第4話 ベッドと正座(南家・伊織自室)[2023/1/1 Sun]
「――入って」
内開きに開いた扉のノブに手を添えたまま、伊織が声を潜めた。
まるで秘密の逢瀬に招き入れるみたいに。
でも、本当は、何にもない。
それくらい僕もわかっているけれど。
『誠大くん、ゆっくりしていってね〜』
「は〜い」
一階から伊織のお母さん――志保さんの声がした。
外から帰ってきたのは志保さんと、お姉さんの遙香さんだった。
僕らは入れ違いでダイニングから出たので、階段に掛かる暖簾越しから軽く会釈して、そのまま身を隠すように2階の部屋へと向かった。
遙香さんは大学2年生。
大学は通えない距離じゃないらしい。でも色々あって一人暮らししているんだとか。
志保さんは、まだ30代でとても若い。
遙香さんを産んだのは十代の時だったというのは近所では少し有名な話。
志保さんは、僕らが小学生の頃から、参観日にやってくる母親たちの中で、ダントツに若くてき綺麗だった。
だから悪ガキ共の中でも、志保さんは特別な存在だった。
他の
何年ぶりになるかわからない、幼馴染の部屋に足を踏み入れる。
なんだか、ぷうぅん、と女性の部屋特有の匂いがした。
化粧品の匂いかなんかだと思う。
「女の子の体から漂うスゥイートな匂いなんじゃぁ〜」というのはヤバイ妄想。
女の子の匂いって、多くの場合、女の子がつけている何かの匂いなのだ。
「何してるの? ぼけっと立ってないで、どこか座るかしたら?」
ベッドの端へと、伊織はぽすんとお尻を落とした。
白いベッドカバーの上に、ピンク色の柔らかそうな掛け布団。
ちょっと仰け反るように後方に両手をついて、僕を見上げている。
高校生になってから大きくなった胸が、ピンク色のワンピースを少し盛り上げる。
本棚に置かれた小物、机の上の化粧品、壁に貼られた女の子同士の写真。
昔、通っていた時には、気にならなかったことが、どうしても気になるみたいだ。
それはこの部屋が変わったからだろうか?
僕が変わったからだろうか?
それとも伊織が変わったからだろうか?
きっとその全部に違いんない。
「どこ座ればいいんだよ?」
「うーん。私の机の椅子でもいいし、床の座布団でもいいし、まぁ、ベッドの端に並んで座ってもいいけれど?」
「選択肢がどれも選びにくくないか?」
「――そう?」
よくわからなそうに伊織は首を傾げた。
伊織が使っている椅子に座るのはなんだか気恥ずかしい。間接的にお尻が触れ合うみたいで。
床の座布団には正座すると、ベッド端に座る伊織から見下される位置関係になる。
それはもはや完全に「説教モード」の反省部屋にしか見えない構図だ。
ベッドに並んで座るという最後の選択肢。
伊織、それはさすがに警戒心がなさすぎないか?
いくら幼馴染って言っても、僕も男なんだぜ。
ベッドの隣に座ったら、そのまま押し倒して――
そこまで考えて、ふと気づいた。
そもそもこの部屋に来たことがある男子が僕だけとは限らない。
いや、むしろ、橘が来ていないはずがない。
じゃあ、橘はどこに座っているんだろう。
やっぱりベッドに座った伊織の隣に座るのだろうか。
二人は恋人同士。ただの幼馴染の僕とは違う。
隣に座って、それだけで終わるなんていうことがあるだろうか。
そっと橘の右手が伊織の右肩に回る。
すると伊織は顎を少しだけ上げるんだ。
何かを待つみたいに。
橘の左手は伊織の腰に回る。
そして少しだけ抱き寄せる。
伊織の体から少しだけ力が抜けて、その紅さす唇の上に、橘の乾いた唇が重ねられる。
少しだけ、啄む音がして、そのまま二人はベッドの上に倒れ込むのだろう。
このベッドの上へと。
白いベッドカバーとピンク色の掛け布団の上で。
「――どうしたの、黙って? 誠大」
きっとそれはこれまでにあった現実。
もう高二だもんな。もう四年間の交際だもんな。
そういうこともきっとあったんだ。
伊織にそんなことを聞いたことはない。
遥輝もそんなことを言いふらす奴じゃない。
恋人
でも何回やった? いつからやってた?
