第41話 彼女の肉感と幼馴染の微笑(学校・美術室〜南家・玄関)[2023/1/17 Tue]

 1月17日の火曜日。

 今朝も伊織は、僕を迎えには来なかった。


 せめて学校には戻ってきていたらいいなと思っていた。

 だけど、それも叶わぬ思いだった。

 いつも君が座る、僕の斜め前の座席は空席だった。


「――伊織、今日もお休みみたいだね」

「ああ、そうみたいだな」


 篠崎澪が声を掛けてきたので、僕は頬杖を突いたまま返した。

 幼馴染の親友が隣に立つ。何か言いたそうだった。


 日曜日のこと。僕だって聞きたいことがある。

 だけど、それを聞くのは、今じゃない気がした。


 篠崎と「転生聖女」との繋がり。

 僕にキスした理由。

 教室で話せる内容ではない、というのもあるけれど。


「――ちょっとお見舞いにいってみようかなって思っているんだ」

「本当? うん、是非行ってあげて!」


 机の横にしゃがむと、篠崎澪は僕に目線を合わせた。

 僕は頷いて応じた。


 彼女は僕が伊織に接近することを、良しとしているみたいだ。

 一方で「転生聖女」は伊織を狙い撃ちしているように思う。

 篠崎が「転生聖女」の手先だとすると、そこには矛盾があるように思えた。

 ――先週木曜日の黒板の落書きが「転生聖女」の犯行だとすればだけど。

 

「――また、報告するよ。篠崎さん」

「わかった」


 そういえば――と、僕は視線を前方へと向ける。


「あれ? 橘、今日、まだ来ていないのかな?」

「うん、来てないみたいだね」

「珍しいな。いつもならこの時間には来ているよな?」

「うん。――ていうかホームルーム、始まりそうだよ」


 教室前方の扉口に、担任の教師が姿を現す。

 篠崎は「じゃあね」と、小さく手を振って自席へと戻っていった。


 彼女の囁くような声が鼓膜を刺激して、日曜日の記憶を呼び起こす。

 ――押し付けられた、彼女の胸の膨らみと、触れた唇の感触。

 その記憶だけで、篠崎澪のことも、女性として意識しそうになる。

 僕は頭を左右に振って、そのイメージを追い払った。

 彼女はそういう対象にはなりえない。――伊織の親友なのだから。


 そしてホームルーム。今日も一日が始まる。

 担任教師は橘が「家庭の事情で欠席」だと告げた。


 それがどんな「家庭の事情」なのかは、告げられなかったのだけれど。



 *



 昼休み。サンドイッチに手を付けずに待っていると、廊下に咲良の姿が見えた。

 彼女が教室に入ってくる前にと、僕は無言で席を立つ。

 

 先週、橘が恋人交換スワップをカミングアウトして教室は揺れた。

 その内の一人が咲良であることは、クラスメイト達に知られているのだ。

 だから彼女とクラスメイトの無用な接触は避けたかった。

 僕は咲良が傷つくところだって見たくないのだ。もちろん。


「――ありがと。誘いに来てくれて」

「――うん。……えっと、教室じゃ喋れないよね?」

「だな。良くも悪くも有名人だし」

「――やっぱり?」


 まぁ、本当はじゃなくて、なんだけど。


「廊下もちょっと寒いし、どっかいい場所――」

「――美術室にいく?」

「いいの?」

「うん。多分、誰もいないと思う」


 咲良が先導して歩き始めたから、僕はその後を追った。


 美術室を密会場所みたいに使うのは、なんだか申し訳ないなと思いながら。

 


