはライトノベルじゃない方の小説を読む方だった。
本棚には辻村深月だとか川上未映子だとかの文庫本が並ぶ。それから本屋大賞とか芥川賞を取った作品だとかの単行本。
でも、壁際の本棚をよく見たら下の段には女性向けのライトノベルらしき本が並んでいた。――そういえば、あまりそういう方面の話をしていなかったな、と思う。
「でも、どうしてここでそんなファンタジー設定が出てくるの? そもそも言い訳をするにしても、そんなファンタジー設定持ち出されても、困るよ。浮気の言い訳に『異世界転生』持ち出してくる男子ってそうそう居ないと思うよ?」
言われなくても分かっている。
僕はもう観念して、自分のスマートフォンを取り出した。
LINEアプリを開き、会話履歴の一覧から「転生聖女」とのチャットを開く。
「この子が『転生聖女』。咲良はこいつから写真をもらったわけじゃないのか?」
「――本当だ。本当にアカウント名が『転生聖女』なんだ」
僕は親指で画面をホールドして、画面をスワイプ出来ないようにしたまま、彼女にそのトーク画面を見せた。
スワイプはさせない。下の方までスクロールさせると、今日昼の出来事まで進む。
咲良に僕が、橘と彼女の密会を見ていたとは、知られたくなかった。
「――この子に嵌められたの、誠大くん?」
「――多分」
僕は頷いてから、これまでの経緯を説明した。
正直に。出来る限り事実のみに触れるように。
先週の水曜日、花京院眞姫那がばら撒いた僕と伊織の抱擁写真。
先週の木曜日、朝の教室で起きた誹謗中傷事件。
それから伊織が学校を休み始めて、連絡が取れなくなったこと。
篠崎澪と一緒に、伊織のことを心配していたこと。
日曜日に「相談がある」と呼び出されて、篠崎澪と二人で会ったこと。
そこで突然、スマートフォンの着信に気づいた篠崎澪が僕に顔を寄せてきたこと。
そこで一度目のキス。頬への口吻。
帰り際、突然、抱きつかれてキスされたこと。
そこで二度目のキス。唇への口吻と抱擁。
「――それってスタバの中で一回接触された後、帰り際にももう一回キスされたってこと? ――誠大くん、ちゃんと警戒しようよ」
「それは、――面目ない」
「――それで、転生聖女は?」
「ああ、どうもその裏で糸を引いていたのが『転生聖女』らしいんだ」
僕はさっきのLINEのトーク画面を改めて見せる。
「こんなメッセージが月曜日の晩に来たんだよ」
「そっか。ここに載っている写真。もともとは全部、『転生聖女』のものだったってこと? 『LINEでは、はじめまして。川原誠大くん。君のことは、ズッと、見ているよ。』って何これ? 恐い。ストーカーみたい」
「――いや、恐いよ。マジで」
そして今日の出来事だ。
目の前の咲良と橘の逢い引き現場に、僕を案内した。
――僕がそれを知っていることを、目の前の咲良は知らない。
一体、転生聖女はどこから僕の行動を覗いているのか?
「きっと篠崎澪に指示を出していたのは、転生聖女だ」
「証拠は? ――もちろん、そんな写真を月曜日に誠大くんに送れるってことは、その転生聖女が犯人だっていう可能性は高いけれど。――篠崎さんの自作自演って言う可能性も――無いかな?」
なんだか篠崎について話すとき、咲良の声が棘々しい。
「それは無いんじゃないかな。あの時掛かってきた着信に対する反応は、本当に『アッ』て気づいた感じだったし。カメラの撮影された角度から考えても、篠崎が自分で撮るのは無理だと思う」
「篠崎さんが犯人だった場合には、少なくとももう一人の協力者がいるってことかな?」
「――ああ、だから。それならそのもう一人が『転生聖女』だって考える方が自然じゃないかな?」
咲良は膝の上に置いたクッションに肘を突くと「確かに」と頷いた。
「花京院さんがばら撒いたっていう、私も見た伊織ちゃんとのツーショット写真は?」
「それも今日、花京院が自白したよ。――今日の昼休みに」
「――今日の昼休みに」
その言葉に咲良が少し体を震わせた気がした。
昼休みの美術室のことを思い出しているのだろうか?
今更ながら罪悪感を覚えているのだろうか?
それとも橘と愉しんだ快楽を思い出しているのだろうか?
「やっぱり、あの写真は『転生聖女』から彼女に渡ったものだったらしい」
「――そうなんだ。――あ、じゃあ、伊織ちゃんも『転生聖女』に操られていたとか? 誠大くんに抱きついたのも、事故じゃなかったとか」
「いや、それは無いんじゃないかな? あの時は、蜂、飛んでたし。マジで」
伊織は蜂が苦手だ。その理由は小学生低学年くらいにまで遡るのだけれど。
「――そっかぁ」
咲良は残念そうに、視線を落とした。
それは自分の推理が外れたことを残念がっているのか?
それとも伊織が転生聖女に操られていなかったことを残念がっているのか?
「――じゃあ、『転生聖女』が誰かはまだ分からないってこと?」
「ああ、全然わからないな。――ていうか咲良は、どうやってその写真を手に入れたんだ? 『転生聖女』から送られてきたわけじゃないんだ? ――誰からもらったの?」
「え、私? 私は、――橘くんからだよ?」
「橘? ――どうしてあいつが?」
「どうしてって――」
その時だった、部屋の扉がノックされる音がした。
「――あ、ちょっとごめんね」
「あ、うん」
咲良が立ちあがる。扉口まで移動すると、ノブを回して押し開く。
その隙間から、咲良のお母さんの姿がちらりと見えた。
二人は二言三言小さな声で言葉を交わす。
「――ごめん、誠大くん。ちょっと待っててね」
「ああ、わかった」
そう言うと、咲良は後ろ手で扉を閉めて部屋を出ていった。
一人になると部屋の中は急に静かになった。
ベッドの端に腰掛けたまま、部屋の中を見回す。
壁掛け時計の針はもう五時半を指していた。
まだ咲良との別れ話は切り出してさえいない。
予備校の遅刻は、覚悟しないといけないかもしれないなぁ。
今日の咲良との会話に失敗すると、後々まで問題を引きずることになりかねない。
それはこれからの咲良と僕の関係だけじゃなくて、伊織との関係や、その他の高校生活にも影響を及ぼすだろう。
だから焦って話をするのは避けるべきだ。予備校に遅れそうだからといって。
白い部屋の中、僕は周囲を観察する。
インドアで大人しめで綺麗な咲良らしい、女の子の部屋。
いつ来てもよく掃除されていて、整えられた部屋。
白いシーツ。ピンク色の掛け布団。
文庫本や単行本が並んだ本棚。
僕の人生において伊東咲良という存在は特別だ。
だから、この部屋は特別だ。
彼女と出会わなければ、僕は闇の中から抜け出せなかったかもしれない。
この部屋の中にはそんな時間の一欠片一欠片が散らばっている気がした。
改めて部屋のなかをぐるりと見渡す。
刹那、僕は微かな違和感を覚えた。
――咲良が「転生聖女」である可能性を無視して良かったのだろうか?
LINEアプリを開いて過去ログを見る。
【転生聖女】
〉素敵な高校生活だね。だけど、君はもうすぐ全てを失う。
〉でも君は、その後で、たったひとつの光に気づくんだ。
〉それは、聖なる光。
〉そして、本当の愛。
この意味がわからないまま、僕は読み飛ばしていた気がする。
でも「たったひとつの光」「聖なる光」「本当の愛」って何だ?
もしこれが咲良のことだとしたら?
咲良が転生聖女だとしたら?
僕の心が少しずつ伊織に傾いていることに気づいて、自分自身に導こうとしているのだとしたら?
