第25話 二人の電車と夜の街(京都・JR山陰線)[2023/1/10 Tue]

 流れていく夜の京都を、僕は電車の中から眺める。

 進行方向に向かって、二人で並んで座る。


 窓側に伊織が座って、通路側に僕。

 京都駅を発進した車両は、すぐに梅小路京都西駅へと到着する。

 丹波口駅と京都駅の間にできた比較的新しい駅。


 梅小路公園や水族館以外には特に降りる用事も無い駅だ。

 そういえば伊織とデートで水族館にでも行ったら? とか言われたっけ?


「――何見ているの?」

「いや、伊織の顔見ているわけじゃあないからな?」

「知っているわよ。なんで誠大が私の顔をまじまじと見ていると思うのよ?」


 疑問形で否定された。

 でも僕だって伊織の顔を見ていたい時は、あるんだよ?


「なんとなく、ボケーっと外を見ていただけだよ」

「そう? ――ならいいけど?」


 伊織はそう言ってから、両手で持つスマートフォンに視線を戻した。


 発車の警告音が鳴ってから、乗降口の扉が閉まる。

 やがて明るい駅構内を抜けて、車両はまた京都の暗闇へと進入する。


 京都の街には景観条例があって、高さ制限があるから、高層ビルはない。

 だから京都の街の夜は静かだ。東京や大阪に比べると。昏くて、静か。


「――あ、そういえば」

「何?」


 伊織がスマートフォンから顔を上げる。

 何かを思い出したみたいに。

 なんだか唇と尖らせている。


「昼休みのあれ何なの? ちょっとマジで困ったんだけど。――澪に言ったこと」

「澪? ――ああ、篠崎さんね。何だっけ?」

「何だっけじゃないわよ。無茶振りするだけして、自分はすぐにいなくなっちゃうし。咲良ちゃんに呼ばれてさ〜」


 そこまで言われて、思い出した。

 ていうか、普通に忘れていた。

 咲良と橘のことが衝撃的すぎたから。

 昼休み、キラーパスを出したのだった。

 咲良に呼ばれて、教室を去る前に。

 たしか内容は――


「何が『伊織。冬休みの間に橘と何かあったって言ってなかったっけ?』――よ」


 伊織は眉間に皺を寄せながら僕の物真似をする。

 多分、似ていない。僕はそんなキャラじゃないから。

 ――なんだよその「キリッ」は。


「それでどう切り抜けたのさ?」


 努めて飄々とした雰囲気で返すと、伊織はスマートフォンを下ろした。

 溜息を吐いて。鞄の上に押し付けるみたいにしながら。 


「『恋人交換スワップ』のことは言っていないわよ? 遥輝や咲良ちゃんにも影響が出ちゃうし、――誠大にもね」

「――そりゃどうも。それでどこまで話したの?」


 もし伊織が何か特別なことを話していたら、明日から僕もそれに合わせないといけないのだ。

 

 恋人交換スワップの四人の中で、同じB組なのは僕と伊織と橘だ。

 橘はきっと卒なくごまかし続けるだろう。


 もしかすると、橘のことだから、突然、予想外の行動を取る可能性もある。

 でもそれは「予想外」だから、今から心配していても仕方ないのだと思う。


 だから、どちらかというと立場の近い僕と伊織の二人は少なくとも口裏を合わせていかないといけないだろう。――そもそも僕たちは一時的にとはいえ、恋人同士でもあるのだから。


「えっとね。しどろもどろになったから、すでにメッチャ怪しまれている気もするんだけど、――基本的には、『冷却期間を置いている』って感じで説明できたかな?」

「冷却期間? なにそれ?」

「だから私と遥輝がちょっとした喧嘩を冬休み中にして、『一旦距離を置こう』みたいになったとかなんとか、……そんな感じ?」

「なるほど。――でも、それって結構、切実にも聞こえるよね?」


 そんな話を聞いたら「あ、聞いたらアカンやつでは?」と思うまである気がする。


「うん。澪も、なんとも言えないって顔をしていた」

「――篠崎ってば、とばっちり。ご愁傷さま」

「仕方ないじゃん。――大体、誠大が変なこと言ってくるのが悪いんだからね?」

「ていうかそもそも橘だろ? こんな恋人交換スワップなんて言い出して。――おたくの元彼氏さんですが?」

「元彼氏いうなし。誠大、彼氏面、ひどい」

「え? だって僕、伊織の彼氏だし」


 冗談ぽく左手を伊織の肩へと回すと、左手の甲で跳ね除けられた。

 実はちょっとだけ思い切って伸ばした手だったのだけれど。


「はいはい。彼氏ごっこね。彼氏ごっこ」

「ごっこじゃないんじゃね? 恋人交換スワップだし」

「でも、誠大は誠大だし」

「――でも、橘と咲良は……」


 ――肩を抱いて、引き寄せて、キスまでしているんだぜ?

 僕は、そんなことを言いかけて、――止めた。


「――何?」


 伊織は多分まだ、それを知らない。


 自分の本当の彼氏が、他の女の子に口吻したことを。

 していないかもしれないけれど。僕はやっぱりしたのだと思う。

 ただ、真実は藪の中だ。恋人交換スワップは真実を僕らから隠蔽する。

 橘が咲良に何をしようが、僕は知ることができない。

 もしかしたら、キスでは終わらなかった可能性だってゼロじゃない。  


 それを知ったら、伊織はどうするのだろう? どう思うのだろう?

 何も感じない、――なんてことはないだろう。

 伊織はちゃんと橘の彼女だったのだ。ちゃんと。


 悲しむのだろうか?

 嫉妬心を掻き立てられるのだろうか?


 伊織のそんな表情を、僕は見たくはなかった。

「悲しませたくない」とかそんな気障で、浅薄な、理由じゃない。


 心を痛めるほど橘のことを想う南伊織を、僕が見たくなかったのだ。

 その痛みが彼女の心を、またあいつに向かわせそうで嫌だった。

 ――それは僕の望む世界線ではないのだから。


「なんでもないよ。向こうは向こうで何かやっているんですかね?」

「さあ、知らない。――遥輝、本当に、先週のスワップ開始から、LINEのメッセージもガクンと減ったし」

「そうなんだ」


 正直なところ橘と伊織の関係が続いている可能性も否定しきれなかった。

 恋人交換スワップと言いながら。

 でも、もしそうなら僕は彼女を寝取られただけの道化になる。

 どうやらそれはなさそうだ。ちょっと胸を撫で下ろす。


 もちろん伊織が嘘をついている可能性も無くはない。

 でも伊織の言葉は、僕には嘘に聞こえなかった。

 彼女のことはずっと昔から知っているから。

 伊織は嘘をつくのが、とても下手な女の子なのだ。


「――やっぱり、不満? 本当の彼氏から連絡が減るとさ?」

「う〜ん。私たちの関係って、そんなにベッタリってタイプでもなかったしね。そんなに不満とかはないかな? なんだかちょっと変な感じではあるけど」


 そういえば僕も恋人交換スワップが始まったタイミングでは、無意識に咲良からのLINEメッセージを確認しては、手を止めていた。

 人との付き合いは、習慣を形成して、日常の一部、僕ら自体になるのだ。


「――咲良に嫉妬とかは?」

「うーん。特に感じないんだよね。――変かもしれないけど」

「そうなんだ」

「咲良ちゃんのことを信用しているっていうのもあるかも? あの子、真面目だし。――ちゃんと誠大のこと、好きでしょ?」

「――そうだな」


 二人がキスをしたなんて、言えないな。伊織には、まだ。


「誠大はどう? 不安だったりする? 遥輝に嫉妬したり?」

「うーん。まぁ、同じような感じかな。一応、僕も、咲良のことは信じているし」


 本当は嫉妬している。今すぐにでも咲良を奪い返したい。

 ベッドの上に押し倒して、めちゃくちゃにしたい。

 首筋にキスマークをつけて、どこにも行かせないと抱きしめたい。


「だよね。咲良ちゃんと誠大もいいカップルだもんなぁ。――羨ましい」

「――羨ましいって? そっちは学年一番の名物カップルだろ? お似合いランキング第一位に言われてもなぁ?」

「あははは。言われるよね、それ。入学したころからずっと。――別にそんなにいいもんじゃないのにさ」


 伊織はそう言うとスマートフォンを鞄のポケットに仕舞い、小さく伸びをした。

