第27話 抱擁する写真と震撼する教室(学校・教室/食堂)[2023/1/11 Wed]
篠崎が差し出すスマートフォンには、抱き合う僕と伊織が写っている。
あの時、立ち去る伊織の右手首を掴まえた。聞きたい事があって。
その直後にちょうど蜂が飛んできて、驚いた伊織が僕にしがみついたのだ。
「――澪、……これは、
困ったように、両手で篠崎のスマートフォンを押さえる伊織。
助けを求めるような視線が僕へと動く。
僕の脳神経系は緊張感を増す。周囲の視線を肌で感じる。
みんなこちらへは近づいて来ないが、そっと聞き耳を立てている。
ちらりちらりと視線がこっちに来ている。
「――ねぇ、だよね? 誠大?」
いつも気丈な幼馴染。どこかその声は怯えているようで。
僕という男に縋っているようで。――でもそれは今、不味い。
――それは今、悪手なんだ。伊織。
僕を頼るような、その態度が周囲の誤解を更に増幅しかねない。
僕は右手を伸ばすと、篠崎のスマートフォンを素早く取り上げた。
「――ああ、これはちょっとした事故でだな、全然、抱き合ったりしてないぞ。近くに立っているだけ。――見てみろよ。明らかにわざと『そう見せようとする構図』じゃないか。こんなのツイッターのデマみたいなもんだよ。騙されるなよ、篠崎」
「そうなの? そうかなぁ、めっちゃそれっぽいけど」
「――最近はAIでの写真加工とか、いくらでもあるからなぁ」
口からでまかせで適当なことを言う。
篠崎澪は、「うーん、そうかなぁ」と言いながら、スマホを迅速に取り返した。
僕の手から。「勝手に取らないで」と目で僕を非難しながら。
そんな二人から視線をそらし、教室の前方を見る。
教卓の斜め前の席に、こちらに背を向けて、あいつが座っている。
橘遥輝。恋人
今の会話だって聞こえているはずだ。それなのに振り返ることすらない。
立ち上がってこちらに誤解を解きに来るのが普通だろうに。
「でもほんと、今朝、この写真を見たときは、伊織がマジで橘くんと別れちゃったのかと思ったよ! だって、昨日、『冷却期間』とか言ってたし。――まさか、川原くんに乗り換え? ――みたいな?」
「――澪、知ってるでしょ? 誠大には咲良ちゃんっていうめっちゃちゃんとした彼女がいるんだから。そんな疑惑は誠大にも迷惑だよ。――ねぇ?」
「え? ――ああ」
なんとなく刺激反応的に答えてから。その迷惑さを心の中で咀嚼した。
苦味と甘味が半々だった。
やおら、嫌な予感がして、また橘の背中に目を遣る。
今の伊織の返答は、橘的に大丈夫だっただろうか?
恋人
だから今の伊織の発言は、それに違反するもののようにも思われた。
もちろんそこまで厳密なルールを僕たちは認めあったわけじゃない。
でも橘は自分のルールを持つ男なのだ。――何を言い出すかわからない。
不穏な背中は、動かなかった。橘遥輝は、頬杖をついて誰かと話している。
机の上に教科書やノートを開いて、授業開始を待ちながら。
でもどうしてだか、その意識は、こちらを向いている気がした。
「――そっか。伊織が違うって言うなら、私はそれを信じるだけだね。私はもう追求しないし、他の子が何か言ってきてもブロックしてあげるね!」
「ありがとう〜。澪」
「いいってことよ!」
篠崎さん。いい奴っぽい。――知ってたけど。
伊織の友達の中でも、篠崎さんは素朴で良い子だ。僕の苦手なタイプではない。
学校で生きる生徒たちは多かれ少なかれ群れを作る。
伊織の友人には、その意味で、大きく分けて二つのタイプがあった。
一つが篠崎さんみたいな、そもそも伊織と気が合うから付き合っているタイプ。
だいたい素朴でいい子が多い。
もう一つが橘の取り巻きの男子や橘に引き寄せられる女子たち。
こちらは僕的にはやりにくい相手が多い。女子は少し派手で、男子はパリピ。
腹に一物持っているようなタイプも多いのだ。