 *



 僕らは美術室にあるベンチに並んで座る。

 この部屋特有の絵の具の匂いが鼻を突いた。


「あんまり美術室って、昼ごはん食べる場所って感じじゃないよな?」

「――もう、誠大くん、贅沢を言わない」


 隣で咲良が冗談っぽく頬を膨らませる。

 そんなやりとりを「どこか懐かしいな」と感じる。


 ほんの二週間前まで僕の隣には咲良がいて、それが当たり前だったのに。

 隣を見ると、一年間の間に見慣れた白い肌と落ち着いた横顔があった。


「今日、橘、休みみたいなんだけど、――咲良、何か聞いている?」

「ううん。詳しくは聞いていないけど。――家の事情か何かだって言ってたよ」

「――そっか」


 それは先生の説明と同じだった。

 本当にそうかもしれないし、橘が二人共に嘘をついているのかもしれない。


「あ、……だから、今日の昼休みは大丈夫だって言っていたのか?」


 咲良は僕の質問に、コクリと頷いた。

 そういうことか。咲良が昨日、電話をかけてきて、二人で会おうと言った。

 そこには、「休んでいる橘の目を盗んで」という意味が含まれていたのだ。


「――橘とは上手くいっているの?」


 僕がそう話を振ると、咲良はこっちを向いて唇を尖らせた。


「誠大くんは、私と橘くんがいると良いと思っているの?」

「そんなことは思っていないよ。――それは嫉妬しちゃうよ」

「――本当に?」


 疑い深く、覗き込む瞳。


「……本当さ」


 僕は、心の中で閉じた蓋を、開かれないように持ちこたえた。


「――そっか。……良かった」


 安心したように呟くと、咲良はお弁当の包みを開き始めた。

 綺麗に彩りよく並べられたウィンナーや卵焼きが姿を見せた。


 時々作ってくる、彼女自身の手作りお弁当だ。

 付き合っていた時には、何度か作ってもらったこともある。

 さすがに周りに見られたら冷やかされるので、二人でこっそりと食べた。


「――咲良、それ自分の分だけ? 僕の分とか」

「欲しかった? じゃあ、ちゃんとした彼氏と彼女に戻ったら、また作ってあげる」


 彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。をするみたいに。


 ――ちゃんとした彼氏。

 その言葉が僕の頭の中で反響する。


 ちゃんとした彼氏にできて、ちゃんとしていない彼氏にできないこと。

 そんな行為のイメージが頭の中にウィルスみたいに広がっていく。


 咲良の左肩が、僕の右腕に触れた。

 それは柔らかくて、心地よかった。


「――咲良」

「何? ――どうしたの? 誠大くん?」


 髪の毛から、彼女の匂いがする。

 僕の部屋のベッドで、彼女の部屋のベッドで、何度も嗅いだ匂いだ。


 咲良は僕に出来た初めての彼女で、初体験の相手だった。

 その服を脱がして、その肌に触れた。

 その胸の膨らみに触れて、その唇を唇で押し開いた。

 そして白いシーツの上で一つになった。


 一度、その快楽を味わってからしばらくは、抜け出せないくらいに溺れた。

 夏から秋にかけては学校の外で会えば、必ずセックスをしていた。

 その体の感触が、僕の肌に記憶として刻まれるくらいに。


 咲良の体に、もう二週間近く触れていいない。

 その花の暖かさに、もう二週間近く包まれていない。


「――ねぇ、誠大くん。――恋人交換スワップって止めちゃだめなのかな?」

「咲良は止めたいの?」

「――それは、……そうかな?」


 一瞬、言い淀んだ。

 それが何を意味するのか、一瞬で考えを巡らせる。

 ――僕の腹の奥に、黒い塊が蠢いた。

 下半身の血の流れが、中央へと集まっていくのを感じる。

 

「――やっぱり伊織ちゃんのこともあるし、――学校の皆に知られちゃったし」


 咲良は言わない。橘と恋人の振りをするのが嫌だとは、言わない。

 僕は思い出す。登校路で仲睦まじげに歩いていた二人の姿を。

 昨日のLINE通話でも、咲良は言っていた。


『――戻れなくなっちゃうんじゃないかって。――私自身』


 それは、咲良の心が橘に傾きつつある、ということなのかもしれない。

 それは、橘に咲良を抱く準備が出来つつある、ということかもしれない。

 

 隣に座る彼女の体が、肉感的に見えてくる。

 制服越しに、その体の形が浮かび上がってくる。


 今、恋人交換スワップを止めれば、僕らは元に戻れるのだろうか?

 僕はまた、この柔らかな体を抱きしめることが出来るのだろうか?

 僕はまた、その二つの膨らみに顔を埋めることが出来るのだろうか?