僕の知らない間に、このベッドの上で。
橘は何回、伊織の裸体を抱きしめたのだろう。
橘は何回、伊織を裸体に剝いたのだろう。
「誠大、なんか顔、怖いよ? なんかあった? あれなら下から丸椅子とか取って来ようか?」
「あ、いや。大丈夫。気にしないで、気にしないで。ちょっと小学生時代のことが走馬灯のように脳内を駆け巡っていただけだから」
「走馬灯って。ヤバい。――誠大、死ぬの?」
「――いや、死なんけど」
今の逡巡で、脳細胞がいくらかは死んだ気はするけれど。
「この部屋って、遥輝も来たことあるの?」
ついつい愚問を投げかける。
「うん。もちろん。まー、なんだかんだで彼氏と彼女ですから、私たち」
そう言って、伊織は「へへへ」と照れくさそうに笑った。
その笑顔が、僕の胸の中に手を伸ばして、心臓をギュッと握りしめた。
「だよな。お前ら仲良いもんなぁ。鉄板のベストカップル」
「まー、長いしねー」
美男美女カップル。
中学2年生の時から付き合っているから、高校に進学したときにはもうお互いに売約済み。「あ、イケメンがいる!」、「あ、可愛い子がいる!」と目を煌めかせた女子と男子は、即座に絶望を知ったのだった。
今から考えると、伊織にいち早く着目し、告白して彼女にした橘には先見の明があったのだ。
あの頃の伊織は、まだ女性としての可愛さはあんまりなくて、お猿みたいだった。
そんな伊織は、橘と付き合いだした頃から、どんどん可愛くなっていった。
ちなみに橘はあの頃からイケメンで、モテていた。
いずれにせよそんな経緯で、二人は学年を代表するカップルみたいになっているのだ。
「なんで正座? 座布団に座ってって言ったのは私だけど、そんな反省している人みたいに両手を揃えて正座してもらうまでしてもらわなくて、いいんだけど?」
「あ、いや、ちょっと煩悩を払わないといけないかと思いまして……」
「煩悩って? まー、誠大がそれでいいならいいんだけど。そういえば今日の目的って、半分はお説教みたいなことあるしね」
そう言うと、伊織は「よいしょ」と足を組み替えた。
座るって足を大きく動かすと膝小僧が顔を見せるワンピース。
膝の間から、その奥が少しだけ見えた。
払ったはずの煩悩が、また
「まぁ、足が痺れるまでは、この体勢で正座しとくよ。お正月だしね」
「あげるお年玉は無いわよ」
意外とこの位置関係はコスパ(?)の良いポジショニングなのかもしれない。知らんけど。
お年玉は自分で取りに行きます。きりっ。
「それで、さっきの続きだけど。――誠大はどうしたいの?」
組んだ膝の上に両肘を突いて、ちょっと上から伊織が僕を見下ろす。
「リアル上から目線」である。なんだかこの関係で固定化されそうで怖い。
「さっきも言ったけれど、どうにかしたいのは橘なんだ。僕じゃない。僕はどっちかって言うと、伊織と同じような立場だと思うよ」
「――私と同じような立場?」
「そう。巻き込まれた立場」
「巻き込まれた立場」
僕の言葉を復唱すると、伊織は「なるほど」と頷いた。
「悪いのは遥輝なんだ?」
「そう。諸悪の根源は橘です」
「でもなんで、遥輝はこんなこと言い出したんだろう? ――私、何か、遥輝に嫌われるようなことでもしたかな?」
冗談めかして言いながらも、その瞳は真剣でだった。
どこか潤んでいるようにも見えた。
だから適当な言葉で誤魔化すのも難しかった。
「――それは無いと思うよ?」
「誠大はどうしてそう思うの?」
「だって橘は言っていたんだ――」
橘は言っていた。むしろ橘は伊織をちゃんと愛している。
「マンネリ」だとか言っていたけれど、きっとあれはそういうことじゃないんだ。
あいつなりに二人の将来をより確かなものにしていくための確認作業みたいなもの。
そういうものなのだろう。多分。あんまり橘の肩を持つ気はないんだけれど。
僕は、橘のセリフを覚えている範囲で復唱して説明する。
時に自分なりの解釈を入れて、あいつの抱える思いみたいなものを、伊織に伝えた。
一通り話を聞いた後、伊織は難しそうな顔で「うーん」と唸った。
そしてベッドの上にバタリと倒れ込んだ。仰向けに、両腕を広げて。
「――ねえ、誠大は納得しているの? 遥輝の言い分に。遥輝の行っていること、かなり変わっていると思うよ? ううん、無茶苦茶だと思う」
僕の幼馴染はひとり言みたいに呟いた。
天井を見上げたまま。
正直、それは僕も同感なんだよな。
問題はそれなのに、僕らはどうしてそれを真面目に検討しているのか? ということだ。
「納得はしていないよ。むしろそれから程遠い状態だね。僕も言ったよ、昨日さ。コロナで十分な青春を伊織と送れなかったっていうなら、『今からでも二人の時間を大事にすればいいんじゃないか?』って」
「うわ。正論。誠大が正論吐いてる」
「いや、僕、いつも正論だから。あんまり変なこと言わないから」
伊織の中で自分のキャラ付けはどうなっているんだか。
確かに中学時代にちょっと荒れていたし、あの頃は気苦労もかけたんだろうけど。
「うん、たしかに。偏見だったわ。そっか。誠大より遥輝の方がエキセントリックだったのね、うん、これは盲点だったわ」
一人で仰向けになったまま腕を組んでウンウンとうなずく伊織。
しかし、正座をしたままの僕と、その正面で足を床につけたまま仰向けになって天井を見上げる幼馴染。はたからみればかなり頭のおかしい構図に見えるのだが。大丈夫だろうか……。
突然、志保さんが入ってくることがないかと、入り口のノブを確認する。
ちゃんと内側からロックが掛かっていて、安心した。
でもそれは同時に「鍵の掛かった部屋に二人きり」という状況を意味するのだが。
「それで。それでも誠大は、遥輝の言い出した恋人交換に応じることにしたんだ。ねぇ、どうして? 咲良ちゃんのこと、遥輝に貸し出したりしていいの? 誠大の咲良ちゃんへの想いって、そんな適当なものだったの?」
伊織は言葉を滔々と天井に向けて吐き出す。
僕の顔を見ることなく、まるでドラマのセリフを口にするみたいに。
「――そんなわけはないだろう?」
高校二年生になって、一昔前なら結婚だってできるる年齢になった幼馴染の部屋。
なんだか知らない間に、女子の結婚可能年齢は十八歳になっていたけれど。民法改正で。
どうでもいいけど、十六歳の女子と、十八歳の男子なら、なんぼか十六歳の女子の方がしっかりしている気がするのだが。
結局、十七歳の男女が一緒にいたら、男子は床で正座をさせられるのが妥当なのだ。
「咲良ちゃんはこの話、知っているの?」
「いや、まだだよ。だって、僕だって遥輝に言われたのは昨夜なんだぜ。咲良に言うにしても、これからだよ」
「じゃあ、私なんかと話すより、咲良ちゃんと話す方が先じゃん。なんでこんなところで油を売っているのよ?」
「いや、そりゃ。伊織が起き抜けにLINE飛ばしてきて、緊急招集かけたからじゃんか」
「えー、人のせいにするー?」
「ただの真実ですからね。ハイ」
LINEで叩き起こされて、それで「先に咲良に説明しておくべき」は流石に理不尽で大草原。
まー、いいんだけど。
そして未だに仰向けで話し続ける伊織。シュールだ。
何か考えているのかもしれない。
僕は腰を上げて跪いた。彼女の表情を覗き込む。
その胸はピンクのワンピースを押し上げて、柔らかそうに盛り上がっていた。
抵抗できない思考が、僕の両手にそれに触れた時の感触を想像させる。
彼女は目を開いたまま、天井を見つめていた。
やがて僕の視線に気付いて、両肘を立て、半身を起こす。
「――咲良ちゃんには、ちゃんと説明して、了解を取るんだよね?」
「もちろん。四人共の了解がない限り進められるわけないじゃん。ヴァーチャルとはいえ、交換したら恋人になるわけだからさ」
両肘をついたまま彼女は「うん」と頷いた。
「咲良ちゃんは咲良ちゃんとして、じゃあ、あとは私と誠大が大丈夫かってことなわけだ」
「問題って何だと思う? 僕と伊織が一ヶ月間、恋人
自分でも幼稚にさえ思える「カマかけ」。彼女にとってはカマにさえならないのだろうけど。
僕がそう尋ねると、伊織は少し驚いたように両目を見開いたあとに、首を傾げて、言った。
「――それは無いかな?」
「だよね。だから伊織は安全なんだよ、――きっと」
「じゃあ、誠大はどう? 大丈夫?」
彼女はそう言って僕の瞳を覗き込んだ。その視線が僕を金縛りにかける。
やがて彼女は自分の隣のスペースをぽんぽんと叩いた。
その場所、彼女の隣、ベッドの端に座ることを促すように。
僕は促されるままに、その場所へと腰を下ろす。
幼馴染、南伊織の、至近距離。その隣へ。
「ねぇ、誠大。――じゃあ、試してみる?」
彼女はそう言って、僕にむけて両腕を広げた。
広げられた腕の向こう側に、彼女の枕と、もう一つ枕替わりになるクッションがあった。
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