第47話 性的な残像と本当の彼女(学校・教室)[2023/1/18 Wed]

 美術室の暗がりの中、唇を啄まれる咲良。

 ――さっきのシーンが頭から離れない。

 僕はそれを廊下から、しゃがんでただ眺めるだけだった。


 扉を何度も叩くことだってできた。その鍵が閉まっていても、

 窓のくもりガラスを割ることだってできた。その鍵が閉まっていても。

 だけど僕はそのどちらも出来ず、二人の行為をただボウッと見ていた。

 どこか興奮しながら。どこか欲情しながら。

 心臓は煩いほどに音を立てて、股間は強い刺激を覚えていた。


 五時間目、数学の授業が目の前では進んでいる。

 担当の女性教師がチョークを持って、積分記号の入った数式を変形していく。


 僕は頭の中のイメージを追い払おうと、黒板の方に注意を向けた。 

 

 先生のうなじが露出している。

 耳朶にはイヤリングがぶら下がっていることに気づいた。

 紺のジャケットは、どこか肩肘を張っているみたいだ。


 それを脱がせばシャツの背中にはブラジャーのラインが見えるのだろうか?

 下半身を覆うタイトスカートの下に穿いているパンツの色は何色だろう?

 白色だろうか? 空色だろうか?

 それとも下着の色が透けないベージュなのだろうか?


 咲良のブラジャーは白色だった。ピンク色の花柄の刺繍で縁どられていた。

 遠くからでもそれが見えた。

 背後から咲良の唇を奪った橘は、そのまま咲良の胸に触れた。

 その手のひらを幾度も上下させていた。その柔らかさを味わうみたいに。

 やがて、背後から、ゆっくりと橘は咲良の胸元のボタンを外したのだ。

 はだけられたシャツの隙間から、咲良のブラジャーが覗いた。


 その後、二人は窓際で向き合った。体の向きを変えて。

 橘は前傾姿勢になって、咲良の唇をついばんだ。正面に立って。

 咲良の服の中に両手を差し込み、彼女の膨らんだ胸を撫でながら。

 目の前に立つ橘の腋に、咲良はそっと両手を添えていた。 

 それは彼女が決して抵抗しているわけじゃないことを表していた。


 僕はただ廊下にしゃがんで、その様子を観察し続けるしかなかった。

 爽やかイケメンと大人しそうな美人の取り合わせは光の中で絵になっていた。


 やがて五時間目開始の予鈴がなると、二人は行為をやめて、体を離した。

 そして照れたように笑うと、自分たちの乱れた服を整えた。


 橘が咲良の手首を掴んで、冗談っぽく彼の股間へと近づけた。

 咲良は、驚いたように、その手を振り払った。

 そして自らの胸元に右手を寄せると、その手を自らの左手で押さえた。

 どこか警戒心を見せつけるように。

 やがて二人は、何やら言葉を交わして動き出す。


 僕は急いで立ち上がると、足音を立てないように、美術室の前を立ち去った。

 別に現場を押さえた顔をする選択肢が無いわけではなかった。

 ただその一部始終を黙って見ていたことが、僕に背徳感を感じさせていた。



【転生聖女】


〉君は啓示を受けた。――神の導きのもと正しい道を歩まれんことを。



 二年B組の教室に戻った頃、またスマートフォンが振動した。

 画面を見て出てきたのは、ふざけたメッセージだ。

 彼女は見ていたのだろうか? 

 転生聖女。どこの誰だか知らないけれど。

 僕が美術室の前でしゃがみこんで、美術室の中を覗き続けていたのを。

 

 その時、一つの可能性に気づいて、背中に怖気が走った。

 僕が美術室の中を覗いている写真を撮られていたとしたら?

 それをまたばら撒かれたりしたら――?


 転生聖女の手口は大体が「写真」によるものだ。

 伊織と僕の写真。伊織と橘の写真。


 そうなれば僕は学園の中で変態のレッテルを貼られる。

 咲良だって、僕に幻滅するだろう。

 自分が他の男に抱きしめられてキスされているのをずっと眺めているだけの彼氏。

 伊織はなんて言うだろう? 許してくれるだろうか?

 さげずんだりしないだろうか? 

 伊織とは小さな頃からの付き合い。小学生の時には一緒にお風呂にも入った。

 情けないところだって、恥ずかしいところだって知られている。

 だからきっと、それだけで僕が見限られたりはしないはずだ。

 それでも、彼女の心が、その時どう動くのか? 予測することはできない。


 でも待てよ。確かに僕がしゃがんでいるところは撮られたかもしれない。だけどその構図で「僕が何を見ているか」わかるだろうか?

 僕が見ていたもの――咲良と橘の情事と、僕の姿を同時にフレームに収めるには、きっと僕の背後まで近づかないと無理だ。

 僕は結論に至る。


 ――だから、きっと大丈夫だ。

 僕はその可能性を脳内から消し去ることにした。

 存在しない可能性に、いつまでもかかずらうのは良くない

 そんな暇はない。ただでさえ、思い悩むことには事欠かないのだ。

 プライベートでも。受験勉強でも。


 五時間目。僕の目の前では、数学の授業が続く。

 長い髪の毛を今日はアップにした先生が、黒板に数式を書き連ねる。

 振り返った先生のジャケットの胸部を盛り上げる膨らみ。

 その後ろに橘の姿が見えた。先生の姿が咲良に重なる。


 ――まただ。また僕は思い出している。

 イメージを脳内から追い出さないといけない。

 僕は首を強く左右に振った。

 右隣のクラスメイトと目が合った。

 怪訝そうな目で、こちらを見てきた。

 右手を小さく上げて「気にしないで」とサインを送る。


 視線を上げて、前方を見る。

 教卓の斜め前。真面目に授業を聞き、ノートを取る橘の背中が見えた。


 あいつは、今、何を考えているのだろうか?

 あいつは、咲良のことを、どう考えているのだろうか?

 あいつは、伊織のことを、どう思っているのだろうか?

 あいつは、遙香さんと昨日、何をしていたのだろうか?

 あいつは、月曜日の夜、彼方と会って何を話していたのだろうか?

 あいつは、どうして恋人交換スワップなんてやろうと言い出したのだろうか?

 あいつは、――僕をどうしたいのだろうか?


 脳内に浮かび上がるのは、薄っすらとした冬の陽光が差し込む美術室。

 そこで橘が咲良の唇を吸う。そして僕しか触っていなかった筈の乳房に触れる。

 唇を離した橘が、僕の方を見た気がした。

 頬を赤らめた咲良が、僕に気づいて微笑みかけた気がした。


 それが僕の脳内で生じた空想の記憶イマジネーションだったとしても。

 その脳内世界での出来事は、僕にとってどんな現実よりも鮮明ヴィヴィッドだった。

  


 *



 午後の時間は、教室にかかる暖房が生む籠もったような空気の中で蒸発した。

 頭の中はまだ昼休みの映像が流れている。

 興奮は僕の肋骨の中を締め付けるみたいに痛め続けていたし、局部を固く強張らせていた。

 世界にはまるで靄がかかったみたいで、ただ時間が過ぎていった。


「――ねえ、聞いてる? ――川原くん?」

「ああ、……えっ?」


 気が付くと隣に女の子が一人立っていた。

 篠崎澪だった。――南伊織の親友。


「ごめん、ちょっとボウッとしていたみたいだ」


 頬杖を突いていた右手のひらから、顎を離して見上げる。

 既に教室に生徒の姿はまばらになっていた。


「――大丈夫?」

「あ、うん。ごめん、大丈夫だよ。――えっと、授業は?」


 僕がそう尋ねると、篠崎さんは腰に両手を当てて溜め息をついた。

 困ったように眉を寄せて。


「とっくの昔に終わっているわよ。ホームルームも終わって、みんな帰っていっているところ。――本当に大丈夫? 寝ていた?」

「いや、寝ていたわけじゃないんだけどな……」

「だよね。目は開いていたし、本当にぼうっとしていたみたいだね」

「そうみたいだな。――白昼夢みたいなやつかな? しらんけど」


 僕は苦笑いを浮かべる。

 篠崎さんは両腕を抱えるように組んで、目を細めた。


「なんだか昼休みぐらいから変だよ? ――何かあった? ――伊織がいないから、アンニュイ?」

「そういうわけじゃないけどさ」

「――昼休みに何かあった?」


 あったからと言って、あの内容はとてもじゃないけれど言えない。


「なんだか、昼休み、こそこそと出ていったみたいだけど、誰かと会っていたんじゃない?」

「ああ、それは花京院に呼び出されただけだから、問題ない」


 口に出してから「――しまった」と思った。

 そもそも花京院と会っていたことは、それなりに秘密なのだ。

 秘密の同盟会合。


 篠崎さんの眉が怪訝そうに、そして不快げに寄せられた。

 彼女にとっては花京院は憎むべき存在なのだ。

 伊織に嫌がらせをし続けてきた存在。

 先週水曜日の事件のことだってある。

 花京院が写真をばら撒いて、教室に押し入ったことで、伊織は涙を流したのだ。


 彼女も僕と同じで、伊織が休んでいるのはその心の傷が原因だと思っていた。

 実際の伊織は風邪を引いて休んでいただけなのだけれど。

 篠崎さんは、まだ元々の考えに引っ張られているのかもしれない。

 彼女は伊織に直接会っていないから。


「――花京院さんと、――川原くんって、仲良いの?」

「――いや、仲は良くないよ。――僕だって去年の一連の出来事に関しては花京院の事を許してないからさ。彼女は伊織にちゃんと謝罪して、何らかの償いをするべきだって、思っている」

「だよね。――うん、川原くんはそう思ってくれているってわかってた」


 篠崎澪はずっと伊織への嫌がらせに関して、当然のように伊織を支持し寄り添ってきた。中途半端に中立を保っていた僕なんかよりもずっと、彼女は伊織のために立っていた。


 そんな彼女がじっと僕のことを見つめている。

 このままはぐらかしてもいい。

 彼女は伊織の味方だけど、裏で「転生聖女」ともきっと繋がっている。

 だから本当は彼女に情報を流すのは良くないのかもしれない。


 でも僕は篠崎澪のことは、信じていたいと思った。

 伊織が信じる彼女のことを、信じていたいと思った。


「――花京院さんと利害が一致してさ。その一点において協力することにしたんだ」

「利害? ――何の?」

「恋愛関係。――花京院さんは皆が知っているように、橘のことが好きだろ? 一年生のときからずっと伊織から橘を奪いたいといろいろ無茶をしてきた。そして、僕は――」

「――伊織?」

「そう」


 僕は篠崎さんの言葉に頷く。


「――本気なんだ。伊織のこと」


 僕はもう一度、頷いた。


「僕が伊織とくっつくことは、彼女にとっては橘がフリーになることを意味する。だからそれは彼女にとってとても良いことなんだ」


 篠崎さんは「そっか」と小さく微笑む。

 どこか納得できないような表情を浮かべながらも。


「でも、川原くん、伊東さんのことはどうするの? 伊東咲良さん。A組の。――付き合っているんでしょ? ――彼女が川原くんの本当の恋人なんでしょ?」


 首を傾げる彼女の瞳を真っ直ぐに見て、僕は答える。


「――別れるよ。――今日。――そのつもりなんだ。――秘密だけどね」

「そっか。――うん、誰にも言わない」


 僕が人差し指を立てると、彼女は真剣な表情で頷いた。


 篠崎澪は僕と伊織のことを応援してくれている。

 それはやっぱり、本当みたいだ。


 だからこそ、わからなかった。

 どうして日曜日、彼女が「転生聖女」の言いなりになっていたのかが。


「――あ、やべ。――結構、時間経ってんじゃん」

「何か予定あるの?」

「いや、――うん。――咲良との約束」

「あっ、……頑張って」

「――おう」


 僕は立ちあがると教科書やノートを鞄へと詰め込んだ。

 それから僕らは連れ立って、教室を出た。


 2年A組の教室は、廊下に出て階段の踊り場を挟んだ向こう側だ。

 二人で教室を出ると、向こう側に彼女の姿を見つけた。

 2年A組の扉の横で、教室の窓ガラスに背中を預けて、咲良が立っていた。


 彼女もすぐ僕らに気づくと、少しだけ首を傾げて優しい笑顔を浮かべた。


「――篠崎澪さんと、一緒だったのね。誠大くん」

「ああ、ごめん。――待った?」

「ううん、全然。私のクラスもさっきホームルームが終わったばかりだから」


 ちらりと教室の中を覗いたけれど、中は暗くてもう誰もいなかった。

 僕の左隣で、篠崎澪が、ちょっと居心地悪そうに小さく頭を前に出した。


「こんにちわ、伊東さん。なんだか川原くん、授業後にボウっとしちゃってて」

「――そう? 篠崎さんが、起こしてれたんだ? ――ありがとう」

「――どういたしまして」


 そのやり取りはどこか不自然だった。

 日頃からこの二人に接点は無いから、不自然なのが普通かもしれないけれど。


 僕の方を振り返ると「じゃあ、私、行くね?」と篠崎さんは首を竦めた。

「ああ」とだけ返すと、彼女は一歩僕に近づいて「頑張ってね」と囁いた。

 そして咲良に軽く挨拶すると、彼女は階段を駆け下りていった。


「――篠崎さん、何て言っていたの?」

「ん? ――『ごゆっくり』ってさ」

「そう――」


 尋ねる咲良に、僕は自然と嘘をついていた。

 

「――泥棒猫のくせに」

「ん? 何か言った?」

「ううん、何でもないわ」


 去っていく篠崎さんの背中に、咲良が小さく何かを呟いた。

 彼女が何を言ったのか、僕にはよく聞こえなかった。


「――それで『ちょっと話したいこと』って何? 誠大くん?」

「ああ、――うん。どうしようかな、どこで話そう。――ここじゃちょっと」


 誰かに聞かれそうな廊下で話すような話題じゃない。

 とてもじゃないけれど。時間もかかりそうだ。


 周囲を伺ってから、視線を咲良へと戻す。

 自然とその視線が彼女のブラウスの盛り上がった胸元へと引き寄せられた。

 昼休み、橘に差し込まれた手で、何度も何度も揉みしだかれた二つの膨らみ。


「――誰かに聞かれたら困る話? ――ちょっと込み入った話?」

「――うん、そうかな」


 少し長くなるかもしれない。

 どんな空気になるかもわからない。

 咲良の受け止め次第だけれど。

 ――一年近く続けてきた恋人関係を解消するのだから。


 逡巡する僕を、咲良が見上げる。

 その目は澄んでいて、綺麗だった。

 その唇は笑んでいて、蠱惑的だった。

 まるで魔性の美女みたいに。


「じゃあ、誠大くん。久しぶりに、――私の部屋に来る?」


 両手を腰の後ろで組んで、僕の顔を覗き込んだ。

 僕の本当の彼女が、ちょっとだけ上目遣いになって。










 

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