「――でも、何かあったら、遠慮なく言ってね。――ちょっと何かあるんだろうなってことは、私でもわかるから」
「うん。――ありがと」
伊織はそう言って、頷いた。心を許した笑顔で。
やがて先生が教室に入ってくると、篠崎はいそいそと自席へ帰っていった。
隣に座るの幼馴染の横顔を眺める。
彼女は俯いて、自分のスマホに視線を落としている。
横顔から窺える彼女の表情は、どこか真顔で、どこか辛そう。
ショックだったのだろう。混乱しているのだろう。
篠崎の言葉が本当なら、すでに学年中に出回っているのだ。
伊織と僕の逢い引き写真が。まるで浮気の現場みたいな写真が。
篠崎の疑惑に関しては、僕が煙に巻くことができた。
でもそんなのは篠崎が好意的だから、丸く収まっただけだ。
学年の他の女子や男子が、この写真にどう反応するのかは、わからない。
噂は勝手に広がる。噂は勝手に成長する。
写真の絵面が伝えるのは、僕と伊織が逢引きをしていたということ。
橘の彼女である伊織が、僕と浮気していたってこと。
僕は構わない。特にクラスにおいて尊重される立場があるわけでもない。
中学時代でボッチだって慣れている。
――でも伊織は違う。
あの橘の不動の彼女として築いてきた立場があるのだ。
それに依存して構築された人間関係があるのだ。
「――何? もう授業はじまるよ? 誠大」
「――ああ、そうだな」
首を傾けた伊織と目があった。
いつも以上の笑顔を作る幼馴染。
それはきっと彼女の努力の賜物。
その脳内では今、様々な可能性が想像されているのだろう。不安として。
間違えば、学校での彼女の地位は、崩れ去る。
――僕には何ができるのだろうか?
*
「――橘は見たのか? あの写真」
「見てないわけないだろ?」
二時間目が終わり、短い休憩時間に、僕は橘を教室の外へと連れ出した。
昨日も二人で話した、食堂の自販機前。
この時間も人は少ない。放課後みたいに誰もいないわけじゃないけれど。
一時間目と二時間目の間は、外に出る時間がほとんど無かった。
二時間目の授業が早めに終わったので、5分ほど教室を離脱することにした。
「昨夜から、ご丁寧に何人もの女の子が俺にLINEで送ってきてくれていたよ」
「相変わらずモテるんだな」
「まあ、いつもそうだから、それが特別だとも思わないけどね」
橘は冗談っぽく肩を竦めた。
こいつが言うと本気なのか、冗談なのかわからない。
とはいえ実際そうなのだから、本当にそう思っていたとして不思議はない。
「――咲良は見ているのかな?」
「さあ、どうだろうね。やっぱり見られたくないのか?」
「――そりゃそうだろう。誤解だとは言ってもさ」
「――誤解、ね」
「ん。ああ。――あれはさ、蜂が飛んできたんだ。――それで伊織が驚いて僕に飛びついたんだ。橘も、三年間、彼氏やっていたら知っているんだろ? 伊織が、蜂、苦手だって」
「それは、知っているけどさ。……誠大はそのお前の説明を、俺がなんの疑念もなく信じると思うのか?」
「――え? ……それは」
僕が伊織に何をしようが、橘は知ることができない。
橘が咲良に何をしようが、僕は知ることができない。
だからいつも――
「――真実は藪の中。お前の言葉は受け取るさ。――ただ俺だって、他の人間と一緒さ。――お前の心の中は覗けない。伊織の心の中だって同じ。仲の良い幼馴染。恋人
「……橘」
それはあらためて考えれば正論だった。
疑惑を晴らすのは、証拠、証言。
でもあの時、僕らは二人きりだった。
だからそんなものはない。
ただあるのは一枚の写真。性的な抱擁を印象づける写真。
ふと思い出す。
昨日の朝、体育館裏で伊織が、誰かの視線を感じたと言っていた。
あれがこの写真を撮った本人だったのかもしれない。
「それに誠大。お前、覚えているか? 昨日、自分が言った言葉を。――俺に言った言葉を?」
「――言った言葉……?」
