第24話 恋人関係と穿くパンツ(学校・食堂)[2023/1/10 Tue]
「何って、お前、――咲良が、そういうことがあったって」
食堂のハイチェアに腰掛ける橘は、僕の問いかけにただ首を傾げた。
狼狽する様子も、取り繕う様子もない。
――あれ? おかしいぞ。どういうことだ?
こういうリアクションが返ってくるとは思っていなかった。
咲良が言っていた。昨日、自宅で橘にキスされたと。
だから僕はこうやって橘を放課後に呼び出したのだ。
僕から直接、苦言を呈するために。
「昨日、――咲良の家に行ったんだよな? 橘?」
「そう、咲良が言ったのか?」
「――ああ。今日の昼休みにそう言っていた」
「へー、川原、人の彼女と、昼休みにこっそり密会していたんだ?」
「――あのなぁ、橘。僕は冗談を言っているわけじゃないんだぞ?」
「別に、俺だって冗談を言っているつもりはないさ。普通に話しているだけさ。――咲良は、今、俺の彼女なんだろ? だから伊織はお前の彼女なんだろ?」
橘は腕を組んで、少しだけ目を細めた。
「――何が言いたい?」
「何が言いたいって、先週決めたことをそのまま言っているだけさ。恋人
肩を竦める。まるでそれが現実そのものであるかのように。
だけど確かにそれは、彼が定め、僕らが選んだ、世界線。
「大げさだな。タイムトラベルするSFアニメか何かか?」
「シュタインズゲートな。大げさなもんか。俺たちはあの日、普通じゃ考えられない選択をしたんだぜ。まるでパラレルワールドそのものじゃないか?」
交差する未来。交叉する生命。
「だからって、僕と咲良が昼休みに話しちゃいけないってことにはならないだろ? 友達だって、話くらいするさ」
「話くらい、――か? 本当に話だけだったのか? 川原?」
「……本当に、ああ、……話だけさ」
彼女の手を掴んで、抱き寄せて、キスをした。
暗がりの美術室で。
でもそれを橘に言う必要はないはずだ。
「――そうか。川原がそういうならそうなんだろうな。川原の現実は。それにしても、恋人
「そうだな。そりゃそうだろ」
「じゃあ、どこか人気のないところで話したのか? ――二人っきりの美術室とか」
「――どうしてわかった? 見ていたのか?」
驚いて橘の目を見る。見透かしたような瞳が僕を射ていた。
部屋の鍵は閉まっていなかった。
――隙間から覗かれていたのか?
しばらくの沈黙の後、男は口元を緩めた。
「なんで焦っているんだよ、川原。――単なるカマかけだよ。美術部員の咲良。喧しい昼休みに学校で二人っきりになれる静かな場所。それでいて真冬だから、中庭とか屋外は可能性低いだろ? まぁ、放課後なら食堂――こことかあるけれどな」
「――まぁ、そうか」
見事にやられてしまった。
スポーツ万能のリア充イケメンは頭の回転も早い。
本当に、橘遥輝という男は、高級物件である。
出世しない未来が見えない。
「焦っているってことは、――見られたら困ることでもしていたんじゃないか? 俺の彼女と、学校で、隠れて、二人っきりで」
「……してないよ」
「そうか? 俺はてっきり、恋人
念を押すような言葉。
細められた橘の双眸。
「――してない、よ」
「だよな。……それで、なんだったっけ? そもそもの話題って」
「あ、……ああ、昨日のことさ。咲良の家で、『君の名は。』を見て、その流れで咲良にキスをしたって」
「――ああ、そうそう、それな」
橘はストレッチするみたいに首を左右に揺らす。
それから缶コーヒーを一度傾けて、喉を潤した。
「彼女の家には行ったよ。山科のさ。山科だから、駅から降りてからのアクセスがどんなもんかと思ったけれど、意外と近くてびっくりしたよ」
「――ああ、そうだな」
その具体的な話が、なんだか自分の領域を侵されているみたいに感じる。