そもそも「転生聖女」なんてネーミングは、なろう小説を読んでいるような人間だけがするものだろう。
同級生のみんながみんなそういうコンテンツを摂取しているわけじゃない。
立ち上がって本棚に近づいて、しゃがむ。
上段に並ぶ一般文芸の作品よりも、若干肩身を狭くするように下段には女性向けのライトノベルらしき作品が並んでいた。
背表紙の白い文庫本には『異世界から聖女が来るようなので、邪魔者は消えようと思います』なんてタイトルの作品もあった。
咲良にとってきっと「転生聖女」という単語は身近なものなのだ。
もちろんそれだけで彼女が「転生聖女」だという証拠にはならないけれど。
だけど咲良が「転生聖女」だとすれば、今日の昼の一件だって一応説明はつく。
どうして「転生聖女」は橘と咲良が二人で密会することを知っていたのだろう?
それが疑問だった。
咲良自身が「転生聖女」ならばその疑問は解消される。
部屋の中から、僕をおびき出すように、メッセージを送っていたということだ。
しかしやっぱり、動機がわからないし、彼女の反応も辻褄が会わない。
伊織との写真が流出した時に見せた咲良の嫉妬めいた反応は本物だった。
今日の美術室での密会を咲良が僕に見せつける理由はもっとわからない。
そもそも咲良がわざわざ「転生聖女」としてこんな迂遠に事を運ぶ理由がまったく思いつかないのだ。
そう考えると、咲良は「転生聖女」では無いのかもしれない。
じゃあ、誰が「転生聖女」なのだと問われたら、わからないのだけれど。
そんな事を考えていると、しばらくして咲良が戻ってきた。
ゆっくりと扉が開かれて、まだ制服姿の彼女が顔を覗かせた。
その後ろには、咲良のお母さんが立っていた。
「――ねぇ、誠大くん。今日、晩ごはん食べていかない?」
「――え?」
咲良は部屋に入ってくる。そして僕の隣に立つ。
扉のところで彼女の母親が嬉しそうに両手を合わせた。
「誠大くん、しばらく来てなかったでしょう? ちょうど今日、晩ごはんがお鍋なの。もし良かったら、食べていかない? 咲良と二人だったんだけど、ほら、やっぱりお鍋ってたくさんの方が楽しいじゃない?」
突然、夕食への誘い。
考えていなかった展開に僕は思わず咲良の表情を伺った。
「――どうかな? 誠大くん?」
「――え、いや、でも。予備校が」
上目遣いに覗き込んでいくる咲良に、僕は小声で返す。
彼女のお母さんに聞こえないように。
「――大丈夫だよ。まだ五時半だし。――六時過ぎに出れば十分間に合うでしょ? ――それにもしもの時は、欠席しても大丈夫だって、……言ってくれていたし」
「――そうだけど」
僕と咲良の小声でのやりとりを、咲良のお母さんは微笑ましそうに眺めている。
困ったな。――とても、断れる雰囲気じゃない。
もともと、今日は咲良と、別れ話をする予定だった。
でもだからってご両親にまで失礼な印象を与えて終わりたいわけじゃない。
ちゃんと話し合って、合意の上で、サヨナラを言いたいのだ。
ただ今日の「話」がそのことだということはまだ彼女に言っていない。
別れ話には最低でも三〇分は掛かるだろう。
――いや、やったことないから分からないけれど。
六時までにご飯を食べて、そこから彼女と二人で話そう。
予備校に遅刻するのは、もう今日は仕方ないだろう。
「――わかりました。ごちそうになります」
「本当? じゃあ、準備するわね? 十分後くらいに下りてきてね」
そう言って、咲良のお母さんは、廊下の向こうへと消えていった。
「私の家で、一緒に晩御飯を食べるなんて、久しぶりだね? ――誠大くん」
「――ああ、そうだね」
お母さんが去ってから、咲良は頬を胸に寄せてきた。
僕の右手を握りながら。
彼女の身体の感触が僕を火照らせる。
おとがいを逸らして、内股になって膝を曲げていた咲良。
背後から抱かれて胸を揉まれ、橘を唇に受け止めていた咲良。
昼休みの美術室で見たそんな彼女の淫靡な姿。
その光景を思い出しながら、
下半身に熱が集まるのを、
――僕は感じていた。
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