「――そうだな」


 無意識に右手が伸びる。僕の手が咲良の右の腰へと掛けられる。

 それは制服のスカート。手をすこし動かすと、太腿を覆う布地がずれた。


「――誠大くん? 駄目だよ。学校だよ?」


 お箸をお弁当箱の上に置いた咲良が、左手で僕の右手を押さえた。

 二週間ぶりの彼女の感触が、僕の下腹部を強く刺激する。

 彼女の抵抗は、まるで僕を誘っているようにすら思えた。


 咲良が僕の顔を覗き込む。上目遣いに。

 僕のことを怒って制止するように。その一方で、――僕を誘うみたいに。


 その唇がふっくらと、開かれる。

 その目がうっすらと、細められる。


「――咲良」

「――誠大くん」


 彼女が目を閉じた。

 僕も目を閉じた。


 視界が暗闇に包まれた。

 ――その瞬間。

 僕の頭の中でイメージが弾けた。


 それは伊織の笑顔だった。


 小学生の頃、公園で一緒に遊んだ彼女の笑顔。

 南家で、志保さんや遙香さんと一緒に食卓を囲んだ時の笑顔。

 一緒に京都駅前のショッピングに繰り出した時の笑顔。

 

 それは伊織の涙だった。


 父親が死んで、どうしようもなくなった僕の隣で流してくれた涙。

 先週教室で、追い詰められた伊織が、流した涙。 


 僕はゆっくりと目を開く。


 そして同時に見つける。


 顔を逸らす、――咲良の横顔を。


 本当の彼女は、僕のキスを――避けていた。

 

「――やっぱり、止めておこう? 誰もいなくても。……学校だし」

「……そうだな」


 それはどこか白々しい言い訳だった。

 

 僕らは結局、似た者同士のカップルなのかもしれない。



 *


 授業が全部終わってホームルームからも解放されると、もう四時半近かった。

 僕はテキストやノートを鞄にしまうと、無言で席を立った。

 部屋を出る前に、篠崎さんと目が合った。

 彼女が小さく手を振ったから、僕は右手をそっと上げた。

 ――これから会いに行ってくる。

 そう伝えるように。


 校門を出ると、早足で京都駅へと向かった。

 八条口から地下へと降りると、地下鉄の改札を抜けた。


 烏丸線から東西線への乗り換えは必要だけど、伊織の家へは地下鉄の方が近い。

 太秦天神川駅から歩いた方が、JR花園駅より歩くよりか体感的に近いのだ。

 ――厳密な移動時間で計算すれば、JRの方が早いかもしれないけれど。


 烏丸御池駅で東西線に乗り換えて、終点の太秦天神川駅で降りる。

 駅の階段を上って、地上に出ると、もう辺りは随分と暗くなっていた。

 ――冬の太陽が落ちるのは早い。


 今から、僕は南家を訪問する。

 土曜日には、遙香さんに門前払いされてしまった。

 だけど、今日は絶対に伊織に会う。


 彼女が何に悩んでいるのか、本当のところは分からない。

 彼女が家でどうしているのか、本当のところは分からない。

 僕が会って伊織を元気づけられるのか、本当のところは分からない。

 だけど、これ以上、彼女を一人にするわけにはいかなかった。


 やっぱり僕は、南伊織のことが、好きなんだと思う。


 右京区役所前の天神川御池を左折して、北に向かう。

 眼下には天神川が流れる。

 嵐山を流れる桂川に下流で合流し、やがて淀川に合流する川だ。

 

 彼女の家まで、ここから五分とかからない。

 ――もうすぐだ。

 天神川に架かる橋に差し掛かる。


 その時、川の向こうを歩いていく人物の姿が目に留まった。

 男は、コートの襟に首を引っ込めながら歩く。


 これから僕が行こうとする方向から来て、向こう側へと去っていく。


「――橘?」


 ――その姿は、


 僕の足は硬直する。金縛りにあったみたいに。

 彼の背中が見えなくなるまで、僕はその場から動けなかった。


 その気になれば、背中を追うこともできた。

 その姿に追いついて、橘かどうかを確認することも出来た。


 でも僕は、それをしなかった。

 結局、僕は、逃げたのだと思う。

 そんな現実と向き合うことから。


 やがて僕は、南家の玄関口へと到着する。

 大きく息を吐いて、僕はインターホンを押した。


 呼び出し音が鳴って、家の中から「はーい!」という声が聞こえる。

 やがて玄関扉が開いた。

 扉口から、パーカー姿の少女が、姿を見せた。


「――あれ? 誠大じゃん。――どうしたの?」


 ――それは伊織だった。

 上気だった頬を赤く染めた少女が、僕に微笑んだ。

 すこしトロンとした目で。


 その顔を見ただけで、――僕は、泣きそうになった。












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