二人の関係が侵されているみたいで。咲良が――犯されているみたいで。
「この前、王将の時、話していたじゃん? 新海誠の過去作を咲良に見せたいって。おうちデートしようぜって」
「――言ってたな」
その時点で、嫉妬心と焦燥感しかなかった。
だからそれが少しでも先送りされることを祈ったのに。橘の行動力。
「今日から学校、始まっちゃうじゃん。始まったらもう、次の土日までしかないからさ。――分かってる、川原? 恋人
「――そうか。――そうだな」
普通の恋人関係はいつか終わるかもしれないけれど、それは決まっていない。
幼馴染関係なんて、終わらないことが当たり前だ。
それに比べて、この恋人
その時間の大切さを、僕はちゃんと考えていただろうか。
南伊織の笑顔が、脳内に浮かんだ。
「だからまぁ、ちょっと急だったけれど、誘ったわけ。俺の家でも良かったんだけどさ。咲良がむしろ、いきなり男性の家に来るってことに抵抗感があるみたいだったから、彼女の家に行ったんだよ。しかも、自分の部屋には入れないって条件つきで」
「――そうだったんだ」
咲良はちゃんと抵抗を示していたみたいだ。
そのことが微かな救いだった。
「それでなんで『君の名は。』なんだよ? 僕があんなに『秒速5センチメートル』を勧めておいたのに」
「お前、それ、単なる嫌がらせだろ? ていうか真面目な話、初心者には最近のやつから入った方がいいだろ? まずは新海誠を好きになってもらわないといけないんだから」
「――間違いない。――そして確かに『君の名は。』は手堅い」
「だろ?」
なぜか新海誠の布教話になっていたけれど、僕は話を戻す。
なお、見よう『秒速5センチメートル』。
「それで? もとの嫌疑に戻っていいか? 咲良が言っていたんだよ。『君の名は。』を観た後で、橘にキスをされたって。――それは、本当なのか? 違うのか?」
ペットボトルを握る手に力が入る。
漫画なら「偶然、唇がぶつかっただっけなんだ」なんてことがあるのかもしれない。
だけど、体を寄せて、肩に手を回して、唇が重ねられるた。
その全てが偶然なんてことは、ありえないだろう。
そして咲良がそんな嘘を僕に言うメリットがわからない。
僕に嫉妬させようとして?
いや、咲良はそういう狡猾なタイプじゃない。
「――なぁ、川原。――ここで俺はその問いに答えるべきだと思うか? そして答えたとして、お前はそれを信じるのか?」
「なんだ、橘。――ごまかすのか?」
問いかけると、橘はゆっくりと首を左右に振った。
「ごまかしなんかじゃないさ。むしろ本質的なことを言っているつもりさ。――なぁ、川原。お前は彼女や別の女の子と二人っきりの時に何をしていたのか、誰かに話すのか? 彼女を抱きしめていたこと、キスしていたこと、セックスしていたこと。それを友人から問われたら全部あけっぴろげに話すのか?」
「――それは。――しないけど。――でも咲良は」
「じゃあ、川原。――お前は今朝、伊織と体育館裏にいたよな? その時に何をしていた? 何を話していた? 伊織の体には一切触れていないのか?」
橘の目が僕を真っ直ぐに見つめる。
全ての嘘を見抜くみたいな目だ。
「……見ていたのか?」
「直接は見ていないさ。体育館裏から伊織が出てきたと思ったら、そのしばらく後に川原が出てきたから『ああ』って思っただけさ」
「――そうか」
「それで、何を『見られていた』と思ったんだい?」
「何も、――ないさ」
「そう? 何も無いんだな? ――絶対に?」
「――ああ」
「もし何かしていたら、それと同等以上のことを俺が咲良にすることを、川原は認める。――そんな約束はできるか?」
「なんで、そんな約束……」
「できるか?」
「――ああ、構わないよ」
