第40話 スキャンダルな先輩と夜遊びする妹(京都・京都駅前予備校〜川原家・自宅)[2023/1/16 Mon]
――名前に『
そんな懐かしすぎるネタが、持ち出されるとは思わなかった。
誠実から「ウ冠」と2本線の「二」を取れば誠大になる。
だから『
そんなことを言ったのは、中学の時の現国の先生――吉原先生だった。
「――それ吉原先生のネタですよね? ――よく知っていますね」
「――あ、――うん」
先輩は少し戸惑ったような、困ったような表情を浮かべた。
――僕が吉原先生と彼女のことを知っているか、知らないのか。
だから、きっと判断しかねているのだ。
――知らない後輩に、わざわざ彼女と吉原先生のことを話すべきか。
もちろん話し始めれば、それはきっと三年前のスキャンダルを掘り返す。だからその曖昧さは、僕から解消するべきだと思った。
「――あ、すみません。吉原先生と先輩のことは知っていますので」
「あ……、そうだよね。知っているよね。うん。気にしないでね? 私、特に傷ついたりしているわけじゃないから」
シャーペンをノートの上において慌てて両手を振った先輩。
その様子から、逆に当時は傷ついたんだろうな、とか思った。
そして回りから傷ついたんでしょう? などと言われ続けたのだろう。
「でも君、私のことよく覚えていたね? たぶん私と直接には絡みとか無かったよね? いくらあの事件があったからって、全校生徒が私の顔を覚えているってわけじゃないとおもうけれど……。――どこかの委員会で一緒だったりした?」
彼女はそう言って首を傾げた。
先輩の黒くて綺麗な髪は後ろでアップにまとめられている。
きれいな項が白く滑らかに露出していた。
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
特に顔を覚えられているのが嫌とかそういう様子ではなかった。
スキャンダルがあったのだから皆が顔を覚えているわけではない。
全校を賑わせた事件だったとはいえ、学校内の話だ。
新聞や雑誌に顔写真が掲載されるわけではない。
さらに事件発覚からすぐに先輩は学校に来なくなった。
彼女自身の風評被害や学内でのスキャンダルの加熱を恐れた教職員の判断。
実質的な謹慎処分だったと聞く。
だから事件の後、その生徒がどんな生徒だったか確認しようにも、それまで交流の無かった生徒は、その顔を見ることができなかった。
「――実は一週間くらい前、ちょうどお二人のことお見かけしたんですよ」
「え? ――どこで?」
「太子道沿いのVドラッグ」
近所のドラッグストアの名前を口にする。
先輩は目を開くと、漫画みたいなリアクションで手を打った。
「行ってた、行ってた。先週ね。吉原先生と。――家、近いの?」
「え? 近いですよ? 町内は違いますけど。――ていうか、同じ中学なんですから、大体近いでしょ? 引っ越してなかったら。公立中学だし」
「あ、それもそうか。――なんだか私立高校で外に出ちゃうと、近所にクラスメイトとか同じ学校の後輩がいるとかいう感覚、忘れちゃうよね」
「――わかります。僕も、私立なんで」
「え? どこ?」
先輩が尋ねてきたので、僕は自分の学校の名前を答えた。
と言っても制服を着ているので、分かる人には分かると思うのだけれど。
「うそ。――名門じゃん」
「まぁ、一応。――進学校ですね」
「私も、最初っから受験勉強してたら、狙えたのかもしれないけどなー」
実質的な謹慎のせいで、中学3年生後半の出席日数は壊滅的なものとなった。
生徒会長の途中辞任なども手伝い、内申点が期待できなくなった先輩は、公立高校の受験をやめて、私立高校へと進学先を変更したのだと聞いた。
何故か詳しかった遙香さんから、――この間。
「先輩。電撃でしたからね。学校休みだしてから、志望校変更したんでしょ?」
「よく知っているね? まー、人生、あっちが立てば、こっちが立たず――よ」
頬杖を突いて唇を尖らせている先輩。――思っていたよりずっと気さくな人だ。
「それで、あっちは立っているんですか?」
「おかげさまで」
先輩はにっこりと嘲笑った。幸せそうで、なんだかうらやましかった。
遙香さんは「ロリコンは治らない」とか先輩が吉原先生に捨てられること前提のように話していたけれど、今目の前にいる先輩からはそん雰囲気はまったく伝わってこなかった。
「――ちょうど、この前、先輩を見かけた日に、伊織の家で話していたんですよ。……あ、南伊織って僕の同級生なんですけど。――わかります?」
「うーん、ごめん。わかんない」
「あ、ですよね。――気にしないでください。それで先輩がもう一八歳だから、その気になれば吉原先生と結婚できるんだよね、って」
僕がそんなことを言うと、先輩は驚いたように口を開いた。
「――あ、ごめんなさい。すみませんゴシップみたいに噂して。他意はないんです」
「ううん。気にしないで。でも、そういう風に結婚を意識する関係に見えたってことだよね? 私と先生がVドラッグにいた時」
「はい。正直、新婚カップルか何かだと思いました」
先輩が僕の肩をポンポンと叩いた。にやけながら口元を抑えて。
「君、
「――河原誠大です」
「誠大くん」
なぜだか名前呼びされた。こんなにもフランクな人だったんだ。
中学の生徒会長だった時は、もっと真面目でお硬いイメージだった。
人は見かけには寄らない。――少なくとも遠目の見た目には。
「でも、その日話していたときには、遙香さんは『結婚はなかなか難しいんじゃないか』って言っていて、どうなのかなって――」
そこまで言って、いらないことを言ってしまったと、気づいた。
「――あ、すみません。他人のプライベートに踏み込むようなこと言って。何でもないんです。――忘れてください」
僕が発言をかき消すみたいに両手を振ると、先輩はすっと目を細めた。
「――遙香さんって、誰?」
「え? ああ。さっき言っていた僕の幼馴染の南伊織の姉です。南遙香」
「――南遙香」
先輩の眉がゆっくりと寄る。
細めた目はさっきまでとは異なる鋭利さを放っていた。
「――先輩?」
「あ……、ううん。何でもない。ごめんね」
「――あ、いえ」
ハッとしたように、表情を元に戻すと、先輩は笑顔を作った。
――どこか、取り繕うみたいに。
「誠大くんは自習? 高校二年生から偉いね」
「――あ、いえ、そんなことないです。――先輩は?」
「うん。まぁ、大学入試共通テストが終わったから、ちょっと切り替えようかなって。――それで久しぶりにこっちのフロンティアホールに来たの」
そういえば先輩は高校三年生だから本来なら別校舎だ。イオンモールに近い方。
「先輩は国公立狙いなんですか?」
「うん。うちの家、あんまり裕福じゃなくてね。そもそも私立に行くのは結構厳しいんだ。本当は高校も公立のハズだったのに、私のせいで私立に行くことになっちゃったから、――大学は絶対に国公立って。それが結婚の条件でもあるの」
「へー、そうなんですね……。――もし大丈夫なら、志望校教えてもらっていいですか? 参考にしたいんで」
「良いけど? えっとね――」
先輩が口にした大学名は案の定だった。京都が誇る名門大学。
偶然にも遙香さんが通っていて、現時点では僕の第一志望でもある大学。
その事を告げると、彼女は「じゃあ、お互い、頑張りましょう」と微笑んだ。
*
JR山陰線に揺られて自宅に到着する。
自宅の玄関の前で扉を開けようとしている姿を見つけた。
驚いて目を凝らす。警戒しながら。
「――絵里奈。何やっているんだ? こんな時間に」
「あ、おかえり。――お兄ちゃん」
振り返った絵里奈は、どこか気まずそうだった。
きっと夜遅い帰宅を僕に見られたから、バツが悪いのだろう。
「あ、――えっとね。ちょっと勉強教えてもらっていたら、遅くなっちゃった」
「――そうか。――夜は危ないからな。……気をつけるんだぞ」
「――うん。――ごめん」
鍵が見当たらずに、探していたみたいだ。
僕がポケットのキーケースから玄関の鍵を取り出して扉を開けると、絵里奈は我先にと家の中へと入っていった。
父親が死んだ我が家において、絵里奈の帰宅時間に一番厳しいのは兄の僕だ。
母親は自分自身が規則正しい時間に帰って来れないことも多い。
だから、母親は絵里奈の帰宅時間管理を諦めてしまった。
口酸っぱく言っても、自分がそれを確認できないのだから仕方ない。
それに帰宅時間が不規則な人間が規則的な帰宅の重要性を説いても、あまり説得力が無いのだ。
「――絵里奈。……今日は誰と――」
「ん? どうしたのお兄ちゃん?」
洗面所で早速制服を脱ぎだした絵里奈がキャミソール姿のまま振り返った。
僕の声がよく聞こえなかったのか。
「――いや、なんでもない」
「――ん。じゃ、いいけど」
絵里奈も今は中三の冬。もう立派に自分で判断が出来る歳なのかもしれない。
先輩が吉原先生と恋をしたのと同じ歳なのだ。
そのプライベートにどこまで踏み込んでいいのか、わからなくなった。
先輩と話した後だと、――余計に。
「あのさ。お兄ちゃん。一応、ちゃんと説明しておくね――」
でも僕のそんな表情を察してか、部屋着に着替え終えた絵里奈は、ソファに座る僕のところまでやってきた。そして妹は、自分からちゃんと説明をしてくれたのだ。
近所の図書館でボランティアで塾のようなことをしている人がいるのだという。
友達と一緒に試しに参加してみたら分かりやすくて、よく通っているのだと言う。
そこの先生が特に意欲のある生徒に時間外指導してくれているのだという。
高校受験の季節が近くなってきたこともあり。
「私、塾、行ってないじゃん。だから学校以外で、勉強教えてもらうの新鮮なんだ」
「そっか。――それは良かったな。――そのうちお兄ちゃんがその先生にお礼しないといけないな」
「もう〜。やめてよ〜。そういうの恥ずかしいから」
そう言って絵里奈はソファのクッションを投げつけてきた。
絵里奈が僕に黙っていた理由が、ちょっとわかった。
父親が死んだ後のわが家の家計には、決して余裕があるわけではない。
僕は塾に通わせてもらっているけれど、妹は行っていない。
絵里奈が「私は別に塾なんて行かなくても大丈夫だから」と言っているのだけれど、それは家計における塾の費用負担を思ってなのは明らかだった。
だから僕に言えば気を使わせると思ったのだろう。
無料のボランティア塾へ参加していることを。
僕が国公立の大学を狙っているのも、家計への負担を抑えたいという思いはある。
まぁ、似たもの同士の、兄妹なのかもしれない。
「――でも、あまり遅くはなるなよ。夜道は危険だからな」
僕が頭をポンポンと叩くと、絵里奈は「――わかった」と素直に頷いた。
*
『――もしもし、誠大くん』
「咲良。――どうしたんだ、こんな時間に?」
お風呂に入って、パジャマに着替えて、もうすぐ寝ようかというところだった。
スマートフォンのLINEに音声通話の着信が入った。
『あ――、ううん。なんでもないんだけど。――ちょっと声が聞きたくなったっていうか――』
それは、どこかふわふわとした言葉だった。
まるで恋人
少し不思議に思うと共に、なんだか安心感みたいなものも胸に広がった。
急に咲良に会いたくなってきた。その頬に触れたくなってきた。
恋人
あの日、このベッドで抱いてから、咲良の身体に触れていない。
高校生男子には当然、性欲がある。
頭の中には妄想が広がり下腹部を刺激する。
「――まるで恋人みたいだな」
『恋人でしょ? 本当は、私たち?』
「――うん、そうだよな」
『私、ちょっと恐いの。――ねぇ、誠大くん。――恋人
「――ああ、そうだな」
『私、不安なの。――全部、変わっちゃうんじゃないかって。――戻れなくなっちゃうんじゃないかって。……私自身――』
その言葉は、僕にとって納得できるものでもあると同時に意外なものでもあった。
――今朝、登校路で、橘と仲良さそうに歩いていたのはなんだったんだ?
――君は恋人
そんな黒い感情が腹の奥で渦巻く。
――戻れなくなるのは僕か? それとも咲良が戻れなくなるのか?
『――ねぇ、誠大くん。明日、話せないかな? 昼休み』
「え? 別に、いいけど。――大丈夫なのか? 橘は」
『うん。明日なら、――大丈夫だと思う。――じゃあ、明日の昼休み。Bクラスまで迎えに行くね?』
「――わかった」
『じゃあ、今日はおやすみなさい』
「うん。――お休み。咲良」
僕はそう返して、LINEの通話を切った。
咲良は本当に、恋人
僕は本当に、恋人
脳裏に伊織の笑顔がちらつく。
そしてその目は昏くなり、頬に涙が流れた。
開いたLINEのアプリ。また伊織とのチャット画面を開く。
メッセージ欄には、まだ何の返事も返ってきていなかった。
さすがに、変だ。これは、何かがおかしい。
形の無い不安感が、また足元から這い上がってくる。
僕はスマートフォンのカレンダーアプリを開く。
明日の昼休みに「咲良と会う」という予定を入れた。
画面をスワイプして、放課後の予定欄を開く。
画面をタップすると、僕は予定の新規入力を行った。
タイトルは――「南家を訪問」。
もし明日も伊織が欠席していたら、直接、伊織に会いに行く。
遙香さんに止められても、伊織に拒絶されても。
――今度こそ伊織と、ちゃんと話そう。
僕の思いを告白できるかどうかは、わからないけれど。
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