 膨らんだ胸が、制服を少しだけ押し上げる。

 それから肘を突いて、窓の外へと顔を向けた。


 電車は丹波口駅に到着していた。

 暗がりの中に、青果市場の駐車場が見える。

 窓ガラスに反射した、伊織の顔。

 ちょっと寂し気な表情。

 目が合った気がした。


「私たちだって、普通のカップルだし。それにもう長いし。いろいろ難しいこともあるよ?」

「――難しいこと? ――どんなこと?」


 伊織は肘を突いたまま振り返らない。少しばかりの沈黙。


「この、恋人交換スワップ――とか?」


 彼女は振り返り、悪戯っぽく笑った。

 ふわりと揺れたボブヘアから、良い香りがする。

 僕は何か誤魔化されたような気がした。


「――なるほど。それは難しい」

「でしょ?」


 電車はガタンゴトンと揺れる。

 つり革を握って立っている大人たち。

 ほとんどみんながマスクをしてスマホを見ている。


「確かに、伊織と橘、長いよな? ――もう三年くらい?」

「そのくらいになるかなぁ。始まりがどこから数えたものかな? っていうのもあるけど」

「そりゃ、告白だろ? 橘からの? 無かったの?」

「あー、あったけどねー。『今更?』って感じだったし」


 懐かしそうに彼女は目を細めた。

 三年前、伊織と橘が付き合い始めた時のことはよく覚えていない。

 父親が死んで、なんだかもう色々どうでも良くなっていた時期。

 引きこもったり、学校に行っても誰とも口を聞かなかったり。

 だから伊織のことも、見えなくなっていた。


 気づいた時には、ずっと仲良しだった幼馴染の隣には、イケメンが立っていた。


「あれって、伊織からだったんだっけ? 橘からだったんだっけ?」

「今更、このタイミングで掘り返す? 恥ずかしいなぁ。それに何だか微妙。恋人交換スワップ中にこういう話するのって」

「まぁ、いいじゃん。――減るもんじゃないし」

「なんか、そのセリフ、オジサンみたいだよ? ――でもまぁ、遥輝からかな?」

「――そっか。――どう思ったの? 中学二年生には彼氏なんて早いって思った?」

「何よそれ? 私、別にそんなにお堅くもないわよ? 別に、恋に恋する女の子ってわけでも無かったけれど」

「――知ってる」


 だから僕は油断していたのかもしれない。

 自分の視界から消えていても、伊織は伊織で、いつも僕の近くにいるって。

 家族の延長線上のような存在だと、勝手に思い込んでいたんだと思う。


「もちろん、嬉しかったよ。だって誰かが自分のこと『好きだ』って言ってくれるなんて、――嬉しいことだよ。――やっぱり」

「――そっか」


 歴史は変わっていたのだろうか?

 もし僕が橘より先に、伊織に告白していたら。「好きだ」って言っていたら。


 伊織の恋人は僕だっただろうか?

 恋人交換スワップなんてしなくても。嘘を重ねなくても。


 もし、父親が死んでいなかったら?


 人生なんて、「もし」の繰り返しだ。

 世界線は分岐する。だけどタイムマシンもシュタインズゲートもここには無い。


「それになんてったって、橘遥輝だしね」

「それはある。頭脳明晰、容姿端麗、文武両道。中学きっての『優良物件』」

「なにそれ? 『優良物件』って?」

「彼方が言ってた。橘は『優良物件』なんだって」

「なにそれ? 面白いね、宮下さん。じゃあ、誠大は?」

「『掘り出し物件』だってさ」

 

