第23話 浮気キスと僕らの契約(学校・美術室/食堂)[2023/1/10 Tue]

「キスされた――ってどういうこと?」


 昼休みの美術室で、僕はただオウム返ししかできない。

 体の芯が急速に冷え込む。

 脳の容器は沸騰し、頬と額が熱くなる。


「どういうこと……って、言われても」


 咲良は上目遣いで僕を窺う。困った様子で。

 ――待ってくれ。困っているのは僕だ。

 狼狽して、嫉妬して、落涙するのは、僕だ。


「――恋人交換スワップって、――キスまでするものなのかな?」


 ――だけどこれは自分で招いたこと。

 そんな風に、自分を見下ろし冷静に自嘲する自分もどこかにいた。


「わからないよ。だって、恋人交換スワップなんて、私が言い出したことじゃないもの。――だから相談しているんだよ? ねぇ、――誠大くん。私……、しちゃいけないこと、しちゃったかな? ――誠大くんの、恋人失格かな?」


 僕を見上げる咲良は、瞳を潤ませる。


「――それは……」 

「ごめんね、――誠大くん」


 やおら彼女は僕の肘へと右手を伸ばし、制服の端を掴んだ。

 そして、うなだれる。僕へと、すがるように。


 反射的にそれを振り払いかけた。

 だけど僕の理性がそれを止めた。

 その手を振り払うことは、決定的な離別を意味する気がしたから。

 物理的には小さなことでも、意味的には大きい。


「――咲良」

「私、……どうしたらいい?」


 美術室に差し込む陽光は、彼女の制服に光と影の境界を作る。

 お腹より下が暗くて、その胸の膨らみは明るく照らされている。

 僕の脳内には、これまでの咲良との時間が蘇ってくる。

 記憶は身体化され、その感触は五感を通して肉体の一部となっている。


「それは――」


 触れた胸の柔らかさ。

 ベッドの上で脱がして見えてくる白い肌。

 親指で押し上げるブラジャーの感覚。

 微かに開く唇に触れた感触。

 差し入れた舌で感じる、彼女自身の舌の蠢き。

 背中に回した手のひらで確かめる背中のくびれからお尻の隆起。

 初めて触れたお腹、腰、脚。

 その全てが吸い付くように滑らかだった。


 そして持ち上げた両足から、差し入れた自分自身を包み込んだ開放感。

 その全てが、初めてだった。


 初めての女友達はきっと、伊織だった。

 でも、僕にとって初めての女性は、咲良だった。

 咲良と恋人同士になれたことは幸せで、彼女との時間は快楽だった。


 伊東咲良が僕の肘を掴む手を、クイと引いた。


「――わからないよ。僕自身もさ。――恋人交換スワップなんて言い出したのは橘なんだ。――何がOKで、なにが駄目かなんて、――僕にだってちゃんとはわからない」

「そう……だよね。――ほら、恋人交換スワップを始める前の日の集まりでね、私、聞いたでしょ? どこませスルことが許されるのかって」


 そういえば聞いていたのは咲良だった。すっと右手を挙げて。

 恋人交換スワップの境界線。

 その時、橘が言ったのだ「いろいろなこと」を禁止しないと。


「ああ、聞いていたな。『それぞれがそれぞれの判断で対応すること』って、ことになったんだっけ?」

「うん。――だから橘くんは、橘くんの判断で――キスしたんだと思う。……あ、私は違うよ? そんなつもりなんて全然なかったから」

「――うん、わかるよ。それは疑っていない」


 本当か?

 本当に「そんなつもりなんて全然なかった」のか?

 じゃあ、どうして、家にあげた?

 『君の名は。』なんて並んで観た?

 寄り添う体を跳ね除けなかった?

 肩に回された手を振りほどかなかった?


 でもそれは、彼女の心の中のことで、僕には何もわからない。

 彼女の手首をそっと掴んで、彼女の手を僕の肘から外す。

 触れる肌。その感触は、やっぱり柔らかい。

 少し冷たい肌が、僕の手のひらに馴染んだ。


 その手を両手で握りしめて、彼女の瞳を見つめる。

 咲良はその繋がった部分に視線を落とす。少し驚いたように。

 やがて彼女ももう一方の手を重ねると、僕のことを見つめ返した。

 表情は少し和らいで、怯えながらも、安心したような微笑。


 それがまた、僕の腹の奥で、苛立ちを泡立たせる。

 橘に対する嫉妬か、咲良に対する執着心か。

 それとももっと高尚な何かか。


「でもやっぱり、ちょっとキスは嫌かな。――橘にもちょっと腹が立つ。――恋人交換スワップなんてしているけどさ。咲良は、もともと僕の彼女なんだよ。僕だけのものなんだよ」

「――だよね。――ごめんね。――うん、私は、誠大くんのものだし」


 申し訳なさそうに視線を落とす咲良。

 その口元は、でもどこか少し、嬉しそうだった。


「橘には、一言、言っておく。――あんまりそういうことしないでくれって」 

「だよね。――じゃあ、恋人交換スワップのルールって、どうなるのかな?」

「――そうだな。――どこかで線を引いた方がいいかもしれないけれど。――はっきりとどうするかはわからないな。それに二人じゃ決められない」

「四人で決めたことだもんね」


 恋人交換スワップでどこまで許されるのだろう。

 もちろん究極的には性行為だって、その中に含まれうるのだろう。

 もともとスワッピングとは、性交渉の相手の交換を指す言葉だ。


 朝、体育館裏で抱きしめた、伊織のことをふと思い出す。

 お正月にも、彼女の体を抱きしめた。ベッドの上でのハグ。

 柔らかくて温かくて、腕の中にある彼女の存在が何だか嬉しかった。


 伊織をまた抱きしめたいという思い。

 それが心の中に無いと言ったら嘘になる。

 その唇に触れたい?

 その服を脱がしたい?

 一枚のシーツに包まれたい?