体育館裏で伊織を抱きしめた。
でもそれは突然に現れた蜂から庇ってのこと。
確かに心の中ではそれ以上のことを思っていた。
だけど心の中は覗けない。
聞かれていなければ、見られていなければ変わらない。
「それで、橘は、それでも、昨日、咲良に『キスはしていない』って言うんだな?」
「ああ、そうだな。俺は昨日、伊東咲良に『キスはしていない』。――川原も今日、美術室で、間違っても咲良に『キスはしていない』んだろ?」
「――ああ、そうだな」
僕は、自分自身に確認するみたいに、ゆっくりと頷いた。
「――じゃあ、俺も一緒さ」
橘遥輝はにこやかに微笑んだ。微かに白い歯を見せて。
*
恋人関係。その契約関係自体は、外部に語られるものである。
一方で、恋人同士が二人で何をしているかということは、通常秘匿される。
それは裸であることを恥じらい、性行為を隠すことと考える人類の性質による。
きれいな服装に身を包み、身だしなみを整えること。
他所行きの
恋人同士の間に生じる痴態を、あけすけに語らないこと。
これらは全て人間という存在の同じ性質を表しているのだろう。
『パンツをはいたサル』
そんな題名で、人間の本質に迫った書籍もある。
僕らはパンツをはいているのだ。
――恋人
つまり、それはただ恋人を交換するという事態にはとどまらないみたいだ。
恋人関係を交換すること。
それはその秘匿性自体を、交換することを意味するのかもしれない。
そんなことに、今更ながら、気づいた。
橘が咲良に何をしようが、僕は知ることができない。
僕が伊織に何をしようが、橘は知ることができない。
*
さくら
〉 昼休みはごめんね、誠大くん。あの時、言ったこと、無かったことにしてもらえたりしないかな?
誠大
〉いいけど。どうして?
〉あと具体的には「どの部分」とかある?
さくら
〉ありがとう。助かります。
〉えっと、映画を見たあとに、橘くんがしたって、私が言ったところ?
誠大
〉なんかあった?
〉ていうか、言っていたことは、本当にあったこと? 本当はなかったこと? 答えられなかったら、それでもいいけれど。
既読がついてから、しばらく待ち時間があった。
まるでLINEの向こう側で、誰かと相談しているみたいに。
さくら
〉本当はなかったこと。
〉私がそういう風に言ったら、誠大くんがヤキモチ焼いてくれるかなって……。ごめんね。もう絶対にしないから、ごめんなさい。遥輝くんにも怒られちゃった。
怒られたのは、さくらが僕にヤキモチを焼かせようと嘘をついたからか?
それとも、僕に「本当のこと」を言ったからか?
誠大
〉わかったよ。
〉恋人
さくら
〉うん。学校始まって、なんだかドキドキしちゃうね。じゃあ、また明日。
誠大
〉はーい
*
校門を出て、JR京都駅経由で、自宅への帰路につく。
JR山陰線のプラットホームへとたどり着くと、向こう側に見知った姿を見つけた。
同じ学校の制服姿。
ボブヘアの彼女。
――今は僕の彼女。
「おっす、伊織。――今、帰り?」
鞄をぶら下げた少女が振り返った。紺のスカートが揺れる。
「あ、誠大。偶然〜。そうだよ、今日はまっすぐ帰宅。――一緒に帰る?」
僕の顔を覗き込むみたいに首を傾げた彼女に、僕は「そうだな」と頷いた。
「行きは家に誘いに来てくれたのに、一緒に登校できなかったもんな」
「ホントだよ〜。だから帰りは一緒に帰りますか? 恋人同士らしく」
彼女の隣に並んで、列車を待つ。
彼女の無垢な横顔が、僕を惹き付けた。
その向こうから、僕らの乗る電車がやってきた。
僕はパンツを穿いている。
――僕が伊織に何をしようが、橘は知ることができない。
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