 僕がそう言うと、伊織は「ふふふ」と小さく吹き出した。

 両手で口元を覆うと、僕の方を向いた。覗き込むみたいに。


「宮下さん分かってるじゃない。――彼女、面白いんだね」

「ああ。彼方はいい奴だよ。――だから伊織も仲良くしてやってくれよ。――二人の間がどこかギスギスしているのは、なんだか僕も落ち着かん」

「あれは、……宮下さんが、すごく警戒するから。……ううん、そうだね。……わかった。ちょっと気をつけてみる」

「――ああ、頼むよ」


 電車はやがて駅へと停車する。

 僕が家族で映画を見に行った場所。

 橘と咲良が二人で『すずめの戸締まり』を見に来た場所。


 咲良はあいつに新海誠を教えられ、山科の自宅でキスされた。

『君の名は。』で泣いた。――ボーイミーツガール。

 そのボーイは、僕じゃなかったのかな? ――咲良。


「橘と付き合うのって大変じゃない? 女子人気、すごいんだろ? 嫌がらせとか」


 再び動き出した電車の中。座席の肘掛けに頬杖をつく。


「そんなの無い……って言いたいけどね。――あるよ。誠大は知らない世界かもしれないけれど、女子の世界は、なかなかなんだよ〜」

「なんとなくは耳に入ってくるよ。なんとなくだけどね。――花京院かきょういん眞姫那まきなとか?」

「……ああ、眞姫那まきなちゃんね」


 そう言って、伊織は苦笑いを浮かべた。


 ウェーブのかかった栗毛色の長い髪を背中まで伸ばす高慢なお嬢様。

 学年の中でも目立った派手な彼女。花京院眞姫那。その顔を思い浮かべた。


 高校二年になってクラスが変わってから、ちょっかいを出してくる頻度は減った。

 それでも折に触れて、橘と伊織の間に割り込もうとしてくるのだ。


 ――それにしても何度口にしてもすごい名前だよな。花京院眞姫那。


「花京院はなんであそこまで橘に入れ込むんだろうな?」

「眞姫那ちゃんも、悪い子じゃないんだけどね。恋は盲目、なのかなぁ」


 そんなことを言いながら、流石の伊織も面倒くさそうな顔だ。

 この伊織の表情が全てを物語っているけれど、去年一年だけでも色々あった。

 入学式の日に橘に一目惚れした。そう言う彼女の、入れ込みようは凄い。


 伊織がいるのに、自分こそが橘遥輝にふさわしいと、アタックをやめないのだ。

 花京院があからさまな行動を取るから、他の女子も追従している面がある。

 花京院の行動が「彼女がいても橘くんへのアタックはアリ!」みたいな空気を作っているのかもしれない。


 伊織はしばしば、そんな面倒な女子たちの矢面に立たされているのだ。

 

「橘も、もっとはっきり言えばいいのにな。伊織以外に興味ないって」

「うん。でも、遥輝は遥輝でちゃんと言うときには言ってくれているんだよ。眞姫那ちゃんたちが聞く耳を持たないだけで――」

「そっか。でも、まぁ、そんな橘が恋人交換スワップとか言い出してたんじゃ、――説得力ないよな」

「あはは。――それはそうだよね」


 電車は円町駅に停車する。

 褐色の特徴的な制服シャツを着た男子生徒たちが乗り込んできた。

 北野白梅町にある有名進学校の制服だ。


「でもまぁ、それなら、恋人交換スワップ期間は、伊織にとっては橘の恋人として防衛戦線に立たなきゃいけない仕事から短期間解放される期間でもあるんだ?」

「まぁ、そうだといいんだけどね」


 伊織はちょっと苦笑いを浮かべた。

 きっとそうシンプルには行かないのだろう。複雑な女子の世界は。


「僕はめちゃくちゃ防衛するの簡単だからな? 誰も攻めて来ないし」

「なんてったって、『掘り出し物件』だもんね!」


 そういって伊織は可笑しそうに笑った。


 僕の隣に伊織がいる。こうやって二人で電車で下校する。

 こんな時間はいつぶりだろうか。

 本当なら高校に入学したときから、ずっとこうでもおかしくなかった。

 それが、あるべき世界線だったって気さえする。

 

 丸太町通りと平行して走る、電車。

 見える景色は徐々に小学生の時代から見慣れた景色に変わっていく。


 二人の電車が、二人を、二人が住む街へと運ぶ。

 父親が死んだこの街だけど、まだ君がいる。

 これまで君と生きてきた街は、これからも君と生きていく街でいい。

 そんな京都の片隅で――


 やがて電車はJR花園駅へと到着する。


「――降りるよ、誠大」

「おう、行くか」


 僕は座席から立ち上がる。 

 君とプラットホームへと足を踏み出す。

 南伊織が振り返る。その瞳に、僕が映る。


 ――ずっと好きだった幼馴染と僕はまた恋を始める。


 改札を抜け、僕らは一緒に、夜道を歩き始めた。



 *



 ◆◆◆◆

 〉では、あなたにこれを送りましょう。約束は守ってくださいね。


 ◇◇◇

 〉分かっているわよ。私が約束を破る女だと思って?


 ◆◆◆◆

 〉疑っているわけではないの。ただこれは、大切なことなの。わかるでしょ?


 ◇◇◇

 〉もちろん。それに今更よね?


 ◆◆◆◆

 〉そうですね。あなたが私を裏切れるわけがないのですから。


 ◇◇◇

 〉ええ。人の背中にナイフを突き立てて脅迫しながら、よく言うわ。


 ◆◆◆◆

 〉言い過でしょう? 私はどちらでもいいですが。写真は見れましたか?


 ◇◇◇

 〉これは、素敵ね。久しぶりに、興奮しちゃった。今夜、興奮して寝られないかも。


 ◆◆◆◆

 〉お気に召したようで何より。それで、あなたはいつ動き出すのですか?


 ◇◇◇

 〉明日からと言いたいところだけど、もう今夜からヤッちゃうかも。


 ◆◆◆◆

 〉じゃあ、明日、学校は、大騒ぎになりそうですね。


 ◇◇◇

 〉ええ。感謝するわ。あなたに神のご加護があらんことを。


 ◆◆◆◆

 〉きっと、あなたを聖なる光が照らすでしょう。おやすみなさい。


 ◇◇◇

 〉おやすみなさい。


―――――――――――――――――――

 To be continued. ――第Ⅱ部へと続く。

―――――――――――――――――――

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