 それらの問いへの答えは、多分YESなのだと思う。


 でもそもそもその欲望を持たない男子生徒なんて、いないだろう。

 それがただの性欲なのか、それもより深い感情なのか。

 ただの友愛であるのか、それとも恋愛であるのか。


「――誠大はやっていないよね? 伊織ちゃんと」

「あ、――うん」


 突然、尋ねられて、僕は一瞬、言葉に詰まった。

 その質問はキスについてのことだろう。ハグについてではない。


「――してないよ。――するわけないじゃないか。やっぱりキスは一線を超えるよ」

「そう……だよね。――ちょっと安心した。ごめんね」

「ううん。――仕方ないよ」


 自分がやったことは、きっと他人もやっている。――そういう思考。

 赤信号、みんなで渡れば怖くない。

 先生に「なんでそんなことやっていたんですか?」と聞かれて「川原くんもやっていたからです!」と終わりの会で答える。

 人間は模倣する生き物。ミラーニューロン。

 そうやって倫理的規範は緩やかに崩壊する。

 咲良の中でも。僕の中でも。


「それに、僕と伊織は、幼馴染だからさ。幼馴染って、もう恋愛とか、そういうのんじゃないって言うか、――腐れ縁? 枯れている関係? そんな感じ」

「言ってたよね。前から、伊織ちゃんは、そういう存在だって。――うん、ちょっと安心したかも」


 咲良は安心したように頬を緩めた。

 心の中を覗かれたら、それは嘘だと看過されるのかもしれない。

 でも心の中は覗けない。それは僕だけの真実。

 言葉にしなければ、行動にしなければ、わからない。

 聞かれなければ、見られなければ、わからない。


「――ねぇ、ルールを変更しようって、四人で相談する?」


 咲良が遠慮ぎみに、僕の表情を窺う。


「そうだなぁ。――咲良はどう思う?」


 自分の意見を言わないのは狡い、とは思う。


「私は、やっぱり、わからない。――誠大くんの考えに従うよ」


 従順な意思を示しながら、それでいて判断を委ね返す、狡さ。

 僕らは、似た者同士の、素敵なカップルなのかもしれない。


 だから僕は、伊東咲良に――キスをした。


「――もう、何なの突然」

「驚いた?」


 コクリと頷く。


「二人っきりの部屋だとしても、学校だよ? 誰かに見られたらどうするの? ――それに、私は今、遥輝くんの恋人なんだからね。これ、浮気だよ? 浮気?」

「わかった、わかった。――でも、困っている咲良のことを見ていると、何だかしたくなっちゃって」

「――もう」


 これは最早、雄としての本能、マーキングなんだと思う。


「どっちにしろ、一回、橘と話してみるよ。――恋人交換スワップとはいえ、咲良に勝手なことをされて、僕もちょっとオコだからね」


 おどけてみせると、咲良は口元に手を当てて「オコって」と笑った。

 ちょうどその時、授業開始五分前を告げる予鈴が鳴った。


「あ、授業、始まっちゃうね。――ありがとう、誠大くん。――正直に話せて良かった。――一人で抱え込むのも辛かったから」

「――どういたしまして。僕が『本当の彼氏』だってことは変わらないからさ。――当然だよ」


 僕らは美術室を後にする。

 外に出る前に廊下に誰もいないことを確認する。

 別にやましいことはしていないけれど、誰かに見られても面倒だから。


「じゃあ、またね。LINEする。――あ、『恋人』じゃないから、駄目かな」

「いいだろ、それは。恋人じゃなくて、女友達でも、LINEメッセージくらいは交換するもんだろ」

「――だよね。うん、――じゃあね。――誠大くん」


 手を振って、彼女は自分のクラス――二年A組の教室へと向かった。

 僕は、その背中を見送ってから、自分の教室――二年B組へと歩きだした。


 教室へ向かう廊下。

 ぎゅっと強く抱きしめて、愛の言葉を囁きながら。

 僕は、頭の中の妄想で、ずっと伊織にキスをしていた。


 *


 五時間目の授業中。机の中でスマホをいじる。


誠大

〉今日の放課後、時間ある? 恋人交換の関係で、少し聞きたいことがあるんだけど?


遥輝

〉OK。


〈OKの看板を出しているクマのスタンプ〉


 授業中なのに、LINEでリプはすぐに返ってきた。


 *


「――で、話ってなんだよ?」  


 食堂の自動販売機の前、橘が缶コーヒーをしゃがんで取りだした。

 カシッと音が鳴って、BOSSのプルタブが開く。


 放課後の食堂は、半分だけ蛍光灯の明かりがついている。

 少し薄暗くても、開放された放課後の食堂。

 生徒の姿はまばらだった。いつもどおりだけれど。


「ああ、恋人交換スワップのことなんだけどさ」


 自販機の近くに置かれたハイチェアに腰を掛けると、僕もペットボトルのキャップを開いた。

 温かい紅茶を喉に流し込んで、胸の動悸を抑える。


「――あぁ、始まってもうすぐ一週間。――いろいろあるよな。何かあったか?」


 橘自身は飄々としたものだ。

 僕は煮えくり返りそうなはらわたをミルクティーで抑える。

 意識して自分自身を落ち着かせると、努めて声をたいらにした。


「聞いたよ。昼休みに咲良から。――昨日のこと」


 隣に座った橘が、僕の方を振り返る。


「――昨日のこと?」

「咲良の家に行ったんだろ? 聞いたよ。『君の名は。』見たんだろ?」

「ああ、それな。――良い耳をお持ちで。その通りだよ。平日じゃなかなか一緒に見たりできないしさ。せっかくだし、名作は見てもらいたくってさ」


 何でも無いことのように、橘は返す。


「お前は『秒速5センチメートル』でも見せてたらいいんだよ」

「やだよ、あんな鬱アニメ」

「僕は好きだけどね」

「いや、個人的には、俺も好きだけどさ」


 なんだかんだで趣味は近かったりもする。

 橘と僕は男友達としては、そんなに悪い関係ではないのだ。

 だけど、映画は一緒に見れて、感想は分け合える。

 女の子はそうじゃない。恋人は――分け合えない。


「――いくら新海誠の映画が感動的で、ボーイミーツガールだからって、それを現実と混同してもらっちゃ困る、――かな?」

「……なんのことだよ?」

「聞いたよ。咲良から。――キスをしたんだって? 昨日。彼女に」


 問い詰めるように、僕は橘の目を見る。

 恋人交換スワップ期間だから糾弾はしない。

 でも、言うべきことを言うために、僕は友人に向き合う。


 ところが、返ってきたのは、予想外な言葉だった。


「――は? 川原、お前、何言ってんだよ?」


 橘は怪訝そうに、眉を寄せた。



 

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