橘の黒眼に射抜かれて、気づく。
それを思い出す。そして、――慄然とする。
脳内で昨日の会話をなぞった。それはこういうものだった。
『じゃあ、川原。――お前は今朝、伊織と体育館裏にいたよな? その時に何をしていた? 何を話していた? 伊織の体には一切触れていないのか?』
『何も、――ないさ』
『そう? 何も無いんだな? ――絶対に?』
『ああ』
『もし何かしていたら、それと同等以上のことを俺が咲良にすることを、川原は認める。――そんな約束はできるか?』
『――ああ、構わないよ』
そんなことを約束してしまっていた。
「でも、――あれは事故で!」
「事故だったら、昨日、そう説明すれば良かったじゃないか? ――隠したのは、何かやましいことがあったからじゃないのか!?」
「――そんなこと」
抵抗する僕に、橘は半歩詰め寄った。
「誠大。もしかしたら勘違いしているかもしれないけれど、俺だって伊織のことは大切に思っている。――お前が咲良を大切に思う程度にはな」
「わかって……いるよ」
でも、じゃあなんで、恋人
「――だから俺は、アレと同等以上のことを咲良にする」
「な……」
――ちょっと待てよ。
その「アレ」って何だ?
橘。お前は、どこまでを考えているんだ?
「待ってくれよ。だから誤解だって!」
「じゃあ、誤解を晴らしてみろよ、誠大。――万が一、誤解だってことを本当に証明できたら、俺はそこで止まる」
「――わかった」
僕はただ、その条件を受け入れることしかできなかった。
写真の中の伊織と僕はまるで恋人みたいに抱き合っていた。
その『アレ以上』なのだ。
咲良を抱く、橘をイメージして、僕の脳は麻痺するみたいな傷みを覚えた。
どうすれば誤解だって、証明できる?
*
昼休みに至るまで、2年B組の教室は、微妙な緊張感を保っていた。
ただ緊張感はあるものの、それでも平穏を維持していた。
休憩時間の度に、ひそひそ話と共に、幾ばくかの視線が南伊織へと突き刺さった。
伊織はただ健気にそんな視線をやり過ごし続けた。
なお僕に特段の視線は刺さっていないように思う。
凡人のゴシップになんぞ、興味はないのであろう。
いずれにせよ、特大ゴシップ情報が出回った後でもクラス内は平穏を保てている。
それは、やはり橘の振る舞いによるところが大きいのだろう。
最大の当事者である橘が微動だにしていないのだ。
――むしろ周囲の発言を抑制するようなオーラを放っていた。
だから、2年C組は平静を保っていた。
ちょっとした刺激で噴火しそうなマグマを抱えながらも。
しかしいつの時代も突然現れる黒船が、世界の平穏を揺るがすのだ。
太平の世を乱すのは、外部からの来訪者。ペリー提督を取り出すまでもなく。
そして昼休み。そいつはやってきた。
隣の教室から、僕らのクラスにやってきたのだ。
栗色の長い髪。高めの身長。
高慢そうな吊り目。整った美貌。
実際に裕福な家に育ったお嬢様。
空気を読まない、異国情緒の黒船。
彼女は我が物顔でBクラスの教室へと侵入すると、まっすぐに僕らへと近づいた。
そして伊織の机の横で、見下ろすように立った。両手を腰に当てて。
「――南伊織さん。あの写真、見せていただきましたわ。橘くんを袖にして浮気だなんて、身の程知らずもここまでくると一級品ですわね! 笑っちゃう。
でも安心なさって! 伊織さんはそのままどうぞそちらの冴えない男子へと乗り換えていただけばよろしくてよ。
――心配されずとも、橘くんにはこの私、
――橘遥輝さま最愛の恋人として!」
右手の五本指をふくよかに膨らんだ胸に当て、花京院眞姫那が喝破した。
ちょっとした刺激で噴火しそうなマグマを抱えた教室。
そして花京院眞姫那は、全ての均衡を突き崩す刺